本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』第36回
 「黒いスーツ姿の女性」と「広岡」の関係がだんだんとはっきりとしてきました。そして、それが、会話で表現されています。
女性はいくらかからかうような口調で言った。
 表情や動作ではなく、会話とその口調を書くことで、いろいろなことが説明できることが分かります。電話だと、口調は、なかなか伝わらないと思います。同様に、電子メールは、文章によるニュアンスを伝えるには、手紙とは別のものになるような気がします。
 この小説から、対面しての会話が、いろいろなことを伝えることに気づかされてきました。さらに、同じ言葉を口にしても、口調で伝わるものが違ってくることを考えさせられます。
 通信機器に使ってのコミュニケーションが便利さを提供していますが、同時に対面しての会話とその会話に含まれる口調の役割を忘れつつあると思いました。
 

 よろしければ、クリックお願いします。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説『春に散る』第35回
 私が、誰かと久しぶりに会ったことがあるだろうかと思い出してみました。同窓会の類はほとんど行かないし、生まれ育った土地から遠くへ引っ越したということもないので、ほとんどそういうことはありません。
 珍しく出席した同じ職場のOB会に行き、30年ぶりくらいに会う人たちと話したことがありました。その折りもみんなそれなりに年を取った、人によって年の取り方には違いある、などと感じたくらいでその会が特別に楽しかった思い出はありません。いわゆる昔話をすることに興味を持てないからなのだと思いました。どうして、思い出話を楽しめないのかというと、自分でもその理由が分かりません。

 「広岡」は、試合後の会場で、「黒いスーツ姿の女性」と眼を合わせました。「広岡」の方からは、何も言わないのにその女性は、彼のことに気づきました。40年ぶりと言うと、この二人がほぼ同じ年齢として、10代で会っていても50歳代になっています。見ただけで、気づき会える年齢の限界に近いような気がしましたし、二人の交流はかなり緊密なものだったことが分かります。

よろしければ、クリックお願いします。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

 家族が買い、本棚に以前からあったのが、気になっていたので、読み始めました。上巻の半ばまでおもしろく読めました。
 ある時、目次の書き方が変なのに気づき、よく見ると、文庫の3巻本でした。我が家には、上下しかありません。近所の大型書店に行きましたが、この作品は置かれていませんでした。ないとなると悔しいので、ネットで注文して手にいれました。
 そのころから、なんとなく読みづらくなってきました。その最大の原因は、「吉里吉里語」の発音表記です。発音すればおもしろいのですが、漢字へのルビになっているので、老眼鏡が必要な私には負担です。
 そのうちに、登場人物の名前や行動の誇張表現をだんだんに楽しめなくなりました。

 地方の独立という設定そのものには興味があり、作者の考え抜かれた主張も見えるのですが、肝心のユーモアの部分を楽しめなくなると、この小説自体を読み進めることができなくなりました。
 新しくなった中巻を添えて、本棚に戻します。

朝日新聞連載小説『それから』第24回
 今までの回から、「代助」は旧時代の武士の生き方と考え方を嫌っていることが分かります。古い時代の考え方を嫌っているのと同様に、明治時代という新時代の実社会での生き方にも、興味を持てないことが分かりました。
 また、「代助」は、英語を理解して、英国や外国の文物に触れる機会が多かったことも分かりました。
 この回では、その「代助」が英国人が主催する園遊会で、その会や英国人と話し合うことに興味を持てないことが描かれていました。
 日本の古い時代の考え方も、日本の今の時代の考え方も、外国の文明も、そのいずれにも飽き足らない思いをもっている「代助」の姿が浮かび上がります。
 彼は、自分が強く興味をもてることをどの方向に見つけていくのでしょうか。 

 話題は変わりますが、106年前の日本人の英語に対する態度が出てきましたが、現代とあまり変わらないような気がしました。学校での英語教育を、会話中心にするというのが、昨今の流れだと思いますが、あまり変化は見られないような気がします。私は、英語圏の人が身近にいる時期もありましたが、今は英語を生で聞く機会は全くありません。こういう環境では、耳と口で英語を、というよりは、英単語を一つでも覚えて、簡単な英文を読めるという昔ながらの方法の方が役に立つような気がします。それを、実行するのは難しいのですが。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ  クリックがはげみになります。

