本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第84回2015/7/30

 父に会えずに、兄嫁に縁談を断った。父の都合が悪かったことが、今後の成り行きに影響するような気がする。
 そして、兄嫁の話から、本人に知らされずにこの縁談が進んでいることも分かった。当時としては、これは不自然なことではなさそうだ。

 父に直接断ったのではないのに、「代助」が珍しく緊張しているのが伝わって来た。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第118回2015/7/30

 突然、昔の仲間が40年ぶりに訪ねてきた。自分は他人には見せたくないような惨めな暮らしをしている。しかも訪ねてきた旧友の方は、景気がいいようなのだ。
 この状況なら、訪問を受けた方は、気まずくていたたまらなくなるか、つっけんどんな態度を取ってもしょうがないと思う。
 ところが、「佐瀬」は、何とか「広岡」をもてなそうとしている。
 その気持ちが伝わって来る。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第83回2015/7/29

 「決心」を行動に移した「代助」は、実家でなんだか肩透かしを食っているようだ。
 普段は、父や兄嫁が真剣になって言って来ることを、「代助」がのらりくらりとやり過ごしている。その彼が今日は兄嫁ののんびりさに苛立っていた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第117回2015/7/29  

 縮こまっていた心が、解けていく瞬間が描かれていた。

「俺は、何ももてなすことができない。おまえをここに泊めたいが泊められない。まともな布団の一組もない……」

 「佐瀬」は生活に困っていることを愚痴っているのではなく、昔の仲間に茶の一杯も出せない自分の不甲斐なさを悲しんでいると感じる。
 そして、「広岡」は、ジムの時代から仲間を思う気持ちを持っていた男だったのではないか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第82回2015/7/28

 散々考えた末に結論を出したのかと読んでいたが、違っていた。「代助」は、行動すべき結論をまだ出せずにいた。
 前回まででは、「代助」は結婚が「三千代」との仲を「遮断」すると考えていたが、それは違うと考え始めた。
 既婚の女性を愛したと言うことは、結婚という形式が、男女の愛情を妨げない。ということは、「代助」の結婚も「三千代」への愛情の妨げにはならないという考えに至った。
 
 現代では、不倫の愛と言えば、既婚者同士の愛が当たり前のようになっている。これは、人間社会の進歩なのか、それとも別のことなのか。

 今回の結論は、「縁談を断るより他に道はなくなった。」であった。さて、「代助」は、どう行動するか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第116回2015/7/28

 前回を読んで、読者として感じていたことを、主人公自身が考えているようだ。

死んでいないだけではないか。佐瀬のその問いは広岡自身にも突き刺さってくるものだった。

 それほど、この二人の境遇は共通している。
 二人の違いである金銭面については、「佐瀬」は、強い引け目を見せてはいない。

いくら貧しても鈍していないらしいことに、広岡は救われる思いがした。

 私も、二人の違いが金を持っているかいないか、ではないことに救われる思いを感じた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第81回2015/7/27

 「代助」が散々考え抜いた末に、ある結論を出した。
 それは、父や兄嫁から勧められている結婚を承諾することだった。この結婚をすれば、「三千代」との仲は今以上に深まらなくなる。そして、今まで通り父からの援助を受け続けれる。
 この結論を実行すれば、いろいろと都合のよいことが多くなりそうだ。
 しかし、「代助」は、自分の心情を自分で踏みにじるようなことができるだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第115回2015/7/27

 「広岡」と「佐瀬」は、二人とも若い頃の夢を実現できず、負け犬の気分を味わってきた。しかも、何度も敗者の立場に追い込まれた。そして、二人とも家族や周囲の人から孤立した生活を送っている。
 違いと言えば、「広岡」はボクサーを止めた後の仕事がうまくいって、現在は暮らしに困らない蓄えがあることだ。
 共通点の多い二人だが、現在の生きている実感は大きく違う。「広岡」の方は、深刻な病気に罹っていながら投げやりな気持ちにはなっていない。だが、「佐瀬」の方は違っていた。
 金があるかないかだけが、二人の違いの理由なのだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第114回2015/7/26

 「広岡」は、4人のボクサー仲間のリーダー格だったように感じる。
 「藤原」は、「広岡」だったらこうしただろうと思って行動した、と話していた。
 「佐瀬」は、「いつもおまえ(広岡)の言葉を思いだしていた。」と言っている。
 リーダー格と言うよりも、同年配ながらも仲間の中の精神的な支柱だったのではないか。


