本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

wowow 映画 グランド・ジョー

 よかった。

 映画館に行かないし、テレビで放映した映画しか観ていない。それも、最近は何を観るかの傾向も特にない。
 この映画の前には、「ガメラ 大怪獣空中決戦」」を観始めたが、途中で寝てしまった。
 この数か月に観た洋画では「鉄くず拾いの物語」がよかった。
 「グランド・ジョー」は、なんの予備知識もなく番組表の短い紹介だけで選んだ。半分くらいまでは、たいして引き込まれもしなかった。後半にいくにしたがって、映画に集中できた。
 観終わって、しばらく呆然とした。エンディングタイトルに曲が流れるが、その訳詞の字幕にも見入ってしまった。

 私の若いころ、アメリカは、映画とテレビドラマとミステリー小説の中でかっこよさそのものだった。
 最近のTVドラマの中では、日本もまもなくこうなるのかと思わせられる暗さに満ちている。
 この映画は、アメリカの中でも特殊な地域だろうが、アメリカの現在が伝わってくるような気がした。描かれているのは悲惨な家族と若者、そして独り者の男だ。ストーリーは暗い。幕切れも決して希望に満ちているわけではない。
 だが、苦しみながら失敗しながらもよりよく生きようという意志と、さまざまな困難を乗り越えていく者がいる、そんなアメリカを久しぶりに感じた。

 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第154回2015/9/5

 ボクシングの世界チャンピオンが一人誕生するためには、世界中に無数の敗者がいなければならない。その敗者の中には1回も勝つことなく、ボクサーをやめた者もいる。だが、その中の何人かは勝ち続けて、ランキングの上位まで達した。
 「広岡」は、野球ではプロでの活躍を見込まれ、プロのボクシングではチャンピオンに近づいていた。それだけの才能があり、努力もしたに違いない。しかし、いずれの場合もそこに到達できなかった敗者であった。
 沢木耕太郎は、チャンピオンの物語ではなく、栄光を手にする資格がありながら、敗れた男の物語を書いていると感じる。
 しかも、そういう男たちのその後が描かれている。

広岡がもういちど呼びかけると、不意に扉が開き、男が顔をのぞかせた。

 「星」は、一瞬で「仁」だとわかった。しかし、「星」の方は、「男」と表現されている。40年経てば、変わるのは当然だ。「広岡仁」が昔と大きくは変わっていないと見えることは、すでに他の二人も言っていた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第109回2015/9/4

  「代助」が価値を認めない物事に、価値をおくと「平岡」がとった行動になるのではないか。
 世間で幅を利かせる富と地位を得ることを目的にして、世間体を気にしながら生きるのが、「平岡」であろう。そういう考え方に立つと、「代助」の「父」に苦情を訴えることは当たり前になるのだろう。そして、それが、「代助」に打撃に与える最も効果的な方法だと考えつきそうだ。

 一人の人間を、個人として見るか、家と地域社会と国家の一員として見るか、その違いが浮かび上がってきたと感じた。

 「代助」は、彼と「三千代」との愛を、彼だけに責任のある問題としかとらえなかった。しかし、世の中の人々は、世間の一員であり、家の一人である「代助」が引き起こした破廉恥な事件ととらえることになるのだろう。 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第153回2015/9/4

 「弘」も「弘志」もヒロシと読める。苗字も名前も、漢字の読みは確かめないと正確にはわからない。しかし、主人公の世代の名前の読みはまだ見当がつく。今の子どもたちの名前はどう読めばいいか、困ることがある。でも、一度聞くと忘れないからそれはそれでいいか。

 「星」の住んでいるらしい所に近づくにしたがって、不安が増す。
 「広岡」が駅前で見たホームレスのことが気になる。あれは、何かの暗示だったのだろうか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第108回2015/9/3

