本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

 洋一郎は『ハーヴェスト多摩』の施設長なので、高齢者の住まいと暮らしについては熟知している。しかし、洋一郎が知っているのは、家族もいて知人も多い、経済力のある高齢者であろう。
 死んだ実の父は、孤独で経済的にも恵まれない高齢者だ。洋一郎は、自分が管理する施設の入所者と、高齢者向きとは思えないアパートに住んでいた父を比べて考えるであろうか?

 洋一郎は、家族の中で「父親」としての存在感を見いだせないでいる。洋一郎は、義父に「父親」を感じることができなかったようだ。では、死んだ実の父に「父親」を感じることができるであろうか?
 洋一郎は、こいのぼりをかざってくれた父を覚えている。その思い出序章 あらすじの中では、父は子(洋一郎)にとって存在感のある父、すなわち「父親」であったのではないか。
 死んだ父の今まで知らなかった姿が浮かび上がってくれば、洋一郎は自身の思い出の父こそ、「父親」という存在であったことに思い至るのであろうか?

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第99回2018/9/11 朝日新聞

 洋一郎の心情がだんだんに明らかになる。

 父が暮らした部屋を細部まで観察し、その部屋の家具の配置やのこされている生活用品から、父の暮らしと父の思いを再現しようとしている。それは、まるである種の捜査のようであり、プロファイリングのようでもある。
 洋一郎には、姉を介して頼まれたことをいやいやながらだが、やろうという感じがあった。だが、父の部屋を見ている洋一郎に、それを義務でやっている感じやサッサと済ませようという感じはまったくなくなっている。
 
 むしろ、生きていた時の父の暮らし方や思いをなんとか再現しようという気持ちが感じられる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第98回2018/9/9 朝日新聞

 暮らしの様子がわかる部屋の中だ。高齢の男性の独り住まいとしては、きちんとしている方だと思う。新聞の購読や喫煙の習慣は、いかにも年齢にふさわしい。
 大家の川端さんが、部屋を見てほしいと言うのには何か理由があると予想する。川端さんは、遺品を処分して部屋を空けてください、とは一言も言っていない。また、亡くなった石井信也が姉と洋一郎を置いて出て行ったことと、その後四十年以上一度も会っていない事情も知っている。その上で部屋を見てほしいと言うからには、205号室には別れたままの子どもに関係するものが何かのこされているように思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第97回2018/9/8 朝日新聞

 洋一郎と川端久子(大家)さんは、共通の仕事だと思う。高齢になった人がそこで人生を終える住居の施設長であり、大家である。
 だから、洋一郎は晩年を過ごす多くの人々の日常を見知っている。そして、洋一郎が見知っている有料老人ホームでの暮らしと、父が暮らしていたアパートとの違いに戸惑う気持ちがはたらいているのではないかと思う。
 洋一郎が単に仕事というだけでなく精一杯工夫している老人ホーム、そこの住人は格差社会の高い方に位置する高齢者なのだろう。一方、川端久子さんが、借り手のことを思いやって管理しているアパートに住む高齢者は、今の社会の底辺に近い位置の高齢者なのだろう。

 遺品というのは、不思議なものだ。言葉や写真以上に、亡くなった人の日常をイメージさせる。
 意図しなくても、人間は自分が使った物をのこさざるをえない。それだけに、身の回りの日常品に気を配りたい。私には遺産と呼べるようなものはないが、少なくとも処分に困る遺品はなるべく少なくしておこうと思っている。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第96回2018/9/8 朝日新聞

 洋一郎は和和泉台ハイツを見て、そこで父が晩年を過ごしたことに強い違和感を感じている。

「‥‥‥このアパート、お年寄りには似合わない気がしますけど。(略)」

 ところが、川端さんはそんな洋一郎の考えに、柔らかく、だがはっきりと反論している。

「でも、お年寄りだからといって、萱葺き屋根の古民家に住まなきゃいけないわけでもないでしょう?」

 私は、何回もの入院の経験から、治療の成果は医師の治療と薬剤だけで決まるのではないと感じている。病室の造りや雰囲気、そして看護師さんや栄養士さんやお掃除の方も含めて、その病院のスタッフの方々の仕事の仕方が入院患者にとっては重要だった。
 同様に、終の棲家についても、入居費の高い有料老人ホームのいかにも老人向きの高層建物が快適さにつながるとは思えない。
 高齢であっても現役で働いている人や老境の生活を楽しむ人がどのような住居に住めば快適なのか、川端さんの言葉には考えさせられる。
 もちろん、世代の違う家族と一緒にある程度の広さのある家に住むのがよいであろう。しかし、それは今の世の中では実現は難しい。

