本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第69回2015/7/8

 その業界にしか通じない言葉遣いがある。今は、若い世代だけの言葉遣いもある。
 家族の会話の雰囲気も、家族毎に違いがあるようだ。時代と階層が違うと言いながら、「代助」と兄の会話は悠長なものだ。
 現代の庶民の兄弟ならば、兄が怒鳴り込んでもおかしくないような事情なのに、兄の方は穏やかに話している。しかし、兄に直々に乗り込まれては、「代助」はいよいよ逃げ場を失った。それに、彼は所持金を無くしているのだから、逃げようにも逃げられない。

 写真についての件などは、漱石の分析好きと論理で物事を見ずにはいられない性癖が表れていると思う。深刻な問題についてだけでなく、些末なことをも分析しないではいられないようだ。実生活で、漱石と一緒に暮らすのは大変だったろうと、思わせられる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第97回2015/7/8

 挿絵画家中田春彌は、事前に1回ずつの小説を読んで、挿絵を構想するのだろうか。それとも、作品の最後まで読み終わって、1回ごとに配置を考えるのだろうか。どちらにしても、1枚を仕上げるまでにそれほど余裕はなさそうな気がする。
 今回の挿絵にはちょっと意表を突かれた。そして、小説を読むために役に立った。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第68回2015/7/7

その時三千代は長い睫毛を二、三度打ち合わせた。

 睫毛がはっきりと見えるほど二人の間隔は狭かったということだ。
 「代助」は、「三千代」と別れてからいつになく高揚している。「三千代」のためにやれることをやったと言う思いからだろう。
 だが、この事で彼は旅費を失った。所持金が無くなり、旅行に出かけることのできなくなったのを、まるで見透かしたように兄が現れた。

 旅には出るのは不可能になったが。「代助」はなんとなく満足しているようだ。
 一方、「三千代」の方はそうはいかないと思う。「代助」のことを、困った時には返済を求めずに援助してくれる人として、単純に感謝する気持ちにはなれないだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第96回2015/7/7

 これはいくら何でもやり過ぎだろう。若い女性の親切心だからと、大目に見たい所だが、「佳菜子」の押しかけは普通ではない。

 子猫の描写が滑らかだ。ただし、「広岡」がこんな事を続けていると、今の日本ではご近所からクレームがつきかねない。それは考え過ぎだろうが、猫を飼っている身としてはついつい余計な心配をする。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第67回2015/7/6

 「代助」が行動を起こした。実家の圧力から逃げるための旅行に出ようとしている。
 彼が実際に動きを見せるのは、珍しいことだ。
 ところが、旅の出発の前に、別の行動を起こした。「三千代」に会いに行ったのだ。今まで何遍も彼女の家の側を通っているのに、実現させなかったことだ。
 何かをするのに、やたら時間がかかる人物だ。それをじれったいと感じる方が変なのか。現代人は思ったことを何でもすぐに行動で示すが、その方が妙なことなのかもしれない。

 「三千代」は、物静かな性格に見えるが、時折ドッキとさせるような動作をする。生活費にさえ困っていることを、指輪をはめていない手で表す所に、それを感じる。

代助は憐れな心持ちがした。

 これは、彼にしては強い感情だ。次の行動にこのことは反映されて行くであろう。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第66回2015/7/3

 「代助」はいよいよはっきりした態度を示さなくてはならなくなった。今までのように父や兄の話を、のらりくらりとやり過ごすことが難しくなった。
 それはそうだろう、という気がする。一生独身で働きもせずに、父の財産で暮らすことを許してもらえないのは当然だ。
 だから、「代助」も正面から自分の考えを言い張ることはできなくなって来た。そして、彼が考えたことは、そういう状況から一時的に逃げだそうと言うことのようだ。

また三千代の引力も恐れた。

 好きな女性に会いたいという欲求からも逃げようとしている。
 自分に都合が悪いことの全てから逃げることで、済むものだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第95回2015/7/6

子猫といい、佳菜子といい、進藤といい、小さな関わりが生まれてしまう。

 「広岡」が「関わり」を絶つ生活をしてきたのは、なぜなのか。
 ボクサーを諦めても、アメリカにいても、周囲の人と「関わり」を持とうとすればできたはずだ。むしろ、親しい人を作らないでいる方が難しかっただろう。
 徐々に重くなる心臓病と、その病気ゆえに希望を捨てなければならなかったことが、「広岡」を、人と関わりたくないという気持ちにさせたのだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第94回2015/7/5

