『赤猫異聞』の登場人物二人のつながりが、次のように書かれていました。   語り合いながら思うた。こやつは朋輩などではない。双子同然の親友でもない。紛うかたなく私の体の一部なのだ、と。もしこやつがいなくなれば、そのときから歩むことも飯をくうこともできなくなると。  他人のことを「紛うかたなく私の体の一部なのだ」と、感じことが私にはあったでしょうか。友だちにそんな感じをもったことはあったような気もします。でも、あまり自信がありません。今は、こういうふうに思える他人はいません。  作者は、この作品で、強い結びつきの二人を登場させ、この二人を活躍させています。「以心伝心」、肝心のことは語らなくとも、伝わり合い、そして実際の行動で互いを支え合っていく。  このような人と人のつながりと行動を、読むのが気持ちよかった本でした。   にほんブログ村 本ブログへ
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 まだ入院中に、読み始めた。退院してからも、テレビやラジオしか受け付けない期間もあった。一日に何回か本を読むようになったが、一冊の本を読み継ぐということが、どうにも疲れた時期が長かった。  ようやく、『赤猫異聞』浅田次郎著を読み終えた。読んでよかった。四人の語り手によって、話が進んでいく構成が、時間がかかった理由であり、中断を重ねながらでも読み切ることができた理由でもある。  「工部省御雇技官エイブラハム・コンノオト氏夫人スウェイニイ・コンノオト」こと「白魚(しらうお)のお仙(せん)」の言葉は、次のように表現されている。  おうおう。典獄だかヒョットコだかしらねえが、おめら横浜くんだりまでいってえ何をしに来やがった。好き勝手にあれこれ調べ上げたあげく、面と向き合やア人ちげえかもしれねえだの相手が悪いだの、役人の風上にもおけねえ、いやさ、男の風上にも置けねえ野郎どもだ。  時代考証がどうのこうのではなくて、こういう話し言葉を読めたのはおもしろかった。  読むことによって、話を聴くことができる、それだけでもこの小説の価値はある。  講演会などではなくて、面と向かって人の話を聴くというのは、楽しい行為だ。私には、最近そういう経験が少ない。  ただし、面と向かって会話をする場合でも、聴き手のことを考えない話し手の場合は、楽しいどころか、腹立たしい行為になってしまう。 にほんブログ村 本ブログへ
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 「男女平等」という表現も、古くさくなった感じがする。しかし、男女間の不平等の状態がなくなってきたか、というと、そうとも言えない。  人は生まれながらに、差別されてはならない存在だ。人種や性によっても差別されてはならない。私も、そう思う。だが、具体的にそれをどう実現するかというと、いろいろな立場がある。  過去の日本語には、書き言葉にも話し言葉にも、厳然とした男女の差があった。そこをとらえて、次のような意見もある。男性と女性は平等だから、言葉遣いや文字遣いに違いがあった過去へ戻ってはならない。男女は、同じ言葉遣いをすべきだし、男性的な表現と女性的な表現という区別・差別は、なくなることが理想だ。  私は、そうは思わない。過去の女性独特の表現と、男性独特の表現は、その当時の社会の有り様を反映したものだし、日本語の歴史の一部だ。  現代でも、女と男それぞれに、言葉遣いの違いはある。それを否定したり、矯正したりすべきではないと思う。ごく一般的には、私の年代であれば、女性は男性よりも丁寧な言葉遣いが多いが、それはそのままでかまわないと思う。     『赤猫異聞』の中に、次のような表現があった。  「鍵役同心の丸山子兵衛」の言葉に次のようにある。 「人の本性に男も女もあるまい。お仙はきっと帰ってくるわ。」  また、「七之丞」の思いとして次のようにある。  人の本性には、男も女もないのです。いやそればかりか、身分も素性も、生まれ育ちの貴賤もない。  そのときばかりは、武士のほこりをふりかざして権柄ずくに生きてきたおのれが、恥ずかしゅうてたまらなくなりましてな。  罪人となり、何度も死にかけた、「七之丞」という武士の思いだけに、素直に伝わってくる。この小説の表現には、社会制度や法律の面から考えられる「男女平等」とは違うなにかが描かれている。  それは、「人の本性」というものに照らしての平等意識なのだと読み取れる。  日本の過去のある時代のある階層の人々には男尊女卑の意識があった。だが、全ての歴史的な過去に、性による差別意識があったか、というとそうは言えないのではないか。万葉集の相聞歌に、落語に登場する江戸時代の庶民夫婦に、男尊女卑の意識は感じられない。  むしろ、現代のある議会での何人かの議員の、女性は早く結婚すべきだ、という主旨の発言の方に、女性蔑視の意識が反映されているのではないか。

