本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第96回2015/8/18

 親子、父と息子の関係がくっきりと表現されている。子が成人し、どのような形であれ、父子の別離が近づくと父の老いが明らかになる。
 「父」と「代助」の決別を避けることはできない。だが、父子の関係を妥協によって続ける道もある。
 世間には、妥協で繕った関係を続ける場合も多いのだろうと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第136回2015/8/18

 「広岡」が、今の日本の様子や習慣に戸惑うこともあるだろう。「藤原」と「佐瀬」に会ったとしても、良いことばかりは聞かされないだろう。
 「令子」は「広岡」についてこのようなことを考えていたのだろう。彼女は、彼の現在をよく理解していることが分かる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第135回2015/8/16
 
 歩くのが好き、まるで恋人とのデートのように「広岡」を映画に誘う、「佳菜子」は妙な女性だ。今までも不動産の斡旋とは言い難いほど「広岡」の世話を焼いている。なによりも不思議なのは、年齢が離れ、しかも40年前の感覚しか持ち合わせていない「広岡」との会話を、いつも楽しんでいる所だ。
 「広岡」が、彼女とのいろいろな違いを無理に埋めようとしないのがよいのかもしれない。

 その「佳菜子」と行くレストランは、「令子」に紹介された店らしい。「広岡」が日本に来て頼りにした唯一の人がいる。それは、「令子」だと思う。彼の身元保証をしたのは「令子」だし、昔の仲間に会えたのも、「令子」が出発点になっている。
 「広岡」と「令子」には、過去には恋愛関係があったかもしれない。だが、それだけでなく、ボクシングを軸にした信頼関係があったのではないかと感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第134回2015/8/15

 最近は、老人ホームという呼び方はあまり使われない。介護施設、老人向けマンション、あるいは、トクヨウ(特養)、ロウケン(老健)などと細分化され、おまけに略称のまま使われている。だが、名称に惑わされてはいけない。介護、訪問医療付きマンションと呼ぼうが、自立が難しくなった老人が家族から離れて住む場所は、やはり老人ホームなのだ。マンションとアパートの違いが曖昧なのと同じだろう。

 私は、自分の最期までのある期間は老人ホームだと思っている。老人ホームでないとすると、病院かもしれない。私の癌の発見が遅かったら、病院で最期を迎えることになっただろう。自宅で、最期までの期間を過ごすというのが、最も可能性が低い。
 歩行に無理がなく自立して日常生活ができる年齢、いわゆる健康寿命と、寿命との間にはどうしてもある時間がかかる。今の制度では、その期間を病院入院で過ごすことはできない。自宅で過ごすのはある理想であろうが、それには家族の負担が伴う。
 そうなると、経済的な負担のめどが立てば、老人ホームという選択が、現実的だ。

 日本の現実が、こうなったのは次の二つの要素からだと思う。
○ 医療の進歩と、その一般化。
○ 法律と経済の変化に影響された家族形態の変化。
 衛生状態と栄養状態の改善、医学の進歩がもたらすものを多くの国民が受けることができるようになったことが直接的な要素だと思う。
 家族の変化は、倫理や道徳の問題ではなくて、国民全体の生活水準が上がったことと、相続に関する法律の影響が大きいと、感じている。

 「広岡」は、肝心の映画本編を見ながら、予告編のことを何度も思い浮かべている。それを読みながら、私はこんなことを思ってしまった。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第95回2015/8/14

 「三千代」との関係は、本心を打ち明け、彼女の覚悟も聞いた。「父」との関係も結着が付く見込みが立った。
 残るは、食うための金をどうやって得るかである。

 単純なようで、永遠の課題だと思う。
 根本的な問いにまで遡らなくても、いかに食うための欲求を満足させるか、いかに便利で安楽な生活を維持するかはどの時代でも、人に課せられている。必要最低限の生活では、人は満足できないし、豊かさを求めれば、きりがなくなる。
 そう考えると、今までの「代助」の生活ぶりは、非常にバランスがとれているのかもしれない。しかし、働かずに贅沢はし過ぎずにという生活を続けられるはずもない。

