本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』第33回
 「黒いスーツ姿の女性」、リクールトスーツを着る年齢ではないとすると、何か儀式的なことの参加者というイメージが浮かびます。ところが、前回から登場したこの女性は、ボクシングのリングサイドにいるのです。
 そういえば、先日の世紀の一戦では、いかにも富裕層といったドレス姿の女性がリングサイドの席に多くいました。この「黒いスーツ姿の女性」は、ドレスを着飾った女性たちのような雰囲気とは、全く違う様子です。試合に集中し、それだけではなく、戦っているチャンピオンが最も頼りにしているような存在なのです。
 チャンピオンは、第6ラウンドの開始と同時に次のような行動を取りました。
リングサイドに座っている黒いスーツ姿の女性の方に眼をやった。何かの許可を求めるような視線だった。女性は、それを受けて、軽くうなずいた。
 これは、この後、試合の流れが大きく変わるに違いないと思いました。

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朝日新聞連載小説『それから』第23回

 「代助」は、自分のことを次のように振り返っています。
三、四年前(ぜん)、平生(へいぜい)の自分が如何(いか)にして夢に入(い)るかという問題を解決しようと試みた事があった。
そのことを、追求して眠られない自分を、
つくづく自分は愚物(ぐぶつ)であると考えた。
とあります。

 根拠はなにもないのですが、私は主人公のこういう心理に、作者自身がよく反映されていると思います。漱石は、人間の意識と無意識の境目が、気になってしかたがなかったのではないでしょうか。さらに、解決しようのない問題から離れられない自分に対する意識が、はっきりとあるところにも漱石自身が反映されていると思います。

 私は、若いころは、他からは褒められたいという気持ちを持っていました。それは、褒められることがうれしいというよりは、褒められている自分を見たいという意識です。つまり、人に認められるようなことをしている自分を、自分で見ていたいのです。そして、この二つのことを、意識していたか、無意識だったかというと、未だによく分かりません。

 生と死、理想と現実、心理と行動、意識と無意識、常にこういう境目に興味を持ち、それを描ききる作品が時代を超えて、読み継がれるのだと思いました。

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朝日新聞連載小説『春に散る』第32回
 この回で、「広岡」が日本に帰ってきた目的の一部が出てきたような気がしました。「広岡」は、どんな対戦か、知らず、ボクシングの試合を観戦します。その試合は次のように描かれていました。
長身のチャンピオンは、サウスポー、左利きのアウトボクサーらしく足を使い、距離を取って戦おうとしているが、がっしりとした体格の挑戦者は体を低くして接近戦に持ち込もうとしている。

 私は、ボクシングに特別な興味はありません。でも、先日のパッキャオ対メイウエザーの試合をテレビで見るくらいの興味はあります。ボクシングは、格闘技の中でも、身体能力はもちろんですが、高度な技術が要求されるスポーツだとこの世紀の一戦を見て改めて思いました。それだけに、トレナー・コーチの役割は重要なのでしょう。ここで描かれている試合も、典型的なスタイルのボクサー二人の体力と技術がぶつかり合う対戦のようです。
 そして、ある女性のリングサイドからのアドバイスが当たるのです。

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朝日新聞連載小説『春に散る』第31回
 この回でも、前回に続いて、通りすがりの人と言葉を交わした場面が出てきました。
 毎日の生活は、このような短い言葉のやりとりで、人と人との関係が成り立っていると思えてきます。
 
 私の入院経験では、看護師さんとの会話が人と話す機会になりました。入院生活も慣れてくると、だんだんに要領がつかめてきましたが、始めの内は、うまくいきませんでした。
 「今朝の体温は?」と聞かれたときに、「大丈夫です。」「平熱です。」「36度8分です。」のどれがよいか、どれでもよいようで、違いがありました。平熱が続いているときは、1番目でも2番目でも問題ありません。でも、発熱の後や看護師さんが記録をしようとしているときは、3番目でないと、聞き返されてしまいます。 

 ささいな会話をていねいに描いて、ストーリーを組み立てている所をおもしろいと感じました。

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新聞連載小説『春に散る』第30回
 会話を文章にするのは、難しいと思います。話された言葉を正確に書いても、それは速記録であって、会話を文章にしたものではないのです。だから、プロの作家でも会話を表現するというのは、苦労すると思います。
 この回では、主人公が訪れた後楽園ホールの窓口の女性とモギリの若者と主人公との会話でほとんどを占めていました。そして、その会話で、その場の雰囲気と主人公の気持ち、さらにはこれからのストーリーの展開までも描かれていました。