代助は拳を固めて、割れるほど平岡の門を敲かずにはいられなくなった。忽ち自分は平岡のものに指さえ触れる権利のない人間だという事に気が付いた。

 「代助」は、周囲の目をはばからないような行動をとらなかった。しかし、「三千代」の命が危ないかもしれないと思うと、自制心も限界に近づいている。
 かろうじて、強引な行動を止めているのものは、彼が否定している夫の権利というものだった。観念では否定していても、社会の秩序を破壊する行動はとらなかった。
 矛盾だと思う。だが、矛盾をはらみながら生きていくのが人間だとも思う。
 だからこそ、彼の苦しみが時代を隔てた読者に伝わってくるのだと感じた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第152回2015/9/3

 4階建てのビルの2~4階にスナック、居酒屋、1階にラーメン屋、寿司屋がびっしりと並んでいる。どの店も小さいが客はそれなりにいる。名前の変わる店はあるが、空き店舗は出ない。
 スナックが減り、お好み焼き屋、弁当屋が増える。
 たまにスナックに行くと、次の客が来るまで店を出ることができないほど客がいなくなる。
 テナント募集の張り紙が目立つようになる。
 ついにビル全体がガランとして、廃墟のようになった。
 この30年間のどこにでもある移り変わりだ。「水商売」だから仕方がないか。昔は、堅実といわれていた業種も今は、当てにはならないようだが。

 ますますよくない予感が…

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第107回2015/9/2

 恵まれた境遇と、才能。ないものと言えば世俗的な地位と自由になる金銭だけだ。愛する女性は、すべてを投げうって、その愛にこたえてくれている。それが、「代助」だ。
 以前の仕事に失敗し、その際の借金がある。今の職業と地位に満足していない。病気で子を亡くし、妻への愛は冷めた。世俗的な成功を求めて動き回っているが、うまくいかない。それが、「平岡」だ。
 そして、「代助」は、世渡りの術で、「平岡」に手も足もでない、と感じた。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第106回2015/9/1

三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。

 この回の注釈が大変に役に立つ。
 
 この小説の時代以降、100年以上かかって、上のような考え方が広く世間に認められるようになった。
 結婚は、本人同士の愛によって結ばれるものという考え方も同様であろう。
 既婚であろうと、女性の愛を、誰からも「命令する訳には行かない。」とする言葉は、当時としてはそれまでの考え方を逆転するものだったと想像できる。

 男女は平等、同権であり、男女共同参画社会をより進める、という考え方を、私はすでに認められたものとして教えられてきた。その考えに反対すると、非難されることを覚悟しなければならない時代に生きている。
 「代助」は、女性に参政権さえない時代の日本社会で、ここまで到達している。

 社会活動家、思想家が上のような主張を述べ始めるのは、日本ではもっと後の時代になってからであろう。
 そして、何よりも注目したいのは、活動家や思想家は概念が先行するが、漱石の小説の中では、感情に左右され、実際には考えた通りには動けない「人」が描かれている点である。それが、三年前の「代助」の行動に表れていたと思う。

君からの話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶えるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第150回2015/9/1

とても、とても、おいしいお米を送ってくださったこと

 テレビを見ていて不思議に思うことはたくさんある。不思議というよりは信じられないことと言った方がよい。その最たるものが、米や水を口に入れてすぐに、「おいしい!」と言うレポーターがいることだ。
 我が家では、もう何年も前から知り合いの農家が作り、そこで精米した米を食べ続けている。でも、違う米、ご飯を出されても、その時にすぐはわからない。水は、普段は浄水器を通した水道水を飲んでいる。ペットボトル入りの名水なるものを飲んでもすぐに違いはわからない。
 ご飯は、いつもと違う米が何食か続くと、あれっ違う、と気づく。
 私の味覚が鈍いのだろう。
 そう言えば、「佐瀬」が送っている米は、近所のスーパーで買ったものだったはずだ。

 「星」は、手紙の代筆をしてくれるようなしっかり者の女性と、元気に暮らしているのであればいいのだが…

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第105回2015/8/31

 今はどうであれ、「平岡」は「大助」にとって同世代であり、かつては親友であった。「大助」が接する人物の中で、最も近い位置にいるということもできる。
 だからこそ、結果を斟酌せずに話をしたのかもしれない。
 だが、「平岡」は、ただ自己の名誉が深く傷つけられたということしか感じなかった。そして、法や社会的な制裁以上の方法で、名誉棄損を償うことを求めているようである。
 