 原発が現在も将来も人に安心を与えないだけでなく、多くの犠牲者と被害者を出しているのは確かだ。だが、なるべく安価で現時点では手に入れやすい電力を、多くの企業と一般の人が求めているのも確かだ。
 物のために生きるのではないが、物がなければ快適に生きていけない。これは、明治も現代も変わりがないことを突きつけられたような気がする。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第133回2015/8/14

 この回では全く触れられていないが、真拳ジムの会長のことが気になる。どうやって、「広岡」が真拳ジムに入ることになったかは、明らかになっていない。だが、当時の「広岡」の境遇を考えたら、彼が相当に扱いの難しい若者であったことが想像できる。それは、四天王と呼ばれた他の3人も似たようなものだったろう。
 そんな血気盛んで、どこか屈折した気持ちをもっている若者に対して、ボクシングのトレーニングだけでなく、本と映画を勧める会長は、どんな人物だったのだろうか。
 ボクシングの技術を教えるだけの人でなかった。また、ボクシングで有名になろうとか儲けようとする人ではなかった。そういうことが想像できる。そして、その娘「令子」のこともやはり気になる。

 「佳菜子」の頼み事が映画とは、全く意外だった。若い女性からのデートの誘いとも取れるが、それだけではどうもしっくり来ない。彼女の過去と映画と「広岡」は、どう絡んでくるのだろうか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第94回2015/8/13

 「代助」の何かが変わってきている。今の所は何事も起きてはいない。だが、彼の決然とした様子が伝わって来る。
 今までの「代助」について考えてみると、精神と行動を二元的に捉えることが無意味に思える。
 表面では、彼は思索の人であって、行動は起こさないで生きているように描かれている。しかし、食うためだけの、儲けるためだけの行動をしないことは彼の思索の結果だ。また、世間の道徳と常識に則った行動をしないのは、彼の精神の具現だった。
 つまり、「代助」の行動と精神は、一致していたのだと思うようになった。
 
 その「代助」が、今まで以上に決然と行動を始めたと感じる。次々と決断し、迷うことなく行動している。だが、何かを画策しての動きではない。

彼はただ何時、何事にでも用意ありというだけであった。

 こういう「代助」に、以前は歯がゆさを感じた。しかし、今はそうは思わない。かえって、度量の広さと思考の深さを感じる。
 世渡りの上からは、追い込まれているのだろうが。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第132回2015/8/13

 読書と映画を見ることを勧める言葉は多い。

本は頭、映画は心

 このフレーズは初めて聞いた。「会長の口癖だった。」と書かれているが、作者の言葉じゃないかと疑う。
 私も『シェーン』を映画館で見たことを思いだし、心がほぐれた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第93回2015/8/12

 友人の妻に恋することはまずい。それを相手の女性に告げたり、世間に公表するのはもっとすべきではない。
 本心はどうであろうと、父の言う通りにしていれば、今後の生活に苦労することはない。結婚も形式的なものだと考えて、父や兄に従うふりをしていれば、今までの生活を続けることができる。
 「三千代」のことを切り捨てて、我慢して世間の道徳に添っていれば、自分の好きなように芸術を味わい、思索の時間を得ることができる。
 「代助」は、上のような道を選ばなかった。そして、今までにない「心の平和」を味わった。

 しかし、この選択は大きなリスクを伴うと、感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第131回2015/8/12

 40年間の空白があると、日本国内を移動していてもまるで外国に来たような気分になることがあるのだろう。
 「広岡」にとって、渋谷のスクランブル交差点は、自分の知らない日本を感じさせられたのだろう。
 それにしても、海外からの旅行者に、英語で日本の事を質問するという設定がおもしろい。「広岡」の外見からも質問された旅行者の驚きを想像できる。

 時間の経過、場所の移動、静かに描かれているが、流れは速い。「佳菜子」は、主人公の過去と現在の「クロッシング」となる役割をもっているのではないか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第92回2015/8/11

 恋する男女の会話がここにあると感じた。
 「告白する。」「サプライズで結婚を申し込む。」などの場面に、恋愛を感じることが難しい。それは、私が古い人間だからだ。
 それにしても、平成時代の恋人同士よりも明治時代の恋する二人に親近感を持つというのは、どういうことなのだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第130回2015/8/11 

