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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第259回2019/2/23 朝日新聞

 孫が可愛い、孫には子とは違う感覚が湧く、この感情に同意できる。しかし、この小説の今回の場面には共感できない。
①登場人物神田本人が言うように、この人物がこのようなことを言っても、なんの説得力ももたない。
②夏子と航太が共感しているようだが、初対面で事情のわからない人物から、急にこんなことを言われて、納得するのはおかしい。
③和尚の感心しているらしい姿も安っぽいドラマ仕立てだ。
 石井信也は、洋一郎と姉の前に顔を出すことはしなかったし、孫の顔を見に行くという行動は起こしていない。たとえ、孫の顔を見に行ったことがあったとしても、それを周囲に知られてはいない。この行動の方に共感できる。

 家族の代がつながることの大切さに話がつながりそうだが、川端さんも道明和尚も神田さんも、石井信也とは家族ではないのだ。実際に、石井信也を夫にもち、父にもった母と姉のことを忘れて、今回の話を聞いてはならないと感じる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第258回2019/2/22

 神田さんの行動に反感を感じる。
①ノブさんのことを偲んでいる気持ちはよいのだが、遺骨を傍に置いて、一緒に海を見るのは、芝居じみている。亡き友人を思うことと、その人の遺骨を傍に置きたいというのは別のことだ。
②世間一般の礼儀や敬語に無頓着というのはわかるが、いつまでも洋一郎のことを「息子」と呼び、さらに航太を「息子の息子」と面と向かって言うのは、嫌だ。
③「ひこばえ」も「萌芽更新」も何かの譬えとして、言い出したのであろうが、これではちっとも「シンプルで明快」ではない。
④ノブさんが息子がいるということを言っていたという話を、今まで洋一郎に言わなかったのもわざとらしい。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第257回2019/2/21 朝日新聞

 「遼星くんの命には、あなたやわたしや、備後のお義母(かあ)さんや、ウチの両親や、それに‥‥石井さんだっけ、あなたの実のお父さんの命も、溶けてると思うのよ。」(221回)

 夏子が、四十九日の法要に出ると言ったときの言葉だ。

「なんか不思議な感じなんだよね」
 航太は照れくさそうに言う。「遼星が生まれて、僕、叔父さんになったわけじゃない。自分の息子とは違うけど、代が半分ぐらい先に進んだ感じがするんだよ」(223回)
 
 航太が四十九日の法事に出ると言ったときの洋一郎との会話だ。
 この二人の言葉を、今回の神田さんの話から思い出した。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第256回2019/2/20 朝日新聞

 「あんちゃんはノブさんのことをなんにも知らないだろ。それじゃあ、じいさんと孫にはならんよ。あんちゃんは、いまはまだノブさんの息子の息子で、あんちゃんにとってのノブさんは親父の親父だ。」

 なるほど、「シンプルにして明快」な考えと言葉の使い方だ。
 航太は確かに、ノブさんのことをなにも知らない。そして、洋一郎も父との楽しかったやりとりを、つい先刻思い出したばかりだ。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第255回2019/2/19 朝日新聞

 「息子の息子」の意味が分かった。252回感想で感じていたような曖昧な意味ではなかった。
 神田さんのこの言葉の意味はなんだろうか?航太が「孫」になるためには、条件がいるということだろう。その条件は、洋一郎が実の父を、父として感じていなかったことに結びつくように思う。

 特別なところのない夫婦だ。
 親子関係に問題はないけれど、特になにか際立ったところがあるとは思えない。
 それなのに、今回のできごとを読むと、実に羨ましい家族と感じる。
 羨ましい家族とか、良い家族というよりも、現代の理想の家族像だと感じる。普段は、影の薄い父親であり、夫を気にしないで行動する母親であり、親のことを気にしない息子だ。それなのに、夫の気持ちの変化を察して、そっとしておいてやれる妻、夏子であり、子どものころの父親との記憶をしっかりともっている息子、航太なのだ。
 なんとも優柔不断に父の遺品の整理をし、娘や娘婿に遠慮しながら孫の誕生を喜ぶ、そんな洋一郎が、この家族の軸であるのだろうか。
 そして、姉や親類中が毛嫌いする実の父の思い出を、大切に心の底に潜めていたのが洋一郎であるのだろうか。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第254回2019/2/18 朝日新聞

 洋一郎と夏子は、本物の夫婦だなあ。

 両親と航太は、仲のよい親子だなあ。

 義理の父にも実の父にも、自分の父という実感をもてなかった。美菜と航太の子育ては、妻に任せっきりだった。子どもたちが大人となった今、家族の中での自分の存在になんとなくぎこちなさを感じていた。
 洋一郎は、そう描かれていた。
 しかし、それらとはまったく違うことが、今回で描かれた。


 読者として、驚いた。
 そして、洋一郎とともに、気分が すっきりした。

 親子の関係とは、子どもが幼い頃の日常のできごとが基盤になっている。親も子も高齢になっても、結局は、子が小学校に入る以前の親子の暮らしが、高齢の親子の関係をも決めるものなのだ。
 今回を読んで、そういう気がしてくる。人間の寿命が延びても、人間の体と脳が形成される年齢は昔と大きくは変わらないと聞く。子の幼少期の親子の在り方がなによりも重要なのだと思わせられる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第253回2019/2/17 朝日新聞

