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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第147回2015/8/29

佳菜子には人の心を感知する独特のセンサーのようなものがあるらしい。

 「人の心を感知するセンサーのようなもの」を衰えてさせたくないと思う。
 私の五感は衰えていき、それを止めることはできない。だが、この「センサーのようなもの」の衰えを緩やかにできるのではないかと思っている。
 そのひとつの方法が、小説を読むことだ。特に、この小説などは効き目がありそうだ。
 もうひとつは、体を動かすことだ。ただし、トレーニングジムや決まった時間行うウオーキングなどはあまり期待ができない。日常生活で体を動かすのが効き目がありそうだ。
 さらに、人と付き合い会話することが最大の効果を上げそうだ。私は、この点については全くだめだ。なにしろ、出かける所といえば、病院くらいだから。
 でも、「人の心を感知するセンサーのようなもの」は、磨き続けたい。


元ボクサーのための老人ホームがあっても

 「佳菜子」は、どう反応するだろうか。次回が楽しみ。
  

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第104回2015/8/28
 
 「不倫」という言葉は、道徳にそむくというのが元々の意味のようだ。それが、道徳にそむいた男女の愛情という意味で使われるようになった。さらに、現代では、例えば、既婚の男女がそれぞれの結婚相手以外の異性との愛情関係などを意味するようになった。これは、元の意味が失われ、「不倫」ではなく「フリン」になっていると思う。
 現代の「フリン」は、道徳にそむいているという意識は薄く、結婚相手以外との男女関係の意味合いが濃くなっている。
 この小説の時代では、未婚の男性と既婚の女性との男女関係がどれほど強く道徳にそむいたこととされていたか、現代では容易には想像できない。

 作者は、「代助」と「三千代」のような男女関係が欧米ではどのように考えられていたかを理解していたと思われる。
 さらに、作者は、結婚相手以外の異性を愛してはならない、という道徳上の規範が何に由来するものであったかも見抜いていたのであろう。

 結婚した者同士は、一生互いを裏切ってはならない。これは、ある時代以降の日本の道徳的な規範といってよいだろう。
 愛し合った男女は、結婚するべきだ。これは道徳的な規範とはいえないと思う。また、このような考え方は明治時代には一般のものにはなっていなかった。互いに好きになって結婚したという夫婦ではない夫婦が、明治時代には、たくさんいたはずである。
 親同士あるいは家同士が勝手に決めて結婚が成立する。そして、そうやって成立した夫婦を、今度は世間の道徳で、結婚相手以外を好きになってならないと強く規制する。
 そう考えると、「代助」と世間のどちらが間違っているのか分からなくなる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第146回2015/8/28
 
 「広岡さん、途中から何度も映画がうわの空になっていました。」
 もしも、「佳菜子」がこう言っていたら、会話はこの回で途切れていただろう。

 会話は、言葉のやりとりだ。言葉のやりとりは、互いの見方と感じ方の交流だ。人と人との交流には、その人が他の人をどうとらえるかが表れる。
 この小説のどの登場人物も多弁ではない。だが、主要な登場人物は、互いの言葉にも動作にも鋭敏だ。
 それは、言葉の綾ではなく、人をとらえるとらえ方が繊細で鋭敏なのだろう。
 そして、それは作者の本質だと思う。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第103回2015/8/27

 相反することのどちらを選択するか、迷った場合に、いつまでもぐずぐずしないで、どこかで決断すべきだ。
 困難な何かを進めるには、到達すべき目標と、そこたどり着くための計画を立てるべきだ。
 これは私の価値観であり、私と同世代の良識でもあるだろう。

 「代助」は、どこまでも優柔不断だ。
 「父」の援助が途絶える道を決断したのに、兄嫁からの援助を喜んでいる。「三千代」の夫と会う算段をしたのに、どう話を進め、どんな決着をつけようという計画を持たない。
 そんな主人公に共感できなかった。
 
 しかし、今は違ってきた。

 迷っていないで、決断する。一度決断したら、その思いを曲げずに行動する。
 難しいことを成し遂げるには、明確な目標と計画を立てる。一度それを掲げたら、どんな障害があっても計画通りに進める。
 これは大切なことだと思う。

 だが、どんな場合もこれでよいのか。こういう考え方で、どんな時代でも人間関係は成り立つのか。

 どこまで考えても決断できないこともある。一度決めたことなのにまた迷うこともある。相手の出方次第でこちらが変わっていくこともある。むしろ、その方が、自然なのではないか。

