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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第166回2015/9/18

 肩を壊していたのに、ボクシング選手として活躍したことに疑問をもたなかったが、そういうことだったのか。
 スポーツの種目によって使う筋肉に違いがあるということは聞いていた。それにしても「広岡」がボクシングを始めるまでの経過はいかにも彼らしい。けんかの相手(ボクサー)から、ジムを勧められたというのなら平凡だが、「広岡」は自分で考え、自分で試している。
 この時に、「広岡」を殴った相手は、「星」のようだが、次回には分かるだろう。

そして、最後に、部屋が微かに揺れるようなパンチを叩き込んでみた。

 いかに安普請の建物であろうと、拳を痛めることもなく、こんなパンチを叩き込めるなんて、やはり只者ではなかった。



朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第165回2015/9/17

 「星」は、一緒に住もうという話には乗らなかった。「佐瀬」と「藤原」も「広岡」の所へ進んで来る気配は感じられない。
 ジム仲間の3人は、「広岡」がいくら金持ちになっても、その金を当てにして世話になろうという気持ちは持たないと思う。
 そして、「広岡」の方は、他の人に強引に自分の考えを押し付けることはしないだろう。ジムのコーチ役を引き受けなかったように、決して自分から他の領分へ出しゃばることはしない。
 「広岡」には、他の人を深追いしない、そして、自分の役割が済んだと思うと、自ら身を引く姿勢を感じる。


広岡は相手を殴るどころか、体に触れることもできなかった。

 ここがボクシング観戦の魅力でもあるが、それを分かるようになるにはそれなりの経験がいる。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第164回2015/9/16

 昔の仲間が困っていて、助けてほしいと思っている。だが、その気持ちを素直に言葉にすることができない。こちらは、相手のその気持ちが分かってしまう。そんな時どうするか。「広岡」のように、相手の気持ちの中までは深入りしないという選択もある。

もしかしたら、言葉とは裏腹の、異なる思いがあるのかもしれなかった。だがそれを斟酌しすぎるのはやめようと広岡は思った。

 一方では、相手の言葉の裏を読み取り、積極的に助ける選択もある。その方が、困った状況に具体的な手を差し伸べることになる。そういう場合もあるだろう。 
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第163回2015/9/15

またあの昔のような生活に戻るなんて願い下げだね

 「星」のこの言葉の真意はまだ分からない。
 「あの昔のような生活」とは、ジムでの四人の共同生活のことだ。そして、それは40年前のことだ。

 この小説の舞台は、今とずれてはいないと考えられるので、日本の現在と40年前を比較してみた。私の場合は住んでいる所も家族も年月の経過があるだけで、大きな変化はない。
 しかし、衣食住をはじめ生活の中身の変化は激しい。何よりも生活感覚が40年前とは大きく変化した。特にここ10年間ほどは、人口の年齢構成の違いが大きく、それが、生活全般に影響を及ぼしている。
○働き方が違う。
○結婚と家族の実態と意識が違う。
○人の晩年の過ごし方が違う。

 主人公「広岡」の日本での生活感覚は、次のような40年前のものであるはずだ。
○老人は少なく、働き盛りの人と子供が多い。
○会社などに就職すれば、終身雇用が当たり前で、一度仕事に就いたら転職はしない方がよい。
○結婚をするのが当たり前で独身のまま過ごす人は珍しい。結婚は一生に一度のものであり、離婚はしない方がよい。
 日常生活では、娯楽は映画が王者でテレビがその座を奪おうとしていた。自家用車、シャワー付きのフロ、エアコンは贅沢品だった。給料は、現金で支給され、ガソリンの値段は今の半分以下で、パソコンや携帯は想像すらできなかった。
 そして、普通の家庭では老人は家族と一緒に住み、亡くなる直前までは自宅にいた。「介護」という言葉は聞いたことがなかったし、老人が寝たきりやボケてもその期間は今よりは短いものだった。
 そんな「広岡」の意識は、現代の感覚との差をどうつかんでいるのだろうか。
 

wowow 映画 モーターサイクル・ダイアリーズ 監督ウォルター・サレス

 その場所へ行って、そこの空気の中に入って、そこの景色を見なければ、外の世界を知ることはできないと改めて思った。
 出かけるのが最近は億劫だ。でも旅に出るのが、新しい事に触れる一番いい方法だ。商品化された旅行はだめなので、自分で行き先を選んで、自分の道順で行かなくては意味がない。
 この作品からは、未熟さと無謀さを、そして、それを上回る好奇心と行動力の魅力を感じた。


朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第162回2015/9/13

 「広岡」は、思い付きで、言っているのではないだろう。「元ボクサーのための老人ホーム」のような構想があるのかもしれない。

 もし、私が一人暮らしで、その上に住んでいる所を立ち退かなければならないとしたらどうするだろうか。
 賃貸アパートを探すしかない。年齢だけでなく、身体面からも仕事をするのは無理だから、収入は限られる。肉親と知り合いがいるが、そういう人の所で一緒に住むということは考えられない。
 賃貸アパートだと、ある程度の設備が整っていても、防音や広さは不十分だ。隣室のことを考えると、まるで入院中のようにテレビの音にも気を遣うことになりそうだ。話し相手もなく、終日その部屋にいるかと思うと、今とはずいぶんと世界が変わりそうだ。
 一軒家で夫婦で暮らせることの幸せを改めて感じる。同時に、今の暮らし方がいずれはできなくなるので、そのための準備をしなければ、とも思った。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第161回2015/9/12

