本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『カード師』中村文則・作 目黒ケイ・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

 シュートを投げていれば、賭けから降りていれば、眼鏡の男のその後は変わったはずだ。
 だが、‥‥。
 一軍に上がり、登板の機会が得られても、そこで目覚ましい成績を上げるだろうか?
 負けを予知して勝負から降りれば、この場の負けはなくなる。でも、次のゲームで同じようなチャンスが訪れた時に、彼はリスクを下げることをするだろうか?

「(略)俺は投げたのかな、シュートを。そうしたら俺の人生はどうなっていたのか、どうもなっていなかったのか。‥‥どうだろうな。」

 眼鏡の彼は、今、たどり着いている境遇と気分を、必ずどこかで味わうと、私は思う。
 
 占いというのは、当たると思う。ただし、占いに従って厄難を回避して、幸福になったからと言って、その当人の心に変化が生じると、私は思わない。将来を予知できるとしても、その将来は果てしなく続く。
 どんなに、物質・境遇で豊かになろうと、より多くの財貨を得たいという欲は、減りはしない、と私は思う。

「僕」」は、再び殺人者になることを求められている。少年の頃は、悪魔に、殺人をなすことを求められた。今の「僕」は、現実の人間に、殺人を求められている。「僕」の中の悪魔「ブエル」と、神「ディオニュソス」は、何か言うだろうか?

 ポーカーの場面よりも、野球の描写の方がおもしろい。カードゲームに熱中した経験がないからだろう。
 眼鏡の男は、ホームランを打たれた一球による敗北感から抜け出せずにいたように思う。その後、ビジネスの面で、成功、勝利したこともあったろうが、それは、あの一球に比べると、小さな勝ちでしかなかった、と思う。
 今度のカードでの大敗と、あの一球との関係はどうなるのか?負けは負けでも質が違うのか?
 いずれにしても、眼鏡の男が何もかも失った負けによって、自分の内面を見つめ直し、吐き出しているのは確かだ。

 今宵も俺は俺の人生に期待し続ける。BET(賭ける)!」(107回)
 
 「あそこで降りるような人生を選んで‥‥、なにが面白い?」(109回)

 
後付けの理屈だ。賭博の場での判断と行動の底には、「賭博の魔力で自分を失う快楽に囚われている」があるのだと思う。
 これは、賭博だけではないと思う。人生のあらゆる場面で、人の最終判断は、快か、不快か、によると思う。

 眼鏡の彼は、賭博の魔力で自分を失う快楽に囚われている。他の賭博者と同じように。そして、僕も、彼らを誘導する快楽に、あるいは、‘’イカサマ“をしなくても、自分の配ったカードに翻弄される彼らを見る快楽に囚われている。

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