本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

TV番組 「ハナタレナックス」「サワコの朝」  大泉洋は、NHKの朝ドラマでダメな父親を演じています。大口ばかりたたいて、さっぱり実行できない、それでいてどこか憎めない所を持っている、そういう役を演じたらピッタリの役者だと思います。  泉ピン子は、言うまでもなく、イジワルな女を演じたらピカイチの役者でしょう。  その二人を、それぞれ違うトーク番組で視聴して気づきました。  二人とも、見てきたことを、おもしろく話す能力が抜群に高いということです。  泉ピン子は、芸能界に入ったきっかけを、芸人さんたちに「見てきたことをうまく話すおもしろい娘(こ)だ。」と言われたことにあったと、話していました。  大泉洋は、ナックスのメンバーに、自分の周囲にいたおもしろ人間のエピソードを、熱弁と言える勢いで紹介していました。おそらくこの話は何度も聞いたことのあるはずのナックスのメンバーは爆笑していました。視聴者がおもしろくないはずはありません。  見たこと、経験したことを、おもしろく伝えられる才能って、すごいことなんだと思いました。 読んでいただきありがとうございます。 ブログの記事も、おもしろさが伝えられたらと思いますね。そのためには、まずは筆者がおもしろく感じることでしょうね。 クリックしてもらえればさらにうれしいです。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ      

朝日新聞連載小説『それから』 平成27年4月3日分  学校へ行くのでもなく、職を探すのでもなく、自宅中心にただ時間を過ごす若い世代のことが、新しい現象として注目されています。そういう人たちのことを、「モラトリアム人間」と呼ぶこともあるようです。  主人公「大助」の家の書生である「門野」は、現代の見方なら「引きこもり」に近い生活を送っていた若者ということになるかもしれません。ただし、「門野」は、現代の何もしていないように見える引きこもりの人に比べると、自分のことをよくしゃべります。  この小説の時代は、不景気だったとあります。世の中、不景気になると、ただ怠けているように見える若者が出てくるのでしょうか。  それとも、好景気で、学校を卒業した若者が、ほぼ全員たちまち職に就いてしまう社会の方が、珍しいのでしょうか。 読んでいただきありがとうございます。 『それから』は、明治時代の連載と同じ分量で、現代も連載されているようです。 ストーリーの展開は、はでではありませんが、毎回の切れ目は鮮やかだと思います。 クリックしてもらえればうれしいです。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎4月2日分  その場に似つかわしくない服装や行動をする人はいつも他人の目を惹きます。  レンタカーを自分で運転した方がよっぽど安く行ける長距離の目的地に「客の男」は、タクシーで向かっているのです。  タクシーのドライバーにそのわけを尋ねられて、「客の男」は、答えます。  「医者に運転を止められているんだ。」  医者に運転を止められるというと、身体的に障害がある、発作が起こるような病気がある、精神的な障害がある、などが考えられます。タクシードライバーが尋ねているところから、身体や精神状態にはっきりと分かるような障害があるようには見えません。 読んでいただきありがとうございます。 毎日連載への毎日感想です。続くかどうか、自信がありませんが、やってみています。 クリックしてもらえればさらにうれしいです。 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説『春に散る』4月1日分  道を進みながらその途中途中で物語も進むというスタイルの映画があります。こういうスタイルの映画、ロードムービーが好きです。   『春に散る』の第1回は、次のように、  アメリカの国道1号線、ルート1は、 と道路の説明から始まります。  挿絵(中田春彌画)からも明るく広大な風景の中を貫く1本の道がイメージできます。  ところが、このルート1を走って行くのは、 いま、そのルート1のマイアミからキーウェストに向かう車線に一台のタクシーが走っている。 