 「星」は、住む所をなくしそうな気配だ。
 「藤原」は、出所後に帰る場所がなさそうだった。「佐瀬」は、住む家はあるがそこは安心して住める所とは言えそうにもなかった。
 老境に入る三人共に安心して暮らせる家がない。
 老人の男四人が、共同生活できるだろうか。若いころに共同生活の経験があっても無理じゃないかと思う。他の小説やドラマでは、女性同士や男一人と女複数の共同生活は成り立っている。男同士がうまくいかないのは、男は家事ができないという固定観念があるからだろう。
 元ボクサー四人の炊事洗濯掃除の姿は想像が難しい。それとも、それぞれに得意分野でもあるのだろうか…

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石

 当時の資産家の子弟で、高等遊民と呼んでよい生活をしている人は現実の世間にいたであろう。しかし、「代助」のような精神をもつ人がいたであろうか。
 時代を問わず、支配階層や富裕層の人々が、より高い地位と権力、そして、より多い富を貪欲に求め続ける例はたくさん知られている。
 当時の資産家の子弟で、親の金で遊んでいられる人々は、より贅沢を求め、教養と実力がなくても世間的な地位や権力を欲しがる人が多かったと考えるのが自然だろう。

あらゆる神聖な労力は、みんな麵麭を離れてゐる。

 このように考え、自分が働かない根拠がここにあるとする「代助」のような高等遊民が他にいるだろうか。
 さらに、視点を変えるなら、この言葉は、金銭を得るための労働をしない人にしか言えない言葉でもある。どんなに金銭に無頓着な人であっても、仕事をして得た金で生活している人がこの言葉を言っても、それは理想論でしかない。
 したがって、金銭を目的とする労働はしないとする精神を行動に移すことができるのは、親の金を使うが贅沢を求めない高等遊民の「代助」だからこそ可能なのだと感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第160回2015/9/11

ああ… 俺は、女と一緒に暮らす資格のない男だから

 結婚して安定した生活を送ることができる「男の資格」を、考えみた。
・家族の将来を見通した収入を得ることができる職業についていること。
・妻となる女性と長い時間を共に過ごし、家庭を作っていく意志を持っていること。
 自分の結婚生活を振り返ってみて、上のように考えた。でも、これは今の年齢になっての結果であって、結婚する前はこの資格があったとは言えないし、考えたことさえなかった。仕事を引退して、家にいる時間が長くなると、上のことに、プラスして、妻の目線になることが今まで以上に必要だと思う。

 「広岡」は、上のような要素を持たずに来た男だ。そして、自分でそのことをよく知っていて、「資格のない男だから」と言っていると思う。
 この辺は、いかにも彼らしい。そして、それがこの男の魅力にもなっている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第159回2015/9/10

 「星」のボクサー後の人生は、平凡で穏やかとは逆のものであったことが分かる。それは、「広岡」を含めての四人ともがそういう人生を送ってきたのだろう。

 現実の人生は、この小説のジム仲間の人生とは違っている。おおむねの人の人生は、普通で平凡な色合いを帯びている。小説に描かれるような起伏に富んだ一生を送る人など滅多にいない。
 私の場合なら、一つの職業を定年まで続け、結婚は一度だけだ。周囲を騒がすようなことをしたことはないし、世間の記憶に残るような事件に巻き込まれたこともない。
 だが、自分の中では、うれしいこともあったし、悲しいこともあった。繰り返しの日々に見えて、同じ日は一日としてない。時間を早回しのように圧縮したり、小さな変化を誇張すれば、小説に描かれるいる人生の要素が、平凡な人生の中にもおおいに見えてくる。


失う悲しみを味わわないためには、最初から関わりを持たなければいい。

 ここに「広岡」の生き方の一端が見えてくる。「広岡」は、ボクサーを引退してからの生活で、このように思い続けて仕事だけに没頭してきたに違いない。だからと言って、「星」の今の悲しみを、「広岡」が理解しないわけでは決してない。それどころか、「星」が、愛し信頼できる女性と何年も暮らしていたということに羨望の気持ちを持ったような気がする。 

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朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第158回2015/9/9