 原作は読んでいない。ドラマだけの印象だ。ロケを丁寧にやっているし、畑や農作業の場面のカメラワークも気持ちよく観ることができた。展開のテンポも悪くなく、最後まで次回を楽しみにした。  なによりも、今の日本の現実を取り上げているので、私の好きなドラマだった。  見終わって、ややすると、不思議な感覚にとらわれた。例えば、「刑事ドラマ」としながら、主要人物に警察官が出てこないような感じか。  現実の「限界集落」のなによりの特徴は、若い世代がいない、住民が減る一方ということだ。さらには、都会地との日常的な交流が困難な地理的な条件にあることだ。  このドラマの鍵を握るのは、つまり「限界集落」を救うのは、若い世代だ。経営が順調になり出したこの村の「株式会社」を危機に陥れる登場人物でさえ、若い農業従事者だった。そして、登場する高齢の農家さんたちが、高齢といいながら元気に農作業をしている。さらに、この高齢の農家さんたちは、少し考える時間を得ると、新しい価値観を受けいれてそれをどんどんと行動化していく。  なるほど、ドラマだ。  若い世代がいない所に、若い世代の住民を登場させている。若い頃に比べると格段に落ちてくる農作業の能率を、それほど落ちさせない。記憶力や特に新しい事物に対する判断力がなくなってくるはずなのに、それをさせない。都会地との日常的な交流が難しい地理的な位置にあるはずなのに、都会からたくさんの人々が日常的にやってくる。  過疎の集落の現実から見ると、この『限界集落株式会社』に描かれたものは、夢物語以外のなにものでもない。  私は、大都市と言われる地域に住んでいる。  身近では、高齢の一人暮らしの方が亡くなって、その後空き家になる家が増え続けている。限界集落だけではなくて、多くの日本の地域にとって、このドラマは、ドラマそのものなのだ。  今存在するものを、なるべく穏やかで、後始末に困らないように、終わらせること。次には、全く新しいものを作り出していくことが、高齢化、人口減少への現実的な手立てだと、私には思える。

 昨日の朝にゴミ出しに行ったときは、歩道は凍っていて滑った。今朝は、乾いていた。昨日一日は、湿った雪が時折降り、風も強かったというのに。  「心豊かに」、「夢を持ち」、「希望を失わずに」、よく聞かされ、読まされ、そして、大切な言葉だ。  『赤猫異聞』には、「夢も希望も」もちようがない運命に置かれた三人の主人公が登場する。 俺たちはまるで今し生まれたての赤ん坊みてえに、がらんどうになった心を空に向けた。  「俺たち」とは、主人公二人のことだ。思うだにしなかった経験をさせられ、今後の予測もまるでつかない。だが、「がらんどうになった心を空に向け」という心持ちには、なにかがこめられている。この主人公たちは、ここまでは確かに行動してきたし、この先も自分の意志で動いていこう、という強いものをもっている。  赤ん坊のようながらんどうの心、困難と理不尽に埋め尽くされた二人がたどり着いた境地だ。    変わることのない自己の意志を守り続けるという生き方もある。この作品に描かれているのは、そういう生き方とは異質のものだ。どうしようもない境遇に翻弄されながら、その変化を受けいれ、その過酷な境遇に適応して生きる生き方だ。  謂わば、開き直りだ。周囲の事情を変えようとする立場ではなく、周囲の事情と運命に適合して、それでいながら、失わないものを持ち続ける主人公たちを、作者は創造している。    私を含めて、今の世の中は、自分に都合の悪いことがあると、その都合の方を変えようとする。理不尽な扱いを受けると、その理不尽を責める。理不尽さを正すのは、正しい。しかし、世の中の理不尽を全て正すことは簡単にはいかない。だからといって、諦めるのも嫌だ。負けるのも嫌だ。  自分に降りかかったものはまず受けいれ、それを乗り切るために、 「開き直り」「まず行動ありき」といったものを、この小説の主人公たちに感じる。 時代は江戸だが、創られている登場人物たちの心情は、それほど時代にしばられていないようだ。

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