とあります。  長距離トラックでも、スポーツカーでもなく、ビジネスライクなセダンでさえなく「タクシー」なのです。 読んでいただきありがとうございます。 クリックしてもらえればさらにうれしいです。 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説『それから』 平成27年4月2日分  「損得を考えてから」ということは、人間が行動を起こす動機の大部分を占めていると思います。  私などは、損はいやだといつも思っています。それどころか、遠い先にある得を取ろうと行動するのは難しく、すぐ目の前にある得はあせって取ろうとすることが多いのです。  『それから』の「大助」は、次のように言っています。 「今の人間が、得にならないと思ってあんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ。」  「学校騒動」の原因をこんな風にとらえている「大助」は、『それから』の中で、今後どんなものの見方を見せてくれるでしょうか。  「損得ずくで行動する」とそのための「方便」は、人間の行動の特徴だとつくづく思います。「損得で言っているのではありません。」というのが、代表的な「方便」なので、なかなかやっかいです。  また、損をしてでも正しいことをしている、ように見えて、実は裏にあるより大きな得を狙う人もいます。人間の行動には、どこまでいっても損得ずくがなくなりはしないようです。 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ   続きを読む

朝日新聞連載小説『それから』 平成27年4月1日分    新聞は以前から購読していますが、連載小説を読んだことはありません。今の健康状態は、ものを読むには適していますが、他のことをするには制約があります。これも、与えられた機会です。連載小説が、今月から新しく始まるので、楽しんでみます。    『それから』を、私が読んでから、驚くなかれ50年近く経っていました。冒頭部分はほとんど記憶にありません。  こんなにも色彩と音が描かれ、さらに細やかな映像が浮かんでくる冒頭部分だったのは驚きでした。 彼は胸に手を当てたまま、この鼓動の下(もと)に、暖かい紅(くれない)の血潮の緩(ゆる)く流れる様を想像して見た。これが命であると考えた。自分は今流れる命を掌(てのひら)で抑(おさ)えているんだと考えた。それから、この掌に応(こた)える、時計の針に似た響(ひび)きは、自分を死に誘(いざな)う警鐘のようなものであると考えた。  今更一読者が言ってみても何の発見でもない、と言われるでしょうが、すごい文章力だと言うしかありません。  命というものを、どうやって感じ取るか。  そして、命というものが、限りあるものだということを、どうやって言葉で表すか。  言葉で表すだけでなく、そこには、真実が描かれていると思いました。 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

 初めてこの番組を視聴しました。『なまさだ』、しかもスペシャル、5時間。さすがに、体力がないので、「ろくさだ」で。録画でみることをこういうらしいのです。  今までは、さだまさしに特に興味あったわけではないのですが、入院中に聴いたさだまさしのCDが気に入りました。それから少し気になるようになり、NHKFMの『今日は一日さだまさしざんまい』を、録音で聴き、『なまさだ』のことを知りました。  5時間、おもしろかったですよ。視聴し終わるのに3日間かかりましたけれど。  さだまさしという個性で、統一がとれているので、生番組で長時間なのに、安心して気を楽にしてつきあえました。 ゲストで出演するタレントは、皆その世界で実力のある人なので、その芸、技量が楽しめました。  それにしても、さだまさしという人の番組を創る力、段取りを決め、その段取りにそって演じる力はすごいと思いました。だから、歌だけでないライブステージがあれだけの人気になるのでしょうね。 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ 続きを読む

