朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第106回2015/7/18

 「広岡」と一緒に短い列車の旅をした気分だ。
 車窓からの風景を描くだけでなく、そこに住む人の暮らしを考える。車内の乗客の様子を眺め、駅弁を食べ、そこから移りゆく風景へとまた戻って行く。
 こういう文章表現を味わうのは、『春に散る』を読む楽しみの一つだ。

さてどうしよう。

 「広岡」に何が起こるか、楽しみだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第75回2015/7/17

 「三千代」は結婚前も、結婚後も「代助」を好きだったことが、彼女の何気ない行動や言葉から伝わって来る。
 そして、「代助」は、「三千代」への「平岡」の態度に、嫌悪感を強めていることが分かる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第105回2015/7/17

それは何にも代えがたい日本という国の豊かさのようにも思える。
 
 私もそう思う。テレビや新聞で、外国の映像を毎日のように見る。しかし、日本ほど、森の木々と水田とそれを支える川や湖の風景が、人々の生活の身近にある所はないようだ。自然の恵みを受けつつ、人間の工夫を重ねていく所に日本の特徴があると思う。
 経済力や工業力は、常に変動し、日本はその面では外国に抜かれることが多くなった。一方、自然と結びついた人の暮らしは、そう簡単に変化するものではない。地形や自然環境は、人工的に破壊しない限りはごくわずかな変化で、そこに存在し続ける。
 現在も、水に恵まれ、山林に恵まれ、水田の続く光景を容易に見ることができる。そして、その光景は美しい。
 しかし、農業は後継者が不足し、日本中であえいでいる。さらに、日本人が米を食べる割合は減るばかりだ。林業を中心とする地域は人口の減少どころか、地域そのものが消滅する所もあると聞く。
 それはなぜなのか。日本人が、「心の豊かさ」を失っているからだという議論もある。それだけではないと感じる。
 「国の豊かさ」とは、経済力や工業力やましてや軍事力などではない。「日本という国の豊かさ」は、水田の美しさに表れてくるような「豊かさ」なのだ、という考えが広まらない限り、「日本という国の豊かさ」は消えていくと感じる。
 
 「佐瀬」は、「広岡」が思っているような暮らしをしていないような気がする。現実の農村の生活は、苦労が多いのではないか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第74回2015/7/16

 ここまで『それから』を読んで、「代助」が自分では全く働かないで平気なことに、反感を持ち続けていた。しかし、ここ数回で気持ちが変化した。
 必死で働かなくては生計が成り立たないようでは、「代助」のように感じ、考えることはできないと思うようになった。感性を磨き、洋書を読み、人間の心理を考察するような生活は、資産と時間に十分な余裕がなければ、成立しないのであろう。「代助」のような境遇が与えられて、はじめて「代助」のように思索できるのだと感じる。

 赤坂の女の件は、現代ではそれほど驚くようなことではない。しかし、100年前にこういう女性の心理に目を付けた作者の先見性は驚くべき事だ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第104回2015/7/16

 駅弁。「広岡」が選んだのは、車海老と秋刀魚の弁当だった。きっと売れ筋の名物弁当ではないだろう。
 彼が思っているように、シーズンでなくても秋刀魚を食べることができる。今は、ほとんどの食材がそうなっている。これは、便利だが、食が豊かになったとは言えない。産地で旬の物を食べるのが本当の豊かさだろう。

 車内の初老の男性グループ。いろいろな場所で、老人の男性グループをよく見かけるようになった。私もその年齢だ。私は、一緒に行動する仲間がいないので、グループで動くことはない。
 「すでにそれぞれの仕事をリタイアーし、老後の人生を楽しむ」の中に私も含まれる。だが、そういう人たちを見かけても、好意を持てない。なぜそうなのか、自分でもよく分からないが、老人の男性グループが他の年代の人よりも楽しそうにしているのは、何かぞっとしない。

 「広岡」は、こういうグループの人たちと自分との違いを感じていた。

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