 普通の親子の関係であったなら、自分の息子の思い出話から、自分と父の昔のことを急に思い出すというのは、心が温まるできごとに違いない。
 洋一郎が、父になんのわだかまりももっていなければ、航太と自分の思い出から、死んだ父と自分の昔を思い出したのは、心の底が洗われる思いだったと感じる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第252回2019/2/16 朝日新聞

 洋一郎に、実の父の姿が湧き上がった。父の声、父の顔、そして、父のしたことに笑う子どもの自分を、急に、まざまざと思い出す。
 航太が「たまなし」の話を覚えていたことを洋一郎が、知る。そして、洋一郎は、実の父の「ぷん」の話を思い出す。息子が、父の昔の話を覚えていた。その息子の思い出に触発されて、今度は、自分が、忘れていた父のことを突如思い出した。思い出すと同時に、父のことに、恐らくは父の死に感情がたかまった。
 息子の話で、洋一郎に父を偲ぶ感情が湧く。まさに、「息子の息子」だ。

 「ぷん」のエピソードは、私たちの世代では共通の笑いのネタであった。「ぷん」という言い方はしなかったが、そのやり方と、言い方は、父なり兄なりがやって見せたり、子ども同士でもやりあって大笑いしたものだ。娯楽の少ない時代、銭湯が一般的だった時代、家庭の小さな風呂でも家族で湯に入った時代の産物だ。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第250回2019/2/14 朝日新聞

 夫には、定年が見えていて、娘に初孫が生まれたという状況の妻(母・祖母)の感覚が、うまく表現されていると感じる。
 妻である夏子さんがどう動くか、楽しみだ。夏子さんが、法事で川端さんや田端さんとどんな会話をするのか。さらに、西条真知子さんと神田さんをどう見るのか。
 洋一郎が、亡き父と、西条さんや神田さんとの事情を、妻に詳しく話している場面はないのだが、それを知らずに夏子さんがこれらの人たちに会ったら、どうなるのか。

 『ひこばえ』には、エンターテインメントの要素が少ない。この章は、後藤さんがどうなるか、後藤さんの息子がどんな出方をするか、に読者の興味が引きつけられてきた。それなのに、後藤さんの息子の反応を後回しにして、洋一郎の家族の会話が何回にも渡って続く。それは、読者を焦らすというよりは、この平凡そうにみえる車の中の会話が、後藤さんの息子の出方よりも重要だからなのだろう。

 この小説の流れでいくと、先にあげた夏子さんと、他の参列者のことなど取り上げられなくて、ストーリーは、法事後の場面か、あるいは、後藤さんの息子と洋一郎が何らかの方法で接触する場面になるのかもしれない。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第249回2019/2/13 朝日新聞

 我が子が、子どものころの思い出として、私(父)の何を覚えているのか、見当もつかないし、それを話題にすることもない。
 私自身の子どものころは、親類が祭りや法事などで集まることが多かった。そういうときには、それぞれの子どものころの失敗談が繰り返し話題になった。そういう会話を通して、過去の親子関係が見えてくることもあった。当時は、そんなことは思わなくて、親戚同士のくだらない雑談だとしていたが、ちゃんとした効用もあったことが、今頃わかる。

 洋一郎夫婦と息子の航太も、父の法事という機会がなければ、このような家族の姿の振り返りはなかったはずだ。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第248回2019/2/11 朝日新聞

 洋一郎は、妻と息子と一軒の家に住んで、毎日顔を合わせている。だが、その三人が一緒に行動し、家族での思い出を振り返ることなど普段はない。たまたま、父の法事に出るために出かけたので、家族で息子の子どものころのことを話す機会を得た。

 結婚式、出産祝い、葬儀、法事、これが家族、親類が集まって、互いに話をする機会だった。さらに、定例として盆の墓参りは、独立した子が親元を訪れ、親類とも顔を合わせた。これが、昭和までの慣習だった。それが、どんどん縮小している。盆と正月の帰省が少なくなれば、これらの慣習は消滅するだろう。
 今まで通りの葬式や法要には、金もかかるし、無駄も多い。だが、法事を例とするなら、参列者が集まって経をあげてもらう式そのものに意味があるのではなく、その式に出るために、家族と親類と故人の知人が互いに連絡を取り合い、交流することに価値があったと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第247回2019/2/10 朝日新聞

 父の入居金さえ払えば、後は、施設に任せっきりで、施設長からの電話に出ようともしない息子。それが、後藤さんの自慢の息子、マサくんこと将也さんだ。
 その将也さんからの、電話を待っている洋一郎はというと、別れたままだったとはいえ、実の父が死んだという連絡を受けても、駆け付けもせず、遺骨を引き取ろうともせず、おまけに四十九日の法要の手はずは、他人任せだ。
 一時代前なら、この二人の息子は、とんでもない薄情者、親不孝者とされただろう。

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