「徳次」は、「喜久雄」よりも「俊介」よりも愛着を感じる登場人物だ。
 「徳次」は、仁侠の人として描かれていると思う。信義を重んじ、義のためには命を惜しまない。「徳次」は、「喜久雄」のためなら命を惜しまないといつも言い続けてきた。そして、それを「綾乃」を救う場面で、実行した。
 また、弱い立場の者を助けるということも実行していたからこそ、芸者衆やホステスさんたちに人気があったのであろう。「徳次」は、「喜久雄」に忠義を尽くしながらも、「俊介」にとっての「源吉」のように、完全に従うことはしなかった。
 従者でありながらも、主人から離れ、自分の道を歩んでいる。

 「徳次」は、どんな時代でもその価値を失わない人の生き方の典型として描かれていたと感じた。
 だからこそ、作者は、「白河公司」社長を「徳次」として描きながらも、歌舞伎座に向かう「男」を「徳次」とはついに明示しなかったのだと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第12回2018/6/13 朝日新聞

 思い出と過去の記録は、違う。記憶の中でも、思い出は記録とは別のものになるのであろう。
 父がいなくなったことが、洋一郎にとって重い思い出になるのかと予想したが、そうではないようだ。子どものときの洋一郎にとっては、父はこいのぼりを飾ってくれた父であり、万国博に連れて行ってくれた父であるのだろう。
 父と、姉の思い出は詳細なのに、母が登場しないのが不思議だ。

 「春江」と「市駒」と「彰子」、この三人の「喜久雄」を巡る関係を考えれば、互いに憎み合っても無理はない。
 それなのに、この三人は憎み合うどころか、互いに感謝し、尊敬し合っている。
 「俊介」から、丹波屋の御曹司の位置と役者のプライドを奪ったのは、「喜久雄」だ。たとえ、「俊介」がプライドを取り戻しても、憎しみとわだかまりは、そう簡単に消えるものではない。
 それなのに、「俊介」は、「白虎」を襲名するときには、「喜久雄」への感謝を言葉にしている。さらに、両足を失った「俊介」が信頼したのは、当の「喜久雄」だった。
 父を殺した張本人の告白を聞いた「喜久雄」が、目の前の「辻村」に対して動揺と憎悪を隠し切れなかったとしても、それはむしろ自然な反応だと思う。
 それなのに、死期を悟った「辻村」の告白を聞いた「喜久雄」は、平静で、「辻村」を許す言葉さえもらした。

 むすびつくことが難しい関係の人と人とを、むすびつけてしまう。それが、「喜久雄」だった。「喜久雄」がいなければ、「喜久雄」が、歌舞伎だけを求める人間でなければ、この小説の登場人物たちがむすびつくことはない。
 「喜久雄」は、あまたの観客に喜びを与えただけでなく、周囲の人と人をむすびつけていた。

 親を殺した張本人を前にして静かな気持ちでいることができる人が、「喜久雄」だから、読者もそこに共感してしまうと感じた。

 両親の離婚の原因の多くが父にあったことを理解している現在も、思い出の父はよい父だと、洋一郎は感じていると思う。
 煙草屋のおばさんにとって、小学二年生の男の子にとって、この父は親しみやすい人だったのは間違いない。それは、この父の性格の一面だったのだろう。また、この父は、外面では人づきあいがよく、幼い子どもをかわいがる人であったと思う。

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