『病床六尺』 正岡子規
朝日新聞連載記事 「患者を生きる」
『病床六尺』にある正岡子規と、現代の「患者を生きる」の患者さんとの違いは、受ける医療にあります。病気についての気持ちには、共通するものが多いと思いますが、治療に関しては大きく違います。
子規は当時としては進んだ治療を受けていたようですが、この病は不治という考えから抜け出すことはできないのでしょう。そのせいか、医師や治療についての記述は詳しくありません。
一方、現代の「患者を生きる」は、連載記事のねらいということもありますが、治療についての事柄が詳しく書かれています。
私の場合も、病気が分かってからは、治療についてのことが最大の関心事になりました。そして、家での生活よりは病院の中でどう過ごすかということが、いつも頭にありました。
どんな病気でも、医療的になんらかの治療方法がある、あるいは今はなくても、明日にもそれが開発されるかもしれない。このことが、よく知られるようになったのは、時代として見ると最近のことだと思います。そして、その医療を受ける可能性が高いのは、世界でも日本はまれなのではないでしょうか。
『病床六尺』の生活から見ると、現代の病との取り組み方は、病人の苦痛を軽くすることと、治る見通しをもてることで、比較にならないくらい現代が進歩しています。
しかし、進歩発展の裏には、必ず何か失ったものがあるはずです。それについては、私はよく分かりません。しかし、現代は、病気に罹った人が「病人」というよりは「患者」になることを、意識してしまいます。
そう考えると、病気に罹った現代の人は、医師と医療スタッフの方々との連携が何より大切だと思いました。また、病院での「患者」としての過ごし方を、患者自身が考えることが必要だ、と感じます。
朝日新聞連載記事 「患者を生きる」
『病床六尺』にある正岡子規と、現代の「患者を生きる」の患者さんとの違いは、受ける医療にあります。病気についての気持ちには、共通するものが多いと思いますが、治療に関しては大きく違います。
子規は当時としては進んだ治療を受けていたようですが、この病は不治という考えから抜け出すことはできないのでしょう。そのせいか、医師や治療についての記述は詳しくありません。
一方、現代の「患者を生きる」は、連載記事のねらいということもありますが、治療についての事柄が詳しく書かれています。
私の場合も、病気が分かってからは、治療についてのことが最大の関心事になりました。そして、家での生活よりは病院の中でどう過ごすかということが、いつも頭にありました。
どんな病気でも、医療的になんらかの治療方法がある、あるいは今はなくても、明日にもそれが開発されるかもしれない。このことが、よく知られるようになったのは、時代として見ると最近のことだと思います。そして、その医療を受ける可能性が高いのは、世界でも日本はまれなのではないでしょうか。
『病床六尺』の生活から見ると、現代の病との取り組み方は、病人の苦痛を軽くすることと、治る見通しをもてることで、比較にならないくらい現代が進歩しています。
しかし、進歩発展の裏には、必ず何か失ったものがあるはずです。それについては、私はよく分かりません。しかし、現代は、病気に罹った人が「病人」というよりは「患者」になることを、意識してしまいます。
そう考えると、病気に罹った現代の人は、医師と医療スタッフの方々との連携が何より大切だと思いました。また、病院での「患者」としての過ごし方を、患者自身が考えることが必要だ、と感じます。