 今注目されているミュージシャンのことはさっぱり分かりません。テレビでも歌番組が少なくなったせいか、新しい曲や歌手のことを聞くのは、せいぜいラジオを通してです。ラジオで流れてくる新人とされる人々や、その曲もそうとうに長い間有名でないと、覚えることができないのが今の私です。  もともと、音楽への興味はそれほどないのですが、坂本九・上を向いて歩こう、石田あゆみ・ブルーライト横浜、ベンチャーズ・ウォークドントランなどは、検索をして確かめなくとも出てきます。年代によるのでしょう。  これは、好きな本についてもあてはまるようです。  最近の流行作家については、さっぱり頭に入ってこないなあ、と思っていたら、『吉里吉里人』に次のような部分がありました。 洋書といってもよく見ると松本清張や司馬遼太郎や野坂昭如や大江健三郎や丸谷才一や筒井康隆など日本語の本ばかり、  吉里吉里人国営食堂内の購買部の書籍コーナーのこととして書いてありました。  最近書評などに取り上げられる作家はなじみのない人の方が多いのですが、ここの6人の方々は、私にとってドンピシャリ、名前がわかるだけでなくて、作品のいくつかは読んでいます。その本を買って、私の本棚に今もあるものもあります。  時代を写して注目をされた作家、そして、流行し注目された作家に共感することができる読者の年代というものがあるのでしょう。  にほんブログ村 本ブログへ
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(前略)いったいどこから書き始めたらよいのかと、記録係(わたし)は、だいぶ迷い、かなり頭を痛め、ない智恵をずいぶん絞った。  『吉里吉里人』を読み始めました。  小説の始めで、上のような表現があります。この小説の書き出しをどこから始めるかで、作者は、何通りものことを書いていました。  小説の冒頭には、作者はずいぶんと工夫するのでしょう。その工夫する所ですから、いちいち迷ったことを書かないで、これはと思ったことから、ズバッと書き出したらどうでしょう。 にほんブログ村 本ブログへ
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 うちにオレオレ詐欺の電話がかかってきたことがありました。「オレ」の当人がうちにいたので、だまされることはなく、終わりました。  『所さんの目がテン!』で実験をしたら、実験をされた人たちは、詐欺電話にだまされてしまっていました。こういう実験のVTRは、編集されていて、結果がはっきりと出るようにはなっているのでしょう。それにしても、やっぱりだまされてしまうんだ、ということは分かりました。  番組の中で、ニセ息子にだまされなかったお母さんが一人いました。  番組では、このお母さんが、犯人役の説明に疑問を持ったことと、切迫した話の内容にのらなかったことが、だまされなかった理由とまとめていました。  このお母さんの話し方を聞いていて、気づきました。だまされなかたお母さんは、いつもの自分と息子の会話のペースをとりもどしたのです。つまり、ニセ息子に、言いたいことだけを言わせず、いろいろなことを尋ね始めたのです。  いくら急ぐ用件でも、相手の言いたいことだけを聞いていないで、こちらも何かを言ってみること、これがどんな場合もあるとよいと思えます。  もしも、家にまたあやしい電話が来たら、次のように言おうかな、と思います。 「オレオレ、オレ○○だけど、とっても急ぐことを起こしちゃってさ。………。」 「ああ、そうなの。わかった。お金はなんとかするよ。」 「ありがとう。助かるよ。○○へ、○○という人が行くから。」 「わかったよ。その通りにするよ。ところで、頼んでいたアレはどうなった。」 「アレってなんだよ。」 「アレったら、アレだよ。」 「今、急ぐから、後で、返事するよ。」 「急ぐのは、分かったけど、アレも急ぐんだよ。どうなったかだけでいいから、今返事してよ。」 「………」  「オレオレ」には「アレアレ」で対抗してみようかな。  だまそうとするやつらの手口は、どんどんずるがしこくなるから、そうはうまくいかないとは思うけど、言いたいことだけ、用件だけを聞くということを止めた方がよいのじゃないか、と思うことがあります。  オレオレ詐欺対策だけでなくて、相手に、言いたいことだけを言わせない、こちらもいろいろと聞いてみることをしよう、と思います。 にほんブログ村 本ブログへ
