本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第88回2015/6/29

空車になったタクシーの運転手が乗っていかないのかというように広岡の方を見た。

 これの前後の文章から、私が乗ったタクシーでの会話を思い出した。その車内に「スマホのアプリで○○タクシーを呼べます。」とあった。

私「スマホのアプリで呼ばれることはあるんですか?」
運転手「最近は時々ありますよ。ススキノで飲み屋から出たお客さんが、ビルの前で呼ぶようなのが多いね。」
私「じゃあ、人通りの多い道で、呼んだ人を見つけるんですか?」
運転手「そうですよ。ちゃんと待っててくれるといいんですけど、空車が通りかかるとそれに乗っちゃう人多いんですよ。これには、参るね。」

 そんな人がいるのか、と呆れた。だが、頼みっ放しで、後は知らないというヤツが多いとも思った。
 いくら便利さと速さを求めると言っても、頼んだからにはその後始末はしろ、と腹が立った。

 電話でタクシーを呼んだ「広岡」は、そんなことをしない。こういうことを思い出すのも、小説の細部を読む楽しみだ。

NHK FM ウィークエンドサンシャイン 2015/5/30放送
 「ジャリミリ」 ジェフリ・グルムル・ユヌピング

 歌詞は、オーストラリアの先住民族アボリジニの言葉なのだそうで、全く分からない。一部が英語の曲も紹介されていたが、歌詞の意味は分からなくてもよいと感じた。
 聴いていて、落ち着く。でも、穏やかで眠くなるというのとは違う。楽しそうであり哀しそうでもある。淡々としているが、力強い。緩やかに水が流れ、微かに風が吹く。そんな中にいる気持ちにさせられた。
 ナビゲーターのピーター・バラカンが、「歌がすごくいい。」と簡潔にコメントしていたが、正にその通り。
 毎回のことながらピーター・バラカンと、この番組のリスナーは、よくこういう曲を見つけ出すものだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第87回2015/6/28

あまり順調な人生を送っていないのではないかと思っていたが
 
 「広岡」と「藤原」は、「順調な人生」どころか、「夢破れた人生」「家族もなく、住む所さえ安定しない人生」を送って来た。
 では、「順調な人生」とはどんな人生か。
 「困難を一歩一歩解決し、夢を実現した人生」「堅実な職業に就き、安定した収入と円満な家庭を得た人生」のようなことが「順調な人生」なのだろう。それにしても、どうも表面的なことばかりのような気もする。

 沢木耕太郎は、「幸福な人生」と書いてはいない。「順調な人生」は、「幸福な人生」と違うという気がして来た。
 作者のこのような言葉への感覚に、魅力を感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第86回2015/6/27

 挿絵で「広岡」の顔が正面から描かれている。「藤原」の言葉をなるほどと思わせる絵だ。

 小説の挿絵には、読者の想像を助けて膨らませる役目と、同時に邪魔しない役目もあって、難しいものだろう。ここは、描かれている二人の角度が良く、効果を上げている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第85回2015/6/26

 話す内に、「広岡」と「藤原」の別々に過ごした時間が浮かび上がって来た。そして、ボクサー仲間の新たな名前も出て来た。
 「広岡」の心残りは、他の2人を含めたボクサー時代の仲間に関わることのようだ。 
 
 刑務所にいて健康になったという「藤岡」の話がおもしろかった。これは、今の日本の社会の一端を切り取っている。今はこれだけ食物に恵まれているのに、三食をきちんと食べる生活を送るのは難しい。仕事の時間と昼夜を問わない時間の使い方が、生活の基本的なリズムを崩している。
 定時勤務の定職に就いていた私でも、三食を毎日ゆっくりと食べるようになったのは退職後のことだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第61回2015/6/26

 「代助」は、一族の資産で生きている人だ。今回で、その一族の事業に何かが起こったのではないかと思わせられる。

青山の家へ着く時分には、起きた頃とは違って、気色がよほど晴々して来た。

 のんきな雰囲気が出ているが、かえってそれが重大な事件の前触れなのではないか。

 上流、資産階級の生活は優雅であるが、その当人の心境は優雅なものばかりではないようだ。もし、「代助」の父と兄の事業が危機に向かえば、「代助」はたちまち困窮する。そして、食うに困る生活への備えもそれを乗り切る能力も、彼にはないように見える。
 貴族や資産家の境遇は羨ましい限りだが、地位と権力と物質に恵まれても、それはそれだけのことなのだ。
 知識も論理も美的感覚も持ち合わせていない「門野」の方が、日常生活の場面では伸び伸びと生きている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第84回2015/6/25

「アリは世界最高のスポーツマンだった。いま、アリは体が不自由になっている。でも、逃げも隠れもしないで、その体をさらしながら生きている。」

 成果をあげたアスリートを最高のスポーツマンだと私は思ってしまう。だが、その成果と競技・試合の様子はマスコミを通じたものだけだ。注目を集めない種目と選手の存在は伝わって来ない。スターとスポーツマンとは違うのだ。スポーツのスター選手の全てが最高のスポーツマンではないことに気づかされた。
 逆に、世界チャンピオンになれずに終わった二人は、スポーツマンと呼ばれるにふさわしいと感じた。
 受刑者と面会の初老の二人は、過去に一気に戻って、スポーツマンとして話をしている。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第60回2015/6/25