 沢木耕太郎作『春に散る』の「チャンプの家」を思い出す。春に散る 感想

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第95回2018/9/6 朝日新聞

 洋一郎が、父について聞かされてきたのは、「お金にだらしがなくて、身内にも迷惑をかける人」が一番多かったと思う。それだけに、父が家賃を遅れるとことなく払っていたと聞いて、「ほっとした」のだ。洋一郎のこの感覚は責められるようなことではない。
 父が家族(母や子)に迷惑をかけるだけで辛いことはこの上ない。さらに、家族だけでなく親類や他人にさえ迷惑をかけたとなると、子の立場としては、どれほど辛く肩身の狭いことか想像ができる。
 父がまじめに働き、しかもお金にもきちんとしていた、と聞かされたのは、川端さんからがはじめてのことだったろう。

このブログをご訪問いただいている皆様、私の住む地域では、今回の地震で震度5を経験しました。
地震直後から昨日9/7 20:00頃までは停電でした。
被害は、私の近隣では目立つものは、停電によるもの以外にはないと思います。
私自身の家もCDを入れている棚が倒れただけで、物が散乱するようなことはありませんでした。
詳しい経験談は、同時更新のブログ「書斎は犬と同居」で近いうちに更新します。
新聞は全く遅れなく届いていましたので、今日から『ひこばえ』の感想を更新します。

私の所から車で数時間の距離の甚大な被害を受けられた方々にお見舞い申し上げます。
また、北海道の災害をご心配、ご支援いただいている方々にお礼申し上げます。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第94回2018/9/5 朝日新聞

 私の子どもの頃は、七十歳を過ぎると、長生きの部類に入った。八十歳を超えると、長生きですねえ、と間違いなく言われた。九十歳を超えると、無条件におめでたいこととして驚かれた。
 だから、六十の人が十年経って七十になることはあったが、七十の人が十年経って八十になる確率はそれほど高くなかった。
 大家の川端さんの感覚は、この辺の事情を指しているのだと思う。

 今は高齢化社会になっているが、まだ高齢化社会以前の人口増加が当たり前だった時代の感覚も残っている。六十や六十五で引退という感覚、子の年齢が七十を過ぎれば親は他界しているという感覚、七十になれば生い先は短いという感覚、それはもはや通用しない。
 でも、生物としてのヒトの肉体は老いを排除できないし、今までの社会で身に付いた人間の寿命の感覚を急には変えられない。

 川端久子さんという人は、おおらかな人だ。こういう風に物事をとらえる人がいることは救いになる。洋一郎は、そして、洋一郎の父はよい人に巡り会ったと感じる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第93回2018/9/4 朝日新聞

 老人向けのアパートではないのに、借りる人が老人ばかりになる。このことは、私の身近ではまだ経験がない。そう感じたが、いやまてよ、と思い直した。
 アパートではないが、私たち夫婦のように戸建て住宅、しかも庭付きに住んでいるのは、圧倒的に老人夫婦と老人の一人住まいが多い。そして、古くなった公営アパートもその傾向が強いと聞く。

 一人息子を亡くした佐山夫妻第二章 あらすじのように、若者や子どもを見たくないと思えば、老人ホームに入らなくても、このような共同住宅や古い家の多い地域に住めばいいことになる。
 逆に、いろいろな年代の人と交流したいと思うと、住む地域や住居を選ばなければならない時代になった。

 川端さんのおおまかな来歴がわかった。現在の川端さんの家族はどうなって、誰と暮らしているのだろうか?

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第92回2018/9/3 朝日新聞

 私の住む市にも高齢者の優待パスがある。私は、今年はじめてそれを申請した。はじめて手にすると非常に得をした気分になった。だが、実際に使ってみると、それは決して老人を優遇するための制度ではなかった。
 公共交通機関の優待パスを使うのは、暇な時間を潰す場合が多い。働いていて通勤に使うという人もいるであろうが、多くは、趣味や遊びのために使っていると思う。優待パスがなければ、交通機関を使わないか、使う回数を減らすことのできる外出だと思う。医療機関を受診する場合もあるが、これも必要以上に医療機関に行く人もいると聞く。
 料金を安くしたり、税金を投入しても、それに見合う収益があるからこういう制度が維持できるということだ。
 有料老人ホームにしても、それが企業として成り立つから、増え続けているのだ。
 経済力のない高齢者は、これからはどんどん切り捨てられていくのではないか。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第91回2018/9/2 朝日新聞