 「広岡」が子猫のために部屋へ帰ろうとしている。おまけに、お土産まで買っている。これまでの彼には、つながりのある人はいないし、日常の普通の用事をする様子は一切なかった。アメリカでのホテル住まいでは、家事と雑事をしないで生活できていたようだ。

 男が独りで暮らすとなると、炊事・洗濯・掃除をどうするかが問題だ。食事は外食で、他のことは金を払ってサービスを受けるという方法もあるが、高額な費用がかかる。一方、全部を自分でやるとなると、時間と家事の技量が必要だ。
 女性の場合は、少なくとも家事の経験と技量はだいたいにおいて心配がない。だが、特に老いた男にとっては、独り暮らしでないとしても、家事をどうこなすかは大問題だ。
 私は、どうせやらねばならない事ならば、そこに楽しみを見つけたいと、この頃考えるようになった。

 元ボクサーでアメリカ暮らしの長い「広岡」は、日本でこの課題にどう取り組むのだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第93回2015/7/4

 「広岡」は、子猫を「綺麗だった。」と思っている。ただし、子猫の姿を見て、「綺麗」と思っているのではない。汚れ具合と猫の毛の模様をしっかりと見て、「綺麗だった」としている。
 また、「かわいそう」と思っている。ただし、親猫も寝場所も餌もない子猫を、「かわいそう」と思っているのではない。子猫が「野生の獣」として「生き抜こう」としている行動を「裏切る」のは、「かわいそう」だとしている。
 寡黙で感情を出さない男が、子猫にはデレデレになるというような設定とは異なっている。 

 作者が猫好きかどうかは分からないが、作者の猫に対する気持ちが伝わってきた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第92回2015/7/3

 ボクサー仲間の二人目となる「佐瀬」と言う人物の名が出てきた。彼は、今は実家に戻り農業をやっているらしい。
 「広岡」は、仲間だった「藤原」が刑務所を出たら、一緒に暮らすつもりのようだ。
 「佐瀬」は、どんな境遇なのか。そして、「広岡」とどう関係して来るのか。
 新しくもう一人、いや、一匹の動物が登場しそうだ。それは、子猫だ。

 飼い犬や飼い猫のことを表す言葉は、「ペット」がすっかり定着している。私は、自分が飼った犬と猫を「ペット」とは呼ばない。そうしないと通じない場合にだけ、「ペット」という言葉を我慢して使う。我が家の犬と猫を「ペット」と考えるのが、どうにもしっくり来ないからだ。
 だからと言って、「愛玩動物」というのも何だか堅苦しい。「愛犬」「愛猫」と言うほど大切にしていない。欧米と日本では、犬、猫の飼い方に、違いがあると以前から思っている。

 「広岡」は、ペットを飼おうとしているのではないと思う。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第65回2015/7/2

 「代助」の論理が述べられている。私は次のように理解した。

 山の中に住んで林業をしているような境遇の男性は、親の取り決めた通りの女性と結婚するのがふさわしい。女性と出会う機会が少ないのだからそれが安全な結果につながる。そして、そうすることが「自然の通則」である。
 一方、都会に暮らす人は常に多くの異性と会う。「人間の展覧会」である都会で、次々に新しい異性に心を動かされない人は、感受性が乏しいのである。美に対する感覚を持っているなら、次々に別の異性に心変わりをして当たり前なのだ。だが、既婚の人は、心変わりの度に「不義の念」に責められることになる。それが、いずれ不幸な結果を招く。つまり、都会人にとって、どんな結婚も、不幸を招くものでしかないのだ。

 おもしろい論理だと思う。批判され、反論されるだろうが、現代でも本質を突いている。

 「代助」が「三千代」に感じている「情合」も、上の論理で言えば、一時的なものになる。ところが、次のように書かれている。

自分が三千代に対する情合も、この論理によって、ただ現在的のものに過ぎなくなった。彼の頭は正にこれを承認した。しかし彼の心(ハート)は慥かにそうだと感ずる勇気がなかった。