その繊細さが、四人が四人とも、ついに世界チャンピオンになれなかった理由かもしれない

 連載100回の感想で、「広岡」が世界チャンピオンになれなかったのは、次のことが欠けていたからだろうと、私は考えた。 
  ・その競技と競技者の健康面までを熟知した指導者(コーチ)。
 ・競技者の生活をあらゆる面で支え、応援してくれる家族や支援者。
 ・勝負の運。
 この回では、私が考えていたようなことではなく、「その繊細さ」が理由かもしれないと、されている。
 ということは、他人を思いやる繊細な神経は、世界チャンピオンになるには邪魔になるということなのだろう。リングの上だけでなく、どんな場面でも相手のことなど一切考えないで自分のことを優先させる強引さ、ある意味の鈍感さが、勝ち続けるために必要だということだと思う。
 現在の「星」はすべてにやる気を失なっているような状態なのに、「広岡」の気持ちを「繊細」に感じ取り、思いやっている。それは、若いころから変わらないものなのだろう。

 「佳菜子」の「人の心を感知する独特のセンサーのようなもの」は、ここでいう「繊細さ」に通じる。作者が人間を見つめる視点は、こういうところに常にあるようだ。それが、この小説の魅力的な会話を生み出していると感じる。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第157回2015/9/8

 「ジムの会長」の言葉に感心したのは、これで二度目だ。

自分をどれほど追い込んでもよい。しかし、他人を追い込んではならない。それが共同生活をしていく上での鉄則だ。深追いするな。他人を深追いしていいのはリングの上だけだ。

 「他人を追い込んではならない」は、今までにも聞いたことがあって、それが大切なことを知っていた。しかし、そのことを、「共同生活をしていく上での鉄則」として意識したことはなかった。
 なるほどと思った。それに、これはジムの共同生活だけでなく、いろいろな場面で当てはまる。学校にも、会社にも、地域社会にも、家族でさえ、共同生活の要素がある。「他人を追い込んではならない」は、そのいずれの場合も、「鉄則」だと改めて思った。
 さらに、「リングの上」はボクシングだけではない。戦わねばならぬ場合は「深追い」もあり得るということだ。

 この回の最後の一文もよい。「繊細さ」「奇跡」、まさに語句の意味がこの上なくピタリと当てはまっている。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第110回最終回2015/9/7

 連載を読み終えた。
 毎回の感想を続けることができた。

 働くことの意義を考えさせられた。
 結婚という社会的な夫婦関係と、自然な男女の関係との違いについて考えさせられた。
 世間の良識と道徳が、時代によって変化し、それは何の影響を受けるかについて気づかされた。

 最終回では、次のことを考えてみたくなった。
 人は、一人の人として尊重される存在である。同時に、人は、家族、社会、国家の一員として生きることに意義がある。人は、この両面を常に有している。
 この両面、すなわち、個としての面と集団を支える一人としての面をもちながら、そのふたつが衝突する場面がある。そして、そのどちらかを優先させなければならない場合がある。
 明治時代には、最終的に、家族の一員であり国家の一員であることを優先させることが求められたに違いない。
 そして、そのような時代の中で、「代助」は、個としての自己を守って生きようとしてもがいている。

御前はそれが自分の勝手だからよかろうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉という観念は有っているだろう。

 これが、社会に認められた観念だ。そして、ここに疑問をもつ人は少なかったと思う。それは、現代でも通用すると思う。

父も兄も社会も人間も悉く敵であった。彼らは赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この燄の風に早く己れを焼き尽くすのを、この上もない本望とした。

 夏目漱石は、「代助」と「三千代」に「本望」を遂げることをさせなかった。
 ここには、愛を至上なものとするよりも、個の存在の重さを主張している姿勢を感じる。

代助は、自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。

 進むべき方向も、進むための方法も微塵も見えない。が、先へ進もうとする意思を感じる。それは、社会を捨てた二人だけの逃避行ではないと思う。
 今までと異なる境遇と生き方であったとしても、「代助」は、明治という時代の「電車」に「乗って行こう」と「決心した。」のではないだろうか。


 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第156回2015/9/7

しかし、そうしたありきたりの言葉では、いまの星の胸には届かないような気がした。

 「心には届かない」としても、意味は変わらない。だが、二人の男の会話では、「胸には」がより伝わってくる。「胸が裂ける」という慣用句を思い出した。
 こういう何気ない言葉の選択から、登場人物の声、表情、その場の雰囲気が浮かんでくる。

 「星」は、他の二人とは違って、独り身の生活が長いというわけではなかったようだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第155回2015/9/6

 夫に先立たれた妻は、その後の人生をしっかりと生きる場合が多いようだ。しかし、妻に死なれると、夫はダメになるケースをよく聞く。
 独身の男性は、結婚している男性よりも平均寿命が短いそうだが、それもうなずける。

 なんだか現代日本の男性の老後の生活は寂しく哀しい。

 だが、しかし、でも…
 本当にそうなのか。体力がなくなれば、どんな仕事をしていても若い頃のようには進まなくなる。老人同士の付き合いは、若い人同士の付き合いのような華やかさはなくなる。病気にもなれば、大切な人と死別することも増える。
 自然なことではないか。

 日本は平和だ。物は豊富だ。
 日本の老いた男たちよりも、もっともっと寂しく悲しい思いをしている人が、世界中にいっぱいいる。

 昔の思い出にしがみつき現在に落胆する。「広岡」は、そんなことはしないと思う。
 

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