TV NHK総合 歴史秘話ヒストリア やっぱり妻にはかないません! ~初代総理大臣・伊藤博文 妻 梅子
『それから』 夏目漱石


 この番組から思ったこと。
○江戸時代から明治時代にかけての結婚は、家と家のものであり、親同士が決めるものであった。それは道徳にもかなったものだった。
○明治時代は、花柳界の女性を相手にすることには、世間は寛容だった。そして、その場合に、男が既婚か未婚かは問われなかったようだ。

 明治時代には、男女関係の道徳的規範が現代よりも厳しかったというのは、ある面では当たっているであろう。しかし、それには本音と建て前、理想と現実があり、当時の人々はそれを使い分けて平気だったような気がする。
 姦通罪が施行されたということは、その事実が取り締まりを必要とするほどだったということだろう。

 現代との違いは、男女平等の考え方がなかったこともあげられる。男性の花柳界遊びには、社会も寛容だったし、結婚も男性に有利な面があったといえる。
 『それから』の主人公は、鋭い感覚と思考力で、芸術を味わい、労働の意味を考え、男女の愛に悩む。しかし、芸者遊びをすることには、なんの疑問も感じず、ある正当性さえ表現されている。
 江戸時代から明治時代にかけての世間の大半の夫婦は、本人の意思に関係なく結婚している。そして、そういう夫婦が問題もなく社会生活を維持していたのは、歴史的な事実といえるだろう。
 では、好きになった男女の結婚がなかったかというと、そうでもないようだ。特に明治に入ってから、恋愛結婚も世の中に認められだしたといってよいようだ。
 それが、伊藤博文と梅子の場合だろう。


 私たち太平洋戦争後生まれの世代がもっている結婚観は、歴史的に見ると、かえって特異なものかもしれない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第149回2015/8/31

  私が独りで生活するとなると、一番途方にくれそうなのは毎日の食事だろう。
 入院手術後は、出かけることが少なくなったので、掃除、洗濯、炊事は以前よりはずっとやるようになった。だが、まだ妻の手伝いの域を出ない。

 老境に入った男ばかりが共同生活をする場合は、家事分担や金銭管理や公的な諸手続きなどが大仕事になるだろう。
 「広岡」本人の場合も、「佳菜子」と「令子」がいなければ、一室を借りることもできなかったはずだ。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第148回2015/8/30

 「それはすばらしい考えですね。」というような肯定的な言葉を言わなかった。「佳菜子」は、どこまでも注意深く相手の話の意味を聴き取ろうとしている。
 だから、その姿勢に導かれて、「広岡」の考えも具体的になっていく。
 将来はどうであれ、「広岡」が今住んでいるアパートに、昔の友人たちを迎えるとなると、彼女の力がますます必要になるだろう。


佳菜子は、刑務所とか出所とかいう言葉にも特別な反応を示したりせず

 平凡な育ち方をしていれば、こういう反応にはならないと思うが…
 

朝日新聞朝刊 耕論 戦後400年!  おおらかな性 明治に変質  下川耿史 2015/8/29
それから 夏目漱石

 『それから』の感想で、「不倫」について書いたら、8/29に次のような論が載っていた。

1882年に妻の不倫を禁じる姦通罪が施行されました。

 『それから』が発表されたのは、1909年だ。作者は、姦通罪のことを十分に意識していたのだろう。また、近代的な法によって庶民の風俗が変化したことを分かっていたであろう。

 
国家統治の核となる近代家族を作ろうとした明治政府にとって、自由な性は秩序を壊すものだった。いつの間にか日本でも性は、いかがわしいもの、隠すべきものとみなされるようになった。それはせいぜいこの150年足らずの話なんです。

 夏目漱石は、現代の研究者が分析した上のような社会と道徳の変化を、その時代にありながら洞察していたと感じる。漱石にとっては、作られた「近代家族」像は受け入れがたいものであったと思う。

 この筆者の論がどの程度当を得ているのか、私には分からない。しかし、現代の様子を考えるためにもこのような視点はおもしろいと思った。
 

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