歩くのが遅くなったときは、筋力不足と思ってスクワットをした。いろいろな方法が紹介されているので、飽きないで続けられた。栄養バランスを考えた食事は完璧だった。
 手術後の健康維持は、外来受診のたびに医師からも栄養士からも絶賛された。
 どんなに手術後の状態がよくても限界がある。
 それに老いていくスピードは予想をはるかにうわまった。

 「闘病」は、勝つことができる場合だ。私は、根拠なく一生懸命やれば身体の状況を病気以前に戻すことができると思い込んでいた。

 要介護の認定を申請するときは、突然自分がそうなったと感じていた。
 しかしそうではなかった。
 申請にあてはまるようなことはかなり前からあった。夜間の失禁、階段で転ぶ、食事のあとに眠ってしまう、などがあった。そのときには、その一つ一つは、努力と工夫で改善できると信じていた。

 悪い方の片足も、加重はできないがかなり動かせる。その事実を自分で理解できたのはつい最近だ。無意識のうちに身体が反応して、移動していたのだ。
 車いすで暮らす者にはそれぞれに、それぞれの個性がある。
 そんなことは想像すらできなかった。

 食事や通院など以外は自由だ。車いすに乗ったまま長い時間を読み書きで過ごすのは身体的に無理だ。テレビは視力と聴力から長い時間は無理だし、元々好きじゃない。
 ラジオ番組を録音したものを聴きながら時間過ごす。まるで以前からこの過ごし方を想定していたみたいに、機器はたくさんある。車いす生活以前は、録音した番組を味わって聴く時間を作れなかった。それができるようになった。
 この楽しみがなければ昼間の時間をもてあましてしまう。

介護保険という大きなシステムの中で援助を受けている。
援助は予想を上回るものだ。
感謝の念が湧く。
しかし誰に感謝すればよいのか、感謝の相手の顔が見えてこない。
その点、カミさんをはじめ実際に世話をしてくれる相手にはひたすらに感謝だ。

この辺に割り切れなさを感じる。
そして、感謝の気持ちをもつことが本人の心地よさにつながるのは車いす生活者の特徴だ。

↑このページのトップヘ