 携帯とスマホのメールは便利です。電話のように、相手の都合に関係なく呼び出すことがありません。それでいながら、急ぐ時には電話と同じようにすぐに返事、返信ができます。また、電話とは違って読み返すことができます。
 でも、質問と返答を何回も繰り返す場合は、メールよりも電話の方がより速い場合があります。
 顔を合わせての会話は、電話よりも質問と返答の速度が高まります。また、電話とメールでのやりとりは、用件以外の事柄を伝えるには不向きです。対面の会話は、用件以外のことを、互いの表情と動作によってたくさん伝えます。この対面の会話の特徴を、作者は存分に発揮させています。
 私は、対面の会話を実際の生活で、もっともっと大切にしなければならないと思いました。

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朝日新聞連載小説『それから』第22回
 親しい人が困っていたり忙しかったりすると、なんとか手伝いたい気持ちになります。だが、実際に世話を焼いてもよいことはないし、かといって口でああだこうだ言うだけではもっとよくありません。相手が迷惑に思うことなど気にせずに、どんどん自分のやり方を押しつける人もいますが、そういう強引さは好きにはなれません。

 「代助」も「平岡」夫婦のことは、気になるのでしょうが、自分から積極的に世話を焼くようなことはしていません。気にはなるのだが、相手の遠慮や気持ちが分かるので、せいぜい書生に手伝わせるくらいで、自分は口出し手出しをする気はありません。
 ところが、その傍観者のような態度は、「平岡」にはあまりよく思われなかったようです。「代助」にとっても「平岡」にとっても、ちょっとやっかいな気分だと思います。

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朝日新聞連載小説 『春に散る』第29回

 この小説では、およそストリーには関係がないような描写が出てきます。この回では、ホテルのコンシェルジュの役割をしている若い女の様子にかなりの紙数が使われていました。でも、それは、余計な表現ではありません。40年ぶりの来日という時の流れや主人公の戸惑いが、そこから伝わってきました。

 他人の様子をじろじろとと見るというと、よいこととは言えません。しかし、周囲の人の言動に興味を持って、注意を払っているということは悪いことではないと思います。レストランのウェイトレスさんも、ホテルのカウンターの方も、タクシーのドライバーさんも、仕事ではあるけれども、客にとってみると何かの縁があって出会った人です。
 私は、治療方針が決まる前の不安なときに、病院の行き帰りのタクシーのドライバーさんとの世間話で、気分が和らいだことが何回かありました。

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朝日新聞連載小説 『それから』第21回
 金持ちだけど、自由になるお金はない。こういう人はいるものです。「代助」は、生活費には全く困らないけれども、自分の自由になるようなまとまったお金のないことが分かりました。
 また、「三千代」という女性を巡って、「平岡」と「代助」の間には何かあったらしいことが予想できます。

 金銭というのは大切だけれど、一筋縄では扱えないものだと思います。
 人間の社会でこんなに便利なものは他に思いつきません。私の年齢になると、いろいろな物を片付けなければなりません。私がこの世を去れば、今使っている物のほとんどが不要な物になり、遺された人たちはそれを整理するのに大変なエネルギーを使うでしょう。ところが、金銭だけは遺されても、邪魔になりません。それどころか、大変にありがたがられます。
 一方で、金銭が絡むと、人間関係がねじれてしまうことがよくあります。また、金銭は多く持ってもそれで満足することがないものです。(私は多額の金銭を持ったことがないので、このことは聞いた話でしかありませんが、正しいと思えます。)
 金は得るのが大変に難しいものですが、それを上手に使うのはもっと難しいと思います。
                         
 「代助」は、「三千代」から申し込まれた借金を、どうするのでしょうか。これは、お金を手に入れることと、それを上手に使うことの両方が関わった問題でしょう。
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朝日新聞連載小説 『春に散る』第28回
 目的地を観光するだけが旅の楽しみではありません。目的地までの車窓や飛行機からの風景だけが旅の楽しみではありません。ましてや、おみやげを買うことだけが楽しみであるなんて、私には理解できません。
 自宅を出て出合う物と出会う人の全てに何かを見つけることが、旅の楽しみであり、そこに旅の味があるのだと思います。

 主人公は、日本のホテルのシャワーの湯にアメリカと日本の違いを感じていることが書かれていました。さすがに、自身の感覚として、それが気のせいだろうとも書かれています。でも、そういうことに、面白味があるのだろうと思います。
 旅の場面がうまく描かれています。