朝日新聞連載小説『春に散る』第34回
 チャンピオンが挑戦者をノックアウトしました。あの女性のうなずきがきっかけになったと読めます。この回では、そのことには触れられていません。
 
 文章は、書かれていることだけを読むのではおもしろくないのです。小説は筋の展開だけを追うのではおもしろくないのです。書かれていないこと、ストーリーの伏線になること、それらを読み取るところにおもしろさがあるのでしょう。だから、新聞連載小説の1回分についてだけでも、読み手の数だけ読み取り方が出るものなのです。だから、読書感想も読者の数だけあるはずだと思います。

 「広岡」が日本に帰ってきた目的は、ボクシングの世界でこの「黒いスーツ姿の女性」がしている役割と、重なるもののような気がします。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ クリック、おねがいします。

朝日新聞連載小説『春に散る』第33回
 「黒いスーツ姿の女性」、リクールトスーツを着る年齢ではないとすると、何か儀式的なことの参加者というイメージが浮かびます。ところが、前回から登場したこの女性は、ボクシングのリングサイドにいるのです。
 そういえば、先日の世紀の一戦では、いかにも富裕層といったドレス姿の女性がリングサイドの席に多くいました。この「黒いスーツ姿の女性」は、ドレスを着飾った女性たちのような雰囲気とは、全く違う様子です。試合に集中し、それだけではなく、戦っているチャンピオンが最も頼りにしているような存在なのです。
 チャンピオンは、第6ラウンドの開始と同時に次のような行動を取りました。
リングサイドに座っている黒いスーツ姿の女性の方に眼をやった。何かの許可を求めるような視線だった。女性は、それを受けて、軽くうなずいた。
 これは、この後、試合の流れが大きく変わるに違いないと思いました。

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ  クリックしてもらえると、更新の励みになります。

朝日新聞連載小説『それから』第23回

 「代助」は、自分のことを次のように振り返っています。
三、四年前(ぜん)、平生(へいぜい)の自分が如何(いか)にして夢に入(い)るかという問題を解決しようと試みた事があった。
そのことを、追求して眠られない自分を、
つくづく自分は愚物(ぐぶつ)であると考えた。
とあります。

 根拠はなにもないのですが、私は主人公のこういう心理に、作者自身がよく反映されていると思います。漱石は、人間の意識と無意識の境目が、気になってしかたがなかったのではないでしょうか。さらに、解決しようのない問題から離れられない自分に対する意識が、はっきりとあるところにも漱石自身が反映されていると思います。

 私は、若いころは、他からは褒められたいという気持ちを持っていました。それは、褒められることがうれしいというよりは、褒められている自分を見たいという意識です。つまり、人に認められるようなことをしている自分を、自分で見ていたいのです。そして、この二つのことを、意識していたか、無意識だったかというと、未だによく分かりません。

 生と死、理想と現実、心理と行動、意識と無意識、常にこういう境目に興味を持ち、それを描ききる作品が時代を超えて、読み継がれるのだと思いました。

クリックがはげみになります。    ブログランキング・にほんブログ村へ

朝日新聞連載小説『春に散る』第32回
 この回で、「広岡」が日本に帰ってきた目的の一部が出てきたような気がしました。「広岡」は、どんな対戦か、知らず、ボクシングの試合を観戦します。その試合は次のように描かれていました。
長身のチャンピオンは、サウスポー、左利きのアウトボクサーらしく足を使い、距離を取って戦おうとしているが、がっしりとした体格の挑戦者は体を低くして接近戦に持ち込もうとしている。

 私は、ボクシングに特別な興味はありません。でも、先日のパッキャオ対メイウエザーの試合をテレビで見るくらいの興味はあります。ボクシングは、格闘技の中でも、身体能力はもちろんですが、高度な技術が要求されるスポーツだとこの世紀の一戦を見て改めて思いました。それだけに、トレナー・コーチの役割は重要なのでしょう。ここで描かれている試合も、典型的なスタイルのボクサー二人の体力と技術がぶつかり合う対戦のようです。
 そして、ある女性のリングサイドからのアドバイスが当たるのです。

