『心』を読んで自分なりに「生まれることと死ぬこと」について考えてみました。普段の日常の出来事として考えてみると、この二つのことは違いがあります。
 今の私の日常では、「生まれること」が身近で起こることは多くありません。一方、もう一つのことはかなり数多く起きています。
 自分が「生まれること」「生まれたこと」について、話題にすることはまれにしかありません。一方のことは、話題にしないまでも意識に上ることはよくあります。
 自分がこの世に生まれたのは、過去のことで、事実として確定していると無意識の内にとらえています。もう一つの方は、将来のこととしてとらえています。
 そして、ほとんど根拠なしで、「生まれること」は、めでたいことであり、祝うべきことになっています。そして、もう一つは、哀しいことであり、忌むべきことになっています。
 そして、これ以上に深く考えたり、感じさせられたりすることがあっても、だんだんに他のことに紛れて、忘れてしまいます。
 『心』を読んで、感じたことも、すぐに忘れてしまうのでしょう。忘れてしまうことを前提に書いておきます。

 「生まれること」と「死ぬこと」を切り離して考えても、本質に近づくことにはならないと思います。この作品にあるように、親友の死というケースを想定してみると、友が生きていたときに深い交流があるからこそ、喪った痛みも存在するのです。同じ学校に通った同窓生であっても、全く交流がなければ、喪った痛みは大きなものにはなりません。
 私が高校生の時に、一人の同級生が事故で亡くなりました。私が見て聞いた彼の表情や声は今も思い出せます。それは、互いに高校生として交流があったからに他なりません。

 生きているからこそ、「生まれることと死ぬこと」に悩み苦しむのだと思います。不思議なことですが、この二つのことは、自分では明確に意識できないものだと思います。もし、意識できるとしても、それは今の感覚と思考とは全く別の次元のものだと思います。 はっきりと認識できて、そして、わずかでも方向づけができるのは、「生まれることと死ぬこと」ではなくて、「生きること」なのだと思います。

 『心』を読んで、ぼんやりとこのようなことを感じています。
  

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朝日新聞連載小説 『それから』第20回
 「代助」が、特別な思いをもっている女性が登場しました。それが、今は「平岡」の妻となっている「三千代」です。
 この人に対する「代助」の気持ちは、この回では何も描かれていません。しかし、「三千代」の容姿については、詳しく描写されていました。

 気持ちそのものを、ありきたりの修飾語を多く使って表現されても、読み手の印象には残りません。しかし、直截な言葉はなくとも、主人公が相手の容姿と動作を細かく見ていると分かる表現は、主人公の思いを、読み手に印象づけることになります。

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朝日新聞連載小説 『それから』第19回
 「代助」の生活と考え方には、前回まではなじめませんでした。あまりにも恵まれすぎているし、周囲の人たちを見下しているような態度が感じられたからです。でも、この回でその感じ方が変わり始めました。
 「平岡」の様子が次のように、描かれています。

口にする事が、内容の如何(いかん)にかかわらず、如何(いか)にも急(せわ)しなく、かつ切(せつ)なさそうに、代助の耳に響いた。

 「平岡」は、新しい就職口を見つけて、新しく住居も見つけて、なんとか生活を建て直さなければならないと、自分の生活のことだけを考えて、余裕のない気持ちに追い込まれていたのでしょう。

 こういう気持ちで、時間を過ごしたことが私にもありました。仕事にかかわることで、競争心を持って、そのことばかりに目がいき、他のことに関心がなくなりました。忙しくしていることが、正しいことのように思えて、他の人の気持ちよりも自分の仕事の成果を優先させたこともありました。そういう時期の自分を思い出してみると、なんだかつまらないことにエネルギーを使ったと思います。
 「平岡」に比べて、実社会の損得や競争に関心のない「代助」の方がよほどましな生き方だと感じられます。
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朝日新聞連載小説 『春に散る』第26回
 成田に着いた「広岡」の行動が丁寧に描かれていました。空港からホテルへ向かうバスの表現です。
 
 まだ暮れきっていない時間帯の、薄紫の闇の中をバスが走っていく。

 その場面の時間帯、風景のイメージ、それらが目の前に広がってきます。私は、こういう表現が好きです。
                                            

朝日新聞連載小説『春に散る』第25回
 舞台は一挙に日本の成田空港に飛びました。
 40年ぶりの日本なのに、「広岡」は、何のみやげも持っていません。空港に出迎える人は誰もいません。キーウェストに行ったときと同じ格好でした。
 
 海外旅行にボストンバッグを一つだけというのは、私にはできそうもありません。でも男としては格好よいに違いありません。余計な荷物を持たないというのは、生き方にも関係してくるのではないでしょうか。

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