縁側から外を窺うと、綺麗な空が、高い色を失いかけて、隣の梧桐の一際濃く見える上に、薄い月が出ていた。

 すごい文章力だ。視線の移動(「縁側から」)を示し、簡潔な形容(「綺麗な空」)を効かせ、独特な描写(「高い色を失いかけて」)が時刻と明暗を描き、月の前景となる色彩(「梧桐の一際濃く見える上に」)を味わわせ、最後は視線の到達点(「月が出ていた。」)で終わっている。それが一文にピッタと収まっている。

 漱石にとって、この小説のストーリーは作品の一要素に過ぎないのではないか。『それから』のあらすじとされることは、作品全体の中心ではなくて部分であるという気がする。
 主人公が友人の妻を愛するというストーリーに沿いながら、次々と書かれる作者の人間と社会への考えが、重い位置を占めていると感じる。

実をいうと、代助はそれから三千代にも平岡にも二、三遍逢っていた。

上のように、主人公の行動をはしょって書いていることにも、それが表れているのではないか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第83回2015/6/24

 「藤原」は、ボクサー(アリ)のことを貶められて黙っていられなかった。静かに誤解を諭しているのに、年長者をバカにした態度に腹を据えかねた。だが、冷静さは失っていなかったので、自分から先に手を出すことはしなかった。
 しかし、罪に問われ、司法は事実を認定できなかった。「藤原」への判決は理不尽がまかり通った結果と言える。
 その意味では、「広岡」が日本を出た理由と相通じるものだと思う。
 日常の生活の中で、理不尽なことが起こる。世間に比べると純粋とされるスポーツの世界でも理不尽がまかり通る。理不尽なことはなくなりはしないが、それを見つめて許さない眼をもつことが、小説を読むおもしろさでもあると思う。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第59回2015/6/24

 漱石の学識からいうと、翻訳された書物には「寺尾」がやろうとしているようなやっつけ仕事があるのだろう。

寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如くに天から極めていた。

代助は現今の文学者の公にする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものがたくさんあるだろうと考えて、

 ある職業について身内が隠しておきたいことを公にすることはまずない。小説家を職業とすれば、小説家は自分の職業の内幕を自ら作品に盛り込むことがある。芸能人は、私生活を明かすことはあるが、それとはまた違うように思う。
 漱石は、教師や翻訳家や小説家の内幕を、小説の中で公表している。公表と言うよりは、実態を書き表していると感じる。
 当時としては、文壇を批判するこういう部分はセンセーショナルなものであったのだろうか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第58回2015/6/23

 この回の「代助」の結論を読んでも感心するようなところは、私にはない。結論そのものよりは、そこに至までの過程がおおげさでおもしろくないと感じるのだ。
 これは、文章表現の時代性に影響されていると思う。私にとっては、明治大正期の文学は中途半端に古いものなのだ。
従って自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したもの同然である。
 例えば、上のような文章を今の若い読者は、どのように読むのであろうか。
 
 連載のスタイルでこの名作を今掲載する意図に疑問をもつ。まさか、元々朝日新聞に連載された作品だからというような理由ではないと思うが。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第57回2015/6/22

けれども、顧みて自分を見ると、自分は人間中で、尤も歯痒がらせるように拵えられていた。
 私にとって、「代助」はまさにこの通りだと思ってしまう。豊かな才能があり、富裕な家に生まれて30歳にして働きもせずに一軒家を構えている。
 だが、羨ましい存在とも感じられない。「代助」が人間について考えていることも社会について分析していることも、明解で独特だと思う。だが、そこからどう行動していこうという進路が見えて来ない。その意味では、「代助」の行動そのものだ。だから、読者として「代助」の思考と行動を歯がゆく感じるし、親しみも湧かない。

 この回の「代助」が自身について感じていることは、漱石の苦しみの一部でもあるのだろう。
彼の頭は、彼の肉体と同じく確かであった。ただ始終論理に苦しめられていたのは事実である。
 漱石は、「代助」と違って、肉体の病にも苦しんでいたことが知られている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第81回2015/6/22

 ボクサーとしての希望が叶わなかった「広岡」だが、今はアメリカの実業の世界でそれなりの地位にいる。現に日本に帰ってきても生活に困る様子はない。更に、ボクサーを諦めた理由は病気によるものだ。普通なら刑務所に収監されている昔なじみに対して、同情と意識しなくても優越感をもつはずだと思う。ところが、「広岡」からはそのような感じを受けない。
 もしも、「たいへんだな」の言葉を呑み込まなければ、「藤原」の方がそれを感じたかもしれない。

 日本に帰ってからの主人公に、命に関わるような病気に罹っている様子が出てこないが、そのことは今後どうなっていくのだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第80回2015/6/21

「広岡」は、「藤原」を世界チャンピオンになれるボクサーであったと、今でも思っている。「藤原」は、ジムの会長が一番世界チャンピオンに近いのは「広岡」であると思い続けていたことを、話した。
 互いに、なぜそうならなかったのか、という問いを投げかけ合っているようだ。今はその答えが見つかってもどうにもならない境遇にいる二人だが、問いかけないではいられない気持ちが伝わって来た。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第79回2015/6/20

 刑務所にいると、時間の経過が世間とずれることになる。日本にいなかった「広岡」と刑務所にいる「藤原」、この二人には日本の社会の時間の経過があてはまらない。
 小説の巧妙な仕組みだ。

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