本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第365回2019/6/13 朝日新聞

 こういう父としての子への行動が、人間としての父性であろう。理屈などない男親としての子への愛情表現だと感じる。
 ここで思い出すのは、後藤さんの場合で、おそらくは後藤さんも我が息子が物心つくまでは、洋一郎の父と同じような一直線で不器用そのものな愛情を持っていたと思う。
 こういう愛情表現は、子どもの幼児期で終わりをつげるのであろう。なぜか子どもが物事を記憶する年齢になると、父親の正に親バカといえる行動も姿を消す。姿を消すというよりは、子ども本人や母親から迷惑がられる行動になってしまうと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第364回2019/6/12 朝日新聞

 でき過ぎたストーリーのようで、そうではない。
 親が、特に年老いた親が、すでに老境に差しかかった子に昔の親子のことを語るのは、こういう状況がなければならないと思う。そうでなければ、照れくさくて話せないだろう。
 次の世代へ命を受け継ぐということには、前の世代の死がなければならないのだ。
 死ぬことや死に伴う事柄、つまり、なんらかの形での葬式や法事や墓や墓参りを抜きに、新しい命にバトンを渡すことなどできないと、作者は言いたいのだと思うし、そこに共感できる。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第363回2019/6/11 朝日新聞

 洋一郎と姉の宏子との姉弟らしい会話が、はじめて出てきた。年を取った姉と弟が交わす互いの孫についての会話は、しみじみとしていてよい感じだ。

「でも、よく考えたら、外孫だの内孫だの、長谷川の家の墓だの合同墓だの、アホらしいね、もともとツギハギだらけのウチなのにね……」

 姉のこの言葉もその通りだと思う。今までの怒ってばかりいる姉とは違う印象だ。
 姉の宏子には、洋一郎に話したことのない実父との思い出があるような気がする。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第355~362回2019/6/2~6/9 朝日新聞

 実の親と再婚後の親、つまり実の父母と養父母がいる場合、子の立場からすると、実の父母との繋がりが強いのではないかと思ってしまう。しかし、そうとばかりは言い切れないことがよく分かる。
 そして、難しいのは、子も親も、実の親子と義理の親子の本当のところを、本人ですらとらえていないことが世間ではよくあるということだと思う。
 洋一郎の母は、義理の息子夫婦に遠慮しながらの余生を送っているように見える。
 洋一郎自身は、義理の父である隆さんを、心の底から父と思うことがなかったと感じている。
 洋一郎と洋一郎の母のこのような感覚は、二人の心の一面であったことは確かだ。一面であったが、違う面もあったのだ。
 母は、再婚を心から幸せだったと感じ、義理の息子夫婦に感謝している。洋一郎は、今になって、隆さんを父として懐かしんでいる。
 
 洋一郎本人ですら気づかないできた心の底にわだかまっていることを浮かび上がらせるのが、実の父の死だったのだと思う。

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 第331~354回2019/5/9~6/1 朝日新聞

 洋一郎は、なんだかなし崩しに、父の遺骨への愛着が湧いてきたようだ。
 洋一郎が、父の死にかかわっているうちに、命のつながりを実感するようになり、父の遺骨に対しての気持ちが変化したのはわかる。しかし、その気持ちの変化が、列車の中で遺骨を膝に抱いたままでいるというのは、理解し難い。

 父の遺骨、いや父の死への洋一郎の変化しつつある気持ちに、母の長谷川の墓には入らないという意志が突き付けられた。姉の宏子にしても、母の意志の前では、それを否定することはできない。

 血のつながらない子である一雄が、義理の母に対してもっている気持ちは、昨今では常識的なものだと感じる。

 父の死についての全てを話し終えた洋一郎がスッキリしたのは当然だ。むしろ、最初に母に話すべきだったと感じる。だが、父のことを川端さんや神田さんや小雪さんから聞かずに話していたら、それはそれで違った展開になっていた。

 親の老いと死について、子は、悩み迷い、行きつ戻りつすることが自然なのかもしれない。
 子は、親の死から今までは持てなかった考えに至ることがある。それは、大切なのことかもしれないと感じる。

↑このページのトップヘ