 作者は、今までも何回か「広岡」の視点を通して、今の日本の独自な文化を取り上げている。これが、私にはおもしろい。
 今回取り上げられている事も大変に興味深かった。また、指摘されてみるとなるほどと思わせられる事だ。

 日本独自の文化は、伝統的なものもあるが、今創り出しているものもある。そして、私たちが直接関わっていけることは、今のものだと思う。
 例えば、伝統的な和食だけでなく、カップ麵やハンバーグやレトルトカレーなどをも含めた現代の日本の家庭料理などは日本の文化だと思う。昼食がカップ麵でも、夕食にはご飯と味噌汁と手作りのハンバーグが並べば、それはもう日本の食の独自性だ。
 また、世界に通用するものと考えていてはだめだと思う。だいたいが、世界に通用するものと言ってもこれだけ多様な世界に共通に理解され、歓迎されるものがあるはずがない。
 今、海外から日本に来た観光客が、大量に買っていく物も海外の人向けに企画された物ではなさそうだ。
 日本人が使いやすいように工夫して製造している物が、実は海外の人にとって欲しい物だったという構造になっているように思う。

 過去の感覚だけで日本の文化を捉えずに、海外の人の今の反応を知ることが、日本を正しく理解することにつながる。
 また、外国で儲かりそうな物や外国に売り込めそうな事だけを狙ってはだめだ。
 作者の見方から、こんな事を感じた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第91回2015/8/10

貴方が僕に復讐している間は

 漱石が「復讐」と使うからには、この語の意味に符合する事があったのだろう。
 私は次のように考えてみた。
 「三千代の兄」が生きていた頃は、「代助」と「三千代」は互いに好意を持っていた。その好意は互いに結婚を想像するほどに深まっていった。「代助」は、「三千代の兄」から妹との結婚を勧められれば、断らなかったろう。しかし、自分から「三千代」に結婚を申し込み、所帯を持つような準備は自分には当時はできないと判断したのだろう。
 だから、積極的に「三千代」と結婚したいと願った「平岡」を、結婚の相手としては自分よりはふさわしいと考えた。「三千代」の気持ちを知っていながら、謂わば身を引くように、「三千代」と「平岡」の縁談を取り持つようなことまでした。
 これは、「三千代」への裏切りに他ならない。「代助」が「三千代」に復讐されて当然の行為だった。
 これが、私の勝手な推測だ。
 この辺の事情は後に明らかになるのだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第129回2015/8/10

 二人と会った後の「広岡」は、どんな気持ちなのだろう。
 二人ともそれぞれに安定した暮らしをしていれば、彼はホッとしただろう。そして、昔の思い出を語り合って時間を過ごしただろう。
 だが、二人の現実は逆だった。どう見ても「藤原」も「佐瀬」も老いて落ちぶれていて、普通の暮らしも難しい状況だった。
 しかし、それぞれに「広岡」を前にして、彼が訪ねてくれたことを心から喜んだ。「広岡」も喜んでくれた二人の気持ちに安らぎさえ覚えていた。
 世の中は不思議だ。もしも、二人に家族がいて、仕事もそれぞれに順調だったら、かえって他人行儀になってしまったかもしれない。

 「広岡」は、過去から現在に戻って、「佳菜子」と会う。そこには今の「広岡」が直面しなければならない何かが待ち構えているようだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第128回2015/8/9

 私が、70歳代に入るのはもう直ぐだ。経過はよいが、癌の手術も受けた。老化の実感は確実だし、自分の最期を今までになく感じる。
 私たちの世代は、今までの同じ年代の人々と比べるとずいぶんと若々しく元気だと言われる。それは歓迎すべき事だが、見方を変えると、前例のない老年期を迎えているということだ。個人だけでなく、社会も歴史上先例のない高齢化社会に突入した。
 そのような条件の中で、老年期をどう生きるかについて考えるのは厄介だ。
 だって、老いた人の生を考えることは、生と逆の現象について考えることになるのだから。

老いをどのように生きたらいいのか。つまりどのように死んだらいいのか。

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