 煮え切らない態度のままで、「平岡」に会うことを考えて、眠れないでいる「代助」に、人間味を感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第145回2015/8/27   

 「広岡」のアメリカでの仕事がホテルの業界だったというのを忘れていた。確か、「佳菜子」との会話の中で一度出てきたような気がする。
 ホテル業は、24時間営業だし、見かけによらず重労働で、常に客の要求と不満にさらされる仕事だと聞いたことがある。
 心臓病を抱えた元ボクサーが、アメリカでホテルの客室担当や厨房担当をやるのは、どれだけ過酷なことだったか想像がつく。そして、今の「広岡」の経済状態を見ると、ホテル経営というところまで這い上がったのかもしれない。
 競争の激しい業界で、経験のない中、言葉の壁も乗り越えて、生き抜いてきたのだろう。

 そうだとすると、彼のアメリカでの生活ぶりと、帰国してからの質素な様子はどこから来るのだろう。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第102回2015/8/26 

 食うためには働かなくてはならない。働くためには、職業に就かなくてはならない。これは、当たり前のことだと思っていた。
 この小説を読むと、そこに疑問を感じ始めた。

 現代では、食うためには、食物を作るのではなく、それを買う金銭を得なければならない。金銭を得るには働かなくてはならない。働くには就職しなければならない。生活を維持するために働いている。だが、日々の場面では賃金をもらうために、つまりは金銭のために働くというのが実感だ。
 やりがいのある職業に就くべきだ。だが、時給が高くて楽な職種を探すのが、賢い職業選択だということが現実だ。
 
 日本が近代国家への道を歩み始めた頃から、働くことの実態がどんどん変化した。職に就いて働くことは、企業から求められることに、一定の時間を提供して賃金をもらうことになってしまった。そこには、食うために働いているという実感も、好きなことを職業にするという意識も希薄になった。
 現代では、ある職業に就く条件は、より高い賃金を得るためを第一とすることに疑いさえ持たない。自分に適した職業、やりがいのある職業というのは、副次的な条件になっているのが現実だと思う。
 改めて、そういうことに気づかされた。
 
 「代助」は、切羽詰まった状況でも、このような感覚とは無縁の位置にいる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第回2015/8/26

 チェーン店ではない食べ物屋では、店の人の応対が味に占める割合は高い。
 この小説では、今までにはキーウェストでの、レストランバーのウェイトレスが登場していたと記憶している。さりげなく描かれていたが、この時のウェイトレスは余計なことを言わず、好印象だった。
 この回のレストランの接客をした人は、ウェイターや店員と呼ばずに、「席まで案内してくれた男性」と表現されている。単なる店員という雰囲気の人ではないのだろう。

 食前酒の注文をする「広岡」がかっこいい。彼は、酒についての蘊蓄など語りはしないはずだ。 


朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第101回2015/8/25

自分の所為に対しては、如何に面目なくっても、徳義上の責任を負うのが当然だとすれば

 「代助」は、ここまできても煮え切らない。「父」に対しては、断固として自分の意思を通したのに、「平岡」に対しては「徳義上の責任」を持ち出している。
 友人の妻を奪うという道徳に反する行為はするが、その行為を隠れてするのは、「徳義上」したくないというのである。
 コソコソしたくないというのは分かる気もするが、すっきりとは理解できない。


もう二、三日うちには最後の解決ができると思って

 「最後の解決」とは、どんなことだろうか。
 「平岡」が二人のことを認めると考えるほど楽観的ではないはずだ。「平岡」が怒って、「三千代」を離縁し、「代助」と絶交するというストーリーも考えられる。だが、それだけで済むだろうか。
 現代なら、法的な争いや慰謝料ということになる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第143回2015/8/25

 古い映画のDVDがたくさんあるというのは、どんな場所だろう?
①映画好きが個人で収集した。
②レンタルや販売などDVDを商売にしていた。
③映画に関係した仕事をしていて、資料として収集していた。
 昔は映画館をやっていて、古いフィルムがたくさん残っているというのなら、ドラマになりそうだ。②では、現実的過ぎる。
 ①だとすると、「佳菜子」の父親くらいの人の収集になりそうだ。映画館に行かなかったというのだから、収集した人に何か事情があるのだろう。
 それとも、過去の「佳菜子」本人に、何かの事情があったのか。
④何らかの施設に入所していて、そこには古い映画のDVDしかなかった。
⑤外国にいて、そこの日本人のための娯楽施設には、古い映画のDVDしかなかった。