クリックが更新の意欲になります。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説『春に散る』第31回
 この回でも、前回に続いて、通りすがりの人と言葉を交わした場面が出てきました。
 毎日の生活は、このような短い言葉のやりとりで、人と人との関係が成り立っていると思えてきます。
 
 私の入院経験では、看護師さんとの会話が人と話す機会になりました。入院生活も慣れてくると、だんだんに要領がつかめてきましたが、始めの内は、うまくいきませんでした。
 「今朝の体温は?」と聞かれたときに、「大丈夫です。」「平熱です。」「36度8分です。」のどれがよいか、どれでもよいようで、違いがありました。平熱が続いているときは、1番目でも2番目でも問題ありません。でも、発熱の後や看護師さんが記録をしようとしているときは、3番目でないと、聞き返されてしまいます。 

 ささいな会話をていねいに描いて、ストーリーを組み立てている所をおもしろいと感じました。

クリックがはげみになります。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

新聞連載小説『春に散る』第30回
 会話を文章にするのは、難しいと思います。話された言葉を正確に書いても、それは速記録であって、会話を文章にしたものではないのです。だから、プロの作家でも会話を表現するというのは、苦労すると思います。
 この回では、主人公が訪れた後楽園ホールの窓口の女性とモギリの若者と主人公との会話でほとんどを占めていました。そして、その会話で、その場の雰囲気と主人公の気持ち、さらにはこれからのストーリーの展開までも描かれていました。

 携帯とスマホのメールは便利です。電話のように、相手の都合に関係なく呼び出すことがありません。それでいながら、急ぐ時には電話と同じようにすぐに返事、返信ができます。また、電話とは違って読み返すことができます。
 でも、質問と返答を何回も繰り返す場合は、メールよりも電話の方がより速い場合があります。
 顔を合わせての会話は、電話よりも質問と返答の速度が高まります。また、電話とメールでのやりとりは、用件以外の事柄を伝えるには不向きです。対面の会話は、用件以外のことを、互いの表情と動作によってたくさん伝えます。この対面の会話の特徴を、作者は存分に発揮させています。
 私は、対面の会話を実際の生活で、もっともっと大切にしなければならないと思いました。

クリックしていただけるとはげみになります。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説『それから』第22回
 親しい人が困っていたり忙しかったりすると、なんとか手伝いたい気持ちになります。だが、実際に世話を焼いてもよいことはないし、かといって口でああだこうだ言うだけではもっとよくありません。相手が迷惑に思うことなど気にせずに、どんどん自分のやり方を押しつける人もいますが、そういう強引さは好きにはなれません。

 「代助」も「平岡」夫婦のことは、気になるのでしょうが、自分から積極的に世話を焼くようなことはしていません。気にはなるのだが、相手の遠慮や気持ちが分かるので、せいぜい書生に手伝わせるくらいで、自分は口出し手出しをする気はありません。
 ところが、その傍観者のような態度は、「平岡」にはあまりよく思われなかったようです。「代助」にとっても「平岡」にとっても、ちょっとやっかいな気分だと思います。

クリックがはげみになります。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説 『春に散る』第29回

 この小説では、およそストリーには関係がないような描写が出てきます。この回では、ホテルのコンシェルジュの役割をしている若い女の様子にかなりの紙数が使われていました。でも、それは、余計な表現ではありません。40年ぶりの来日という時の流れや主人公の戸惑いが、そこから伝わってきました。

 他人の様子をじろじろとと見るというと、よいこととは言えません。しかし、周囲の人の言動に興味を持って、注意を払っているということは悪いことではないと思います。レストランのウェイトレスさんも、ホテルのカウンターの方も、タクシーのドライバーさんも、仕事ではあるけれども、客にとってみると何かの縁があって出会った人です。
 私は、治療方針が決まる前の不安なときに、病院の行き帰りのタクシーのドライバーさんとの世間話で、気分が和らいだことが何回かありました。

