本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第232回2017/8/5

 市駒がいなければ、喜久雄は塞ぎこんだまま、役者としても潰れていただろう。娘の綾乃がいなければ、市駒の所にいても、もっと長い間閉じこもっていただろう。
 長崎にいた頃の喜久雄は、春江がいなければ、もっと荒んだ気持ちだったろう。
 権五郎とマツも、白虎と幸子の両夫婦も妻がいなければ、夫は成り立っていかなかっただろう。
 最近私が出あった小説や映画やドラマでは、こういう互いを無条件で受け入れ合う男と女の関係を見たことがない。小説やドラマよりも、現実の生活ではもっと見聞きしなくなった。不思議と言えば、不思議なことだ。

 それにしても、喜久雄はかなり長い間、市駒の所にいるようだ。市駒の所にいて、綾乃の相手をしているということは、舞台には立っていないのだろう。
 俊介が見つかり、俊介は再び表に出るのか、そして、喜久雄にどんな動きを起こさせるか?また、期待が膨らむ。

 金沢のクラブで、地元の名士から踊れと言われて、喜久雄はその名士を殴りそうになり、徳次に止められた。(207、208回)
 その騒動の後、喜久雄は、俊介ならあの場で踊るふりでもして、なんなく乗り切ったのではないか、と言っていた。喜久雄は、自分は三代目を継いだところで「一本の木」だが、俊介は生まれた時から丹波屋を背負っているので、「山」だと考えていた。(209回)
 
 喜久雄は、今までに美しい娘や遊女役を演じることはできた。しかし、狂女や化け猫を見事に演じることができるであろうか?
 もしも、今の俊介が『太陽のカラヴァッジョ』で歌舞伎の女形だった兵士を演じろと言われたら、どうであったろうか?喜久雄とは、違う反応をするように思う。
 その辺りに、温泉街の舞台に姿を現した俊介と東京の舞台への意欲を失っている喜久雄の役者としての違いが出て来るように感じる。

 それにしても、俊介登場の段取りは圧巻のおもしろさだ。228回感想で触れたが、丹波屋の状況はこれ以上悪くなりようがなかったのである。
 仮に出奔中の俊介が莫大な借金を背負わされていたとしても、幸子も喜久雄もそれを肩代わりできる状況にはない。ある意味、俊介が迷惑をかける気遣いはないのだろう。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第231回2017/8/25

 俊介の再登場が、直截に書かれた。

 竹野は、俊介の素顔を知っている。それを、ダメ押しする「俊ちゃん」の声。
 化け猫の正体が俊介であったことは、伏線に調和する。物語の伏線に調和しないのは、次の表現だ。

竹野の体にブルブルッと武者震いが起こったのはそのときで、たった今、自分がここで見つけたものが、とてつもないものであることを肌で感じたのでございます。

 これはテレビの素人番組に出すような下等なもんじゃない。

 
私は、竹野を今までの歌舞伎を変える興行主、プロデューサーになっていくであろう、と予想していた。そして、竹野は喜久雄を革新的な歌舞伎の主役として育て上げていくだろう、と思わせられていた。
 竹野が、眼をつけたのは、喜久雄、三代目半二郎ではなかった。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第230回2017/8/24

 凄い。
 この舞台、化け猫の演技に引き込まれた。

 これだけの迫力ある表現には、いくつかの要素がある。
①独特の語り。
(略)見るからにおどろおどろしく化け猫へと変身したのでございます。
②擬音語の効果。
テケテン、テケテン、テケテン。
③ここに辿り着き、次を期待させる筋立て。
 化け猫を演じているのは誰か、を予想させる筋の運びが、読者を魅了する。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第229回2017/8/23

 この回のストーリーに直接の関係はないが、第十章 怪猫に入ってから、演技への喜久雄の反応を考えさせられる。

その一
 95回で、『隅田川』の舞台で我が子を探し狂女となった小野川万菊を観ている喜久雄と、俊介の反応が描かれていた。

「こんなもの、ただの化け物やで」
何かから逃れるように、笑い飛ばした喜久雄の言葉に、このとき俊介は次のように応えます。
「たしかに化け物や。そやけど、美しい化け物やで」と。(95回)


 結局、この時の喜久雄は、万菊の名演を理解できていなかった。

その二
 『太陽のカラヴァッジョ』で清田監督は、喜久雄以外にはプロの俳優をキャスティングしていない。喜久雄も含めて、この映画の全ての出演者から、いわば既成の演技を排除する考えなのだ。過去に徳次が、主役に起用されたことにも、清田監督のその考えが表れていた。
 喜久雄は、そのことに気が付いていない。

喜久雄演じる中野上等兵の見せ場でもあり、また試練の場。行き場を失った兵士たちの苛立ちと不安が喜久雄演じる女の仕草の抜けない兵士に向かうのでございます。「踊れ、踊れ」と皆に囲まれ、褌一つにされた自分が、その後、凄惨を極める暴行を受けるのでございます。(220回)

 結果として、喜久雄は、このシーンを監督の狙い通りに演じたのであった。映画の状況に極めて近い現実の状況に追い込まれ、そこから引き出された演技であったのだろう。そこから引き出されたものは、ドキュメンタリーではなく、清田監督が求めた演技であり、世界的に評価された演技だった。
 しかし、喜久雄本人にはそれが演技であったという自覚がないと感じる。
 喜久雄は、『太陽のカラヴァッジョ』の自己の演技を嫌悪し、拒否している。※223回感想と関連する。

このページのトップヘ