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 「読書をしたくなるような曲を教えてほしい。」なんて、無理な話でしょう。音楽を聴いて、本を読みたくなった、なんて、そんなことないです。  でも、手術後のだんだんに体力が戻ってきたときは、それに近いことがあったかもしれません。手術の後、何日か経つと、眠っていたり、うつらうつらしている時間が短くなり、ラジオを聴くようになり、テレビを見るようになり、そして、本を読んでみようかという気になりました。ラジオで聴く音楽が、読書を誘ったのか、とも思いましたが、それは考えすぎでしょう。  「読書をしたくなるような曲を教えてほしい。」というリスナーの便りに、番組の中で「ゴンザレス三上」さんが次のように答えていました。 そんな曲を選ぶのは、不可能だと思うけれど、細部が気になるようなナイーブな曲、演奏を選んでみました。 選んだ曲は、ステファノ・ボラーニ 『ドント トーク』 というような内容でした。  なるほど、きれいなピアノ演奏でした。なんとなくたよりなさげで、それでいて、細かい部分も丁寧にしあげられた曲で、演奏もそういう感じでした。  全体がおもしろく、細部も楽しめる、読書も音楽も共通するところなんでしょう。  それにしても、このリスナーの注文は、思いも付かないものでした。   にほんブログ村 本ブログへ
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 『赤猫異聞』の登場人物二人のつながりが、次のように書かれていました。   語り合いながら思うた。こやつは朋輩などではない。双子同然の親友でもない。紛うかたなく私の体の一部なのだ、と。もしこやつがいなくなれば、そのときから歩むことも飯をくうこともできなくなると。  他人のことを「紛うかたなく私の体の一部なのだ」と、感じことが私にはあったでしょうか。友だちにそんな感じをもったことはあったような気もします。でも、あまり自信がありません。今は、こういうふうに思える他人はいません。  作者は、この作品で、強い結びつきの二人を登場させ、この二人を活躍させています。「以心伝心」、肝心のことは語らなくとも、伝わり合い、そして実際の行動で互いを支え合っていく。  このような人と人のつながりと行動を、読むのが気持ちよかった本でした。   にほんブログ村 本ブログへ
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 まだ入院中に、読み始めた。退院してからも、テレビやラジオしか受け付けない期間もあった。一日に何回か本を読むようになったが、一冊の本を読み継ぐということが、どうにも疲れた時期が長かった。  ようやく、『赤猫異聞』浅田次郎著を読み終えた。読んでよかった。四人の語り手によって、話が進んでいく構成が、時間がかかった理由であり、中断を重ねながらでも読み切ることができた理由でもある。  「工部省御雇技官エイブラハム・コンノオト氏夫人スウェイニイ・コンノオト」こと「白魚(しらうお)のお仙(せん)」の言葉は、次のように表現されている。  おうおう。典獄だかヒョットコだかしらねえが、おめら横浜くんだりまでいってえ何をしに来やがった。好き勝手にあれこれ調べ上げたあげく、面と向き合やア人ちげえかもしれねえだの相手が悪いだの、役人の風上にもおけねえ、いやさ、男の風上にも置けねえ野郎どもだ。  時代考証がどうのこうのではなくて、こういう話し言葉を読めたのはおもしろかった。  読むことによって、話を聴くことができる、それだけでもこの小説の価値はある。  講演会などではなくて、面と向かって人の話を聴くというのは、楽しい行為だ。私には、最近そういう経験が少ない。  ただし、面と向かって会話をする場合でも、聴き手のことを考えない話し手の場合は、楽しいどころか、腹立たしい行為になってしまう。 にほんブログ村 本ブログへ
