朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第135回2015/8/16
 
 歩くのが好き、まるで恋人とのデートのように「広岡」を映画に誘う、「佳菜子」は妙な女性だ。今までも不動産の斡旋とは言い難いほど「広岡」の世話を焼いている。なによりも不思議なのは、年齢が離れ、しかも40年前の感覚しか持ち合わせていない「広岡」との会話を、いつも楽しんでいる所だ。
 「広岡」が、彼女とのいろいろな違いを無理に埋めようとしないのがよいのかもしれない。

 その「佳菜子」と行くレストランは、「令子」に紹介された店らしい。「広岡」が日本に来て頼りにした唯一の人がいる。それは、「令子」だと思う。彼の身元保証をしたのは「令子」だし、昔の仲間に会えたのも、「令子」が出発点になっている。
 「広岡」と「令子」には、過去には恋愛関係があったかもしれない。だが、それだけでなく、ボクシングを軸にした信頼関係があったのではないかと感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第134回2015/8/15

 最近は、老人ホームという呼び方はあまり使われない。介護施設、老人向けマンション、あるいは、トクヨウ(特養)、ロウケン(老健)などと細分化され、おまけに略称のまま使われている。だが、名称に惑わされてはいけない。介護、訪問医療付きマンションと呼ぼうが、自立が難しくなった老人が家族から離れて住む場所は、やはり老人ホームなのだ。マンションとアパートの違いが曖昧なのと同じだろう。

 私は、自分の最期までのある期間は老人ホームだと思っている。老人ホームでないとすると、病院かもしれない。私の癌の発見が遅かったら、病院で最期を迎えることになっただろう。自宅で、最期までの期間を過ごすというのが、最も可能性が低い。
 歩行に無理がなく自立して日常生活ができる年齢、いわゆる健康寿命と、寿命との間にはどうしてもある時間がかかる。今の制度では、その期間を病院入院で過ごすことはできない。自宅で過ごすのはある理想であろうが、それには家族の負担が伴う。
 そうなると、経済的な負担のめどが立てば、老人ホームという選択が、現実的だ。

 日本の現実が、こうなったのは次の二つの要素からだと思う。
○ 医療の進歩と、その一般化。
○ 法律と経済の変化に影響された家族形態の変化。
 衛生状態と栄養状態の改善、医学の進歩がもたらすものを多くの国民が受けることができるようになったことが直接的な要素だと思う。
 家族の変化は、倫理や道徳の問題ではなくて、国民全体の生活水準が上がったことと、相続に関する法律の影響が大きいと、感じている。

 「広岡」は、肝心の映画本編を見ながら、予告編のことを何度も思い浮かべている。それを読みながら、私はこんなことを思ってしまった。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第95回2015/8/14

 「三千代」との関係は、本心を打ち明け、彼女の覚悟も聞いた。「父」との関係も結着が付く見込みが立った。
 残るは、食うための金をどうやって得るかである。

 単純なようで、永遠の課題だと思う。
 根本的な問いにまで遡らなくても、いかに食うための欲求を満足させるか、いかに便利で安楽な生活を維持するかはどの時代でも、人に課せられている。必要最低限の生活では、人は満足できないし、豊かさを求めれば、きりがなくなる。
 そう考えると、今までの「代助」の生活ぶりは、非常にバランスがとれているのかもしれない。しかし、働かずに贅沢はし過ぎずにという生活を続けられるはずもない。

 原発が現在も将来も人に安心を与えないだけでなく、多くの犠牲者と被害者を出しているのは確かだ。だが、なるべく安価で現時点では手に入れやすい電力を、多くの企業と一般の人が求めているのも確かだ。
 物のために生きるのではないが、物がなければ快適に生きていけない。これは、明治も現代も変わりがないことを突きつけられたような気がする。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第133回2015/8/14

 この回では全く触れられていないが、真拳ジムの会長のことが気になる。どうやって、「広岡」が真拳ジムに入ることになったかは、明らかになっていない。だが、当時の「広岡」の境遇を考えたら、彼が相当に扱いの難しい若者であったことが想像できる。それは、四天王と呼ばれた他の3人も似たようなものだったろう。
 そんな血気盛んで、どこか屈折した気持ちをもっている若者に対して、ボクシングのトレーニングだけでなく、本と映画を勧める会長は、どんな人物だったのだろうか。
 ボクシングの技術を教えるだけの人でなかった。また、ボクシングで有名になろうとか儲けようとする人ではなかった。そういうことが想像できる。そして、その娘「令子」のこともやはり気になる。

 「佳菜子」の頼み事が映画とは、全く意外だった。若い女性からのデートの誘いとも取れるが、それだけではどうもしっくり来ない。彼女の過去と映画と「広岡」は、どう絡んでくるのだろうか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第94回2015/8/13

 「代助」の何かが変わってきている。今の所は何事も起きてはいない。だが、彼の決然とした様子が伝わって来る。
 今までの「代助」について考えてみると、精神と行動を二元的に捉えることが無意味に思える。
 表面では、彼は思索の人であって、行動は起こさないで生きているように描かれている。しかし、食うためだけの、儲けるためだけの行動をしないことは彼の思索の結果だ。また、世間の道徳と常識に則った行動をしないのは、彼の精神の具現だった。
 つまり、「代助」の行動と精神は、一致していたのだと思うようになった。
 
 その「代助」が、今まで以上に決然と行動を始めたと感じる。次々と決断し、迷うことなく行動している。だが、何かを画策しての動きではない。

彼はただ何時、何事にでも用意ありというだけであった。

 こういう「代助」に、以前は歯がゆさを感じた。しかし、今はそうは思わない。かえって、度量の広さと思考の深さを感じる。
 世渡りの上からは、追い込まれているのだろうが。
 

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