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 『心』を読んで自分なりに「生まれることと死ぬこと」について考えてみました。普段の日常の出来事として考えてみると、この二つのことは違いがあります。
 今の私の日常では、「生まれること」が身近で起こることは多くありません。一方、もう一つのことはかなり数多く起きています。
 自分が「生まれること」「生まれたこと」について、話題にすることはまれにしかありません。一方のことは、話題にしないまでも意識に上ることはよくあります。
 自分がこの世に生まれたのは、過去のことで、事実として確定していると無意識の内にとらえています。もう一つの方は、将来のこととしてとらえています。
 そして、ほとんど根拠なしで、「生まれること」は、めでたいことであり、祝うべきことになっています。そして、もう一つは、哀しいことであり、忌むべきことになっています。
 そして、これ以上に深く考えたり、感じさせられたりすることがあっても、だんだんに他のことに紛れて、忘れてしまいます。
 『心』を読んで、感じたことも、すぐに忘れてしまうのでしょう。忘れてしまうことを前提に書いておきます。

 「生まれること」と「死ぬこと」を切り離して考えても、本質に近づくことにはならないと思います。この作品にあるように、親友の死というケースを想定してみると、友が生きていたときに深い交流があるからこそ、喪った痛みも存在するのです。同じ学校に通った同窓生であっても、全く交流がなければ、喪った痛みは大きなものにはなりません。
 私が高校生の時に、一人の同級生が事故で亡くなりました。私が見て聞いた彼の表情や声は今も思い出せます。それは、互いに高校生として交流があったからに他なりません。

 生きているからこそ、「生まれることと死ぬこと」に悩み苦しむのだと思います。不思議なことですが、この二つのことは、自分では明確に意識できないものだと思います。もし、意識できるとしても、それは今の感覚と思考とは全く別の次元のものだと思います。 はっきりと認識できて、そして、わずかでも方向づけができるのは、「生まれることと死ぬこと」ではなくて、「生きること」なのだと思います。

 『心』を読んで、ぼんやりとこのようなことを感じています。
  

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朝日新聞連載小説 『それから』第20回
 「代助」が、特別な思いをもっている女性が登場しました。それが、今は「平岡」の妻となっている「三千代」です。
 この人に対する「代助」の気持ちは、この回では何も描かれていません。しかし、「三千代」の容姿については、詳しく描写されていました。

 気持ちそのものを、ありきたりの修飾語を多く使って表現されても、読み手の印象には残りません。しかし、直截な言葉はなくとも、主人公が相手の容姿と動作を細かく見ていると分かる表現は、主人公の思いを、読み手に印象づけることになります。

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朝日新聞連載小説 『それから』第19回
 「代助」の生活と考え方には、前回まではなじめませんでした。あまりにも恵まれすぎているし、周囲の人たちを見下しているような態度が感じられたからです。でも、この回でその感じ方が変わり始めました。
 「平岡」の様子が次のように、描かれています。

口にする事が、内容の如何(いかん)にかかわらず、如何(いか)にも急(せわ)しなく、かつ切(せつ)なさそうに、代助の耳に響いた。

 「平岡」は、新しい就職口を見つけて、新しく住居も見つけて、なんとか生活を建て直さなければならないと、自分の生活のことだけを考えて、余裕のない気持ちに追い込まれていたのでしょう。

 こういう気持ちで、時間を過ごしたことが私にもありました。仕事にかかわることで、競争心を持って、そのことばかりに目がいき、他のことに関心がなくなりました。忙しくしていることが、正しいことのように思えて、他の人の気持ちよりも自分の仕事の成果を優先させたこともありました。そういう時期の自分を思い出してみると、なんだかつまらないことにエネルギーを使ったと思います。
 「平岡」に比べて、実社会の損得や競争に関心のない「代助」の方がよほどましな生き方だと感じられます。
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朝日新聞連載小説 『春に散る』第26回
 成田に着いた「広岡」の行動が丁寧に描かれていました。空港からホテルへ向かうバスの表現です。
 
 まだ暮れきっていない時間帯の、薄紫の闇の中をバスが走っていく。

 その場面の時間帯、風景のイメージ、それらが目の前に広がってきます。私は、こういう表現が好きです。
                                            

朝日新聞連載小説『春に散る』第25回
 舞台は一挙に日本の成田空港に飛びました。
 40年ぶりの日本なのに、「広岡」は、何のみやげも持っていません。空港に出迎える人は誰もいません。キーウェストに行ったときと同じ格好でした。
 
 海外旅行にボストンバッグを一つだけというのは、私にはできそうもありません。でも男としては格好よいに違いありません。余計な荷物を持たないというのは、生き方にも関係してくるのではないでしょうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』第24回
 「広岡」がアメリカでの手術を断った理由が分かってきました。
 それは、「日本に帰ろうと思うんです。」という気持ちからでした。でも、その日本に帰りたいという思いは、懐かしさと故郷恋しさだけではないようです。

どうして日本に帰らなければならないのか自分でもよくわからなかった。だが、日本にも何かの心残りを残しているように感じられる。それが何なのかまったくわからないままに何かをし残しているという感じがしてならない。

なかなか複雑な心境です。それを巧妙に表しています。好きな表現です。

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