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 「男女平等」という表現も、古くさくなった感じがする。しかし、男女間の不平等の状態がなくなってきたか、というと、そうとも言えない。  人は生まれながらに、差別されてはならない存在だ。人種や性によっても差別されてはならない。私も、そう思う。だが、具体的にそれをどう実現するかというと、いろいろな立場がある。  過去の日本語には、書き言葉にも話し言葉にも、厳然とした男女の差があった。そこをとらえて、次のような意見もある。男性と女性は平等だから、言葉遣いや文字遣いに違いがあった過去へ戻ってはならない。男女は、同じ言葉遣いをすべきだし、男性的な表現と女性的な表現という区別・差別は、なくなることが理想だ。  私は、そうは思わない。過去の女性独特の表現と、男性独特の表現は、その当時の社会の有り様を反映したものだし、日本語の歴史の一部だ。  現代でも、女と男それぞれに、言葉遣いの違いはある。それを否定したり、矯正したりすべきではないと思う。ごく一般的には、私の年代であれば、女性は男性よりも丁寧な言葉遣いが多いが、それはそのままでかまわないと思う。     『赤猫異聞』の中に、次のような表現があった。  「鍵役同心の丸山子兵衛」の言葉に次のようにある。 「人の本性に男も女もあるまい。お仙はきっと帰ってくるわ。」  また、「七之丞」の思いとして次のようにある。  人の本性には、男も女もないのです。いやそればかりか、身分も素性も、生まれ育ちの貴賤もない。  そのときばかりは、武士のほこりをふりかざして権柄ずくに生きてきたおのれが、恥ずかしゅうてたまらなくなりましてな。  罪人となり、何度も死にかけた、「七之丞」という武士の思いだけに、素直に伝わってくる。この小説の表現には、社会制度や法律の面から考えられる「男女平等」とは違うなにかが描かれている。  それは、「人の本性」というものに照らしての平等意識なのだと読み取れる。  日本の過去のある時代のある階層の人々には男尊女卑の意識があった。だが、全ての歴史的な過去に、性による差別意識があったか、というとそうは言えないのではないか。万葉集の相聞歌に、落語に登場する江戸時代の庶民夫婦に、男尊女卑の意識は感じられない。  むしろ、現代のある議会での何人かの議員の、女性は早く結婚すべきだ、という主旨の発言の方に、女性蔑視の意識が反映されているのではないか。

 原作は読んでいない。ドラマだけの印象だ。ロケを丁寧にやっているし、畑や農作業の場面のカメラワークも気持ちよく観ることができた。展開のテンポも悪くなく、最後まで次回を楽しみにした。  なによりも、今の日本の現実を取り上げているので、私の好きなドラマだった。  見終わって、ややすると、不思議な感覚にとらわれた。例えば、「刑事ドラマ」としながら、主要人物に警察官が出てこないような感じか。  現実の「限界集落」のなによりの特徴は、若い世代がいない、住民が減る一方ということだ。さらには、都会地との日常的な交流が困難な地理的な条件にあることだ。  このドラマの鍵を握るのは、つまり「限界集落」を救うのは、若い世代だ。経営が順調になり出したこの村の「株式会社」を危機に陥れる登場人物でさえ、若い農業従事者だった。そして、登場する高齢の農家さんたちが、高齢といいながら元気に農作業をしている。さらに、この高齢の農家さんたちは、少し考える時間を得ると、新しい価値観を受けいれてそれをどんどんと行動化していく。  なるほど、ドラマだ。  若い世代がいない所に、若い世代の住民を登場させている。若い頃に比べると格段に落ちてくる農作業の能率を、それほど落ちさせない。記憶力や特に新しい事物に対する判断力がなくなってくるはずなのに、それをさせない。都会地との日常的な交流が難しい地理的な位置にあるはずなのに、都会からたくさんの人々が日常的にやってくる。  過疎の集落の現実から見ると、この『限界集落株式会社』に描かれたものは、夢物語以外のなにものでもない。  私は、大都市と言われる地域に住んでいる。  身近では、高齢の一人暮らしの方が亡くなって、その後空き家になる家が増え続けている。限界集落だけではなくて、多くの日本の地域にとって、このドラマは、ドラマそのものなのだ。  今存在するものを、なるべく穏やかで、後始末に困らないように、終わらせること。次には、全く新しいものを作り出していくことが、高齢化、人口減少への現実的な手立てだと、私には思える。

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