 複雑だ。だが、それはそうだろう。「三千代」を思う「代助」の気持ちが、より美しい別の女が現れれば直ぐに変わってしまう。そんなふうに、割り切れるものではない。
 



朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第91回2015/7/2

「老いた元ボクサー」という存在の末路に暗然としたものを覚えていた。

 沢木耕太郎の文体は分かりやすい。文が短く、漢字は少なめだ。会話は日常のものを自然に表している
 引用した部分のような箇所は珍しい。そして、ここではこの文体がしっくりとくる。

 「広岡」は、「老いた元ボクサー」の人生を二つ思い浮かべている。
 昼は畑で働き、夜は子どもや孫に囲まれて酒にでも酔うような生活。
 恋人と身を固めるか、今も女から女へと渡り歩くような生活。

 小説から離れ、実生活で考えると、このような人生を送っている老人は多くはない。農業をやっている老人が、子どもや孫と一緒に生活できるのは希だ。
 老いた男が、妻から愛想づかしをされることは珍しくなくなった。次々と女性を渡り歩くなど、よほど悪いことでもし続けていない限りは不可能だ。
 それよりは、「末路に暗然としたもの」を抱えていると表現される老人男性の方が多い。それは、元ボクサーに限らない。

 私は、悲観してこのようなことを言っているのではない。老人に幸福もあるが、青年にあるような悩みも厳しさもあると思っている。生活のために働く苦労からは解放されるが、そこには働かなくてもよい、働けないという苦労が伴う。今の社会では、「末路」を生き抜くにはそれなりの覚悟がいると感じている。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第64回2015/7/1

彼は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分を一纏めにしたものを、わが情調にしっくり合う対象として、発見したに過ぎなかった。

 なかなか理解が難しい部分だ。

 「三千代」のことを何もかも「しっくり合う」と感じていることは分かる。それにしても、「夫婦の関係」も含まれると言うことは、「平岡」の妻である彼女を好きだと言うことなのか。では、妻でなくなったら、どうなるのか。

 理論で物事を捉える「代助」だが、ここは「情調」だと言っている。
 人と人とのことだから理屈でないと言われればその通り。そして、そこには社会通念や道義的な責任を持ち出すのはナンセンスなのだろう。
 そうだとすると、「三千代」が離婚し、「代助」と再婚するなどという行動は考えられない。それは、道義には反するが、ある意味において社会通念に沿った行動だから。それどころか、「代助」が「三千代」に対して、二人の関係を具体的に進めるような実際行動を取ることもないのではないか。
 全ては、「代助」の想念の中の事だと感じた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第90回2015/7/11

かりにその世界から出て行こうとしても出て行かれなかったにちがいない藤原のようなボクサーこそ、真のボクサーなのかもしれない。真のボクサーは、ボクサーであることをやめても、元ボクサーとしてしか生きていけない

 美しい文章だ。真のプロスポーツマンの生き方が示されている。ボクサーだけに限らない。真のプロ野球選手は、プロをやめても、元野球選手としてしか生きていけない、と言い換えられるだろう。
 これは、広く考えれば、スポーツマン以外にも当てはまりそうだ。例えば、真の刑事は、退職しても元刑事としてしか生きていけない、のように。
 私の若い頃は、こういうとらえ方が一般だった。だから、周囲には、元郵便局員、元教師、元銀行員、元大工などという人が大勢いた。
 それが、いつの間にか……。「退職したらそれまでの経歴をすっかり忘れて第二の人生を歩もう。」の大合唱となった。そう考えると、楽になれた。だから、今は、職に就いていた老人が皆元○○ではなくて、リタイヤした人となって、気楽にシニアライフをエンジョイしている。
 私もその典型だ。

 「第二の人生」、「シニアライフ」、「エンジョイする」、どれも怪しげな言葉だ。「第二の人生」があるならば、終末までには「第三の人生」が待ち受けている。
 「豊かで充実したシニアライフ」などというものは、これからの社会では架空のことだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第63回2015/6/30

 事件と言うほどの事はなかったと読んでいたら、また裏をかかれた。
 ただの芝居見物ではなくて、「代助」をある女性と会わせようという計略だった。その女性とは、父や兄が、「代助」に結婚しろと勧めていた女性だった。そのために急な呼び出しと芝居見物が準備されていたようだ。
 「代助」を結婚させて、仕事に就かせようという家族の包囲網はだんだんと狭まって来た。

 この女性については、次のように書かれている。

若い女

しとやかにお辞儀した。

 この文章だけでは、「代助」が彼女にどんな印象を持ったのかはまだ分からない。

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