 私自身は、私が受け継いできた墓に入るだろうと思っているせいか、自身の死後の遺骨の扱いについてこだわる気持ちがない。もしも、自分の死後の始末を誰にもやってもらえそうもない境遇に置かれたら、どう思うだろうか。最近は、料金を前払いすれば、身寄りのない場合でも供養をしてくれる寺や葬儀社があるようだから、そこにでも依頼するしかないか。その料金もなければどうなるか、地方自治体の処置に任せる他はないのであろうか。

 葬儀と墓の維持を昔のままに行うのは、無理な社会環境にある。だからと言って、人が死んだ場合は火葬のみ、遺骨は合祀が一般的とはならないとも思う。

 大家の川端さんが、大家としてやっていることは、亡くなった人の世話だけではない。死者のためではなく、高齢になって住まいを借りるのが困難な人、独りで暮らしているのでアパートを借りる際の保証人のない人、そういう人々の役に立っている。川端久子さんのこのような気持ちと行動に、人間としての自然な感情を感じる。
 川端久子さんの行動は、亡くなった父の人生に何かをもたらしたのかもしれない。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第90回2018/9/7 朝日新聞

 この小説の時間設定が現実と一致している意味を感じる。それは、『ひこばえ』のおもしさでもあり、つまらなさでもあると感じている。小説としてのつまらなさというのではなく、ああ今はやはりそうなのだなあ、という変に納得できる感覚のつまらなさだ。

 私の住まいの近辺のアパートでも、いわゆる孤独死が実際にある。この大家さんのような立場なら、洋一郎の父のような死に、立ちあわなくてはならないことも増えているのが現実だ。そして、その亡くなった人の縁者が遺骨すら引き取らないのも特別なことではない。
 むしろ、大家の川端久子さんのように借主であった人、孤独死した人を丁寧に葬る方が稀だ。
 
 これは、最近の風潮は嘆かわしいなどとのんびり嘆いている場合ではないと思う。なぜ、こうなったのか、どうすればいいのか、向き合ってみなければならない。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第89回2018/8/31 朝日新聞

 どんな父であっても、父は父だから、遺骨を手元に置くのを断れない。
 母と自分たちを辛い目に遭わせて、別れてからは一度も音信のない父であった。実の父であるからこそ、その遺骨を短い時間でも手元に置くことなど考えられない。
 このどちらに洋一郎は傾くのであろうか。
 姉なら断固、そのまま道明和尚の寺で引き取り手のない遺骨として合祀してほしいと言うであろう。この姉(宏子)を冷たいように感じるかもしれないが、親子であるからこそ憎しみも強いのが人の情の一面だと思う。
 洋一郎が、父の遺骨を手元に置くとなれば、妻と相談せねばならない。今までのストーリーでは、妻(夏子)は父の死も、もちろん生前の父の部屋を洋一郎が見に行くことも知らないことになっている。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第88回2018/830/ 朝日新聞

 収骨の違いを初めて知った。私の方は、東日本の収骨方式だった。だいたいが北海道は、東日本西日本の区分けの意識があまりない。県という区分の意識すら低い。
 葬儀、火葬、収骨、墓、そういうことの慣習について詳しくなる必要はないと感じている。そのやり方の細部を、「〇〇の正しい行い方」などとうるさく言う人もいるが、意味のないことだと思う。また、正しいやり方をしなければ、霊が云々ということも私には、縁のないことだ。
 しかし、自分や周囲の人の気持ちが収まるような方法は取りたい。だから、葬儀にかかわることも慣習に沿って行ってきたし、遺骨の納めどころも、自分の家の宗派の僧侶の助言を受けながらやってきた。自分の場合も、そうなるだろうと思っている。
 洋一郎は、どんな結論を出すだろうか、今のお寺に頼んで、このまま無縁仏として納骨してください、などとは言えないと思うが‥‥

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第87回2018/8/29 朝日新聞

 父についての洋一郎の思い出は、序章にあった小さなこいのぼりをあげてくれた父であり、近所のタバコ屋さんのおばさんと気さくに話す父の姿であった。そして、そのわずかな思い出以上に、父についての悪い話を何度も何度も聞かされていたであろう。洋一郎は本人が意識しなくても、姉の宏子や伯父(母の兄)が言っていた「周囲の人に迷惑をかける人」という人物像に影響されていたと感じる。
 しかし、今、聞かされている父は、洋一郎のまったく知らない面を見せつつある。
 実際に「和泉台ハイツ205号室」を見ることで、洋一郎のこの思いが強まるような気がする。

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