クリックがはげみになります。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説 『それから』第21回
 金持ちだけど、自由になるお金はない。こういう人はいるものです。「代助」は、生活費には全く困らないけれども、自分の自由になるようなまとまったお金のないことが分かりました。
 また、「三千代」という女性を巡って、「平岡」と「代助」の間には何かあったらしいことが予想できます。

 金銭というのは大切だけれど、一筋縄では扱えないものだと思います。
 人間の社会でこんなに便利なものは他に思いつきません。私の年齢になると、いろいろな物を片付けなければなりません。私がこの世を去れば、今使っている物のほとんどが不要な物になり、遺された人たちはそれを整理するのに大変なエネルギーを使うでしょう。ところが、金銭だけは遺されても、邪魔になりません。それどころか、大変にありがたがられます。
 一方で、金銭が絡むと、人間関係がねじれてしまうことがよくあります。また、金銭は多く持ってもそれで満足することがないものです。(私は多額の金銭を持ったことがないので、このことは聞いた話でしかありませんが、正しいと思えます。)
 金は得るのが大変に難しいものですが、それを上手に使うのはもっと難しいと思います。
                         
 「代助」は、「三千代」から申し込まれた借金を、どうするのでしょうか。これは、お金を手に入れることと、それを上手に使うことの両方が関わった問題でしょう。
クリックしていただけるとはげみになります。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説 『春に散る』第28回
 目的地を観光するだけが旅の楽しみではありません。目的地までの車窓や飛行機からの風景だけが旅の楽しみではありません。ましてや、おみやげを買うことだけが楽しみであるなんて、私には理解できません。
 自宅を出て出合う物と出会う人の全てに何かを見つけることが、旅の楽しみであり、そこに旅の味があるのだと思います。

 主人公は、日本のホテルのシャワーの湯にアメリカと日本の違いを感じていることが書かれていました。さすがに、自身の感覚として、それが気のせいだろうとも書かれています。でも、そういうことに、面白味があるのだろうと思います。
 旅の場面がうまく描かれています。

クリックしていただけるとはげみになります。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ 

 『心』を読んで自分なりに「生まれることと死ぬこと」について考えてみました。普段の日常の出来事として考えてみると、この二つのことは違いがあります。
 今の私の日常では、「生まれること」が身近で起こることは多くありません。一方、もう一つのことはかなり数多く起きています。
 自分が「生まれること」「生まれたこと」について、話題にすることはまれにしかありません。一方のことは、話題にしないまでも意識に上ることはよくあります。
 自分がこの世に生まれたのは、過去のことで、事実として確定していると無意識の内にとらえています。もう一つの方は、将来のこととしてとらえています。
 そして、ほとんど根拠なしで、「生まれること」は、めでたいことであり、祝うべきことになっています。そして、もう一つは、哀しいことであり、忌むべきことになっています。
 そして、これ以上に深く考えたり、感じさせられたりすることがあっても、だんだんに他のことに紛れて、忘れてしまいます。
 『心』を読んで、感じたことも、すぐに忘れてしまうのでしょう。忘れてしまうことを前提に書いておきます。

 「生まれること」と「死ぬこと」を切り離して考えても、本質に近づくことにはならないと思います。この作品にあるように、親友の死というケースを想定してみると、友が生きていたときに深い交流があるからこそ、喪った痛みも存在するのです。同じ学校に通った同窓生であっても、全く交流がなければ、喪った痛みは大きなものにはなりません。
 私が高校生の時に、一人の同級生が事故で亡くなりました。私が見て聞いた彼の表情や声は今も思い出せます。それは、互いに高校生として交流があったからに他なりません。

 生きているからこそ、「生まれることと死ぬこと」に悩み苦しむのだと思います。不思議なことですが、この二つのことは、自分では明確に意識できないものだと思います。もし、意識できるとしても、それは今の感覚と思考とは全く別の次元のものだと思います。 はっきりと認識できて、そして、わずかでも方向づけができるのは、「生まれることと死ぬこと」ではなくて、「生きること」なのだと思います。

 『心』を読んで、ぼんやりとこのようなことを感じています。
  

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へクリックしていただけるとはげみになります。

↑このページのトップヘ