 次の表現に、なるほどと思わせられた。 

ついに自分より強い相手がどこにもいなくなった状態のボクサーをチャンピオンと呼ぶのだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第113回2015/7/25

頭がはっきりしたまま八十五まで生きることができれば、そして、そこで死ぬことができれば、幸せな一生と言えるかもしれない……。

 どの学問分野も、高齢化した人間社会と個人を研究対象にし始めているのだろう。しかし、過去の歴史に学ぶことはできないだろうから、研究の成果が出るのは今後になる。
 高齢化問題の専門家と言っても、日本の現実を見ている期間は一般の人々と大差はない。文学者が、この問題に予見を始めたのはせいぜい数十年前だろう。

 私の年齢と経験からは、主人公の上のような考え方に共感できる。少なくとも、この表現をひっくり返した場合は、「幸せな一生」とは言えないと思う。
 しかし、この考え方に自信は持てない。
 文末の「かもしれない……。」が表現している通りだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第80回2015/7/24

 「平岡」を説得しようという「代助」の試みは、完全に失敗している。

 父と家族から迫られていることに従うことはしたくないし、それを跳ね返すこともできない。所持金がないので、旅行と称して逃げ出すこともできない。
 「三千代」との関係を深めることはしたくないし、その関係を解消するための「平岡」との話は全然進展しなかった。
 「代助」はますます八方ふさがりになったようだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第112回2015/7/24

 久しぶりに若い頃の仲間と会えば、過去に一気に戻ろうとする。しかし、会わなかった互いの時間を埋めるのは難しい。

 夢破れたら、人はどうするのか。
 全てのことに無気力になり、自暴自棄な暮らし方をする人もいる。次の夢を持ち、次々と夢を持ち続ける人もいる。夢を持つことを止め、それでも無気力にもならず平凡に暮らす人もいる。
 「佐瀬」の場合は、二度目の夢は実現の手がかりをつかんだが、それを発展させることができなかった。ボクサーとして世界チャンピオンになる夢と、自分のボクシングジムで優秀なボクサーを育てる夢、その両方とも実現にこぎ着けることができなかったようだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第74回2015/7/23

彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便に、自分を三千代から永く振り放そうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣っただけであった。

 「三千代」の夫婦生活が安定すれば、「代助」の彼女への愛が今以上には進まなくなる。
 「代助」は、「三千代」の「代助」への気持ちを分かっているし、友人の妻であることを制約とは見ていない。
 それなのに、「三千代」との関係を今以上に深めたくはない。それは、自分をやっかいな立場に追い込みたくないからだ、と感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第111回2015/7/23

 「夢」という語が、将来実現したい願いや理想の意味で使われるようになったのは比較的新しい、という分析を読んだことがある。
 私は、「夢」を願いや理想の意味で使うのは今でも抵抗がある。「夢」とは寝ている間に見る幻想、という意味の方を強く思い浮かべてしまうからだ。
 最近は、夢の実現が人の幸福につながるだけでなく、実生活の安定につながるという捉え方をしている例を見聞きすることが多い。しかし、夢の実現と実生活上の安定は無関係だと思う。
 金銭的な富を得たい、という夢を実現したときだけが、実生活上の経済的な安定につながる。その他の夢が、成功や安定につながるというのは、それこそ「夢」だと思う。
 その意味で、「佐瀬」は、「夢」を実現させたのだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第78回2015/7/22

 「代助」の意図が分からない。
 「平岡」とは、肝心の話はできなかった。しかし、もし「代助」の思うように話が進んだらどうなるのか。
 「平岡」が妻に気を配るようになって、今よりも妻に優しくなったとしよう。そうすると、「三千代」が今困っていることは、解消する。そして、毎日淋しい思いをしないで済むようになる。つまり、彼女はそれなりに安定した結婚生活を送れるようになるであろう。
 そうなると、「代助」は「三千代」を「気の毒」に思わなくてもよいようになる。そうなることが「代助」の意図なのだろう。
 これは、理屈で考えるような気持ちではないのかもしれない。愛する女性が困っているのだから、純粋に彼女を助けたいという気持ちだと言われそうな気もする。
 しかし、どんな場合でも理詰めにする「代助」のことだから、読者としてもつい理詰めで考えてしまう。

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