 話は変わる。
 今日の挿絵がよい。モノトーンが美しい。昨日の二人、特に「令子」の表情もよかった。でも、今日の雰囲気はなおよい。
 目的のレストランを前にした「佳菜子」と「広岡」の後ろ姿が目に浮かぶ。


朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第100回2015/8/24

 「三千代」は「代助」を超えた感覚を持っていると思う。
 彼女は、生活費のこと、夫との関係、世間体、そういったことよりも、「代助」との愛に重きを置いて、今後生きて行くことに迷いがない。
 一方、「代助」は、そこまで突き抜けた感覚にはなれない。
 「三千代」との生活も、「平岡」との関係も、何らかの解決をしなければならないと思っている。
 
 「代助」は、男女の愛を至上のものとして、そのためには人を傷つけることも厭わないという位置には立てない人だと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第142回2015/8/24

 もし、若い頃の「広岡」が「令子」をレストランに誘っていたら。もし、もっと前に日本に帰って来て、真拳ジムのトレーナーになっていたら。もし、世界チャンピオンになっていたら。

 あの時にこうしていたら、と思うことは、誰の人生にもあるのだろう。ただ、振り返った時に、当人がどう思うかは十人十色だ。

 あの時に、ああしていればよかったと後悔することは、「広岡」には決してないと思う。

 


朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第141回2015/8/23

 「広岡」は、トレーナーを引き受けはしなかった。トレーナーという仕事は片手間でできるものではない。

 私も、スポーツではないが、アドバイザーを頼まれてやったことがある。アドバイスをした時は、現役の人からは感謝されたが、長い目で見るとどうだったか疑問に思う。私にできたアドバイスは、現役時代のことを思い出してのものだった。指導者としての経験に基づいていなかった。だから、限界がある。本当に役立つアドバイスは、指導者として痛い思いもして初めて可能になるのだ。

 引退した者は、やはり現役を退いた存在でしかない。現役を退いて指導者になるには、新たに一から出直して、新人の指導者として出発しなければならないだろう。私には、そんな大変な道を歩むつもりはなかった。
 「広岡」もそういうつもりはないのではないか。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第140回2015/8/22

 「中西」と「大塚」、今までの描写では、「中西」の方にボクサーとしての魅力を感じる。それは、「広岡」の目を通してのものだ。
 「広岡」のアドバイスは、「大塚」本人も「令子」も考えていなかったが、必要なことだった。一言だが、「広岡」は、「大塚」の弱点となりそうなことを見抜いていたのだ。

うちに来て、あの子を見てくれない。

 「広岡」にとっては、恩返しをしなければならない人からの、望みようもないほどの誘いの一言であったろう。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第99回2015/8/21

 愛した女性とは、結婚をしなければならない。
 他の人と結婚している女性を、愛してはならない。
 これに承服しない考え方を、この作品の中だけでなく、今までに何度も聞いている。考えにとどまらず、それを実践している人を見ることは、現代では珍しいことでなくなった。
 しかし、夏目漱石が描く「代助」は、現代の考え方とはどこか違う。形式的な慣習や世俗の道徳に重きを置かないで、本能のままの感性に従って生きるべきだという主張とも何かが違う。
 では、その違いは何か、と問われると、まだ分からない。

 どうやって「三千代」との生活をしていくかという経済面の心配だけで、「代助」が苦しんでいるのではないと感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第139回2015/8/21

速さもうまさも大塚の方が上かもしれない。だが、何かが中西の方が勝っているような気がする。

 「何か」は、この小説が描こうとしている主題に関わることだろう。


真拳の会長は単なるアマチュアにすぎないんだと


 「会長」は、元プロボクサーやプロボクシング業界の人ではなかったことが分かる。そして、彼のボクシングの理想は、理論的でボクシング技術を大切にしたものだったようだ。


だが、広岡には、そのことに何となく現実味が感じられなかった。


 読者としても、そう思う。だが、説明されてみると、「令子」にまつわることが一気に納得できた。

 沢木耕太郎の緩急自在な表現力を味わえた。

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