本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第104回2015/10/27

 この家がこれから意味をもってきそうだ。
 この事件の真相解明に広岡がかかわってくるとは、さすがに思えない。事件についてはこれ以上発展はしないが、この3年間空き家になっている家と広岡が関係してきそうだ。進藤にしてみれば、この訳ありの家に買い手がつけば、これ以上のことはないだろう。
 この大きな家を、広岡が思っているような場所として使うのであろうか。展開が一段と楽しみだ。

 家には興味がある。
 どうも最近の戸建て住宅の在り様には納得がいかない。外見と新しい設備に重点がかかり過ぎている。
 外から住宅内部への出入りや大型家具などの搬入の容易さ、台所とフロとトイレの使いやすさ、収納と室内移動の合理性などに重点がいくべきだ。また、冷暖房の効率と全ての設備のメンテナンスのし易さも必須だ。
 ところが、それらのことに特徴をもつ住宅建築や販売はないように思う。

 二世帯住宅は、世帯間の独立性がなによりも必要だと思う。ところが、2軒建てるよりは安上がりだということや、別世帯間の共有部分が重視されている。2軒の家を建てるよりも、かえって経費がかかるぐらいの予算で、建築すべきだ。現代の家族構成を考えると、距離的には隣接しているが、世帯間は防音も含めて、完全に独立している造りにしなければ快適性は求められないと思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第23回2015/10/26

 夫婦には、生活を共にする人間同士としての能力が必要だ。それは、恋愛関係に必要とされる人間同士の能力とは違うものだろう。違うというか、恋愛関係が成立した人間同士に、さらに付加されることを求められる能力だろう。
 夫婦は、衣食住にかかわる問題を共に解決していくことが必要だ。例えば、二人分の衣服を購入し、洗濯し、適宜に着替えて、快適に生活できなければならない。それを、一人でやるよりも、二人でやった方が効率的で、しかも快適なものにできる。そんな実生活上の力が必要だ。
 昭和時代の夫婦であれば、購入のための金を稼ぐのは、専ら夫で、洗濯や整理は妻という分担が一般的だった。しかし、働き方と家族の構成が変化した今は、過去の分担は通用しなくなっている。

 宗助と御米は、明治時代にもかかわらず、非常に合理的な役割分担をしていると思う。稼ぐのは夫で、家計のやりくりは、妻というのははっきりとしている。しかし、御米は、夫の気持ちをとらえ、小六の世話をできる範囲でする方法を宗助に提案している。
 宗助は、御米の話をよく聞き、御米の意見に従っている。
 弟を援助したいが、無理なことはしないというこの夫婦の生き方は、非常に近代的だし、現代でも現実的だと感じた。

 静かで地味に暮らしているこの夫婦に、なんともいえない味わいを感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第203回2015/10/26

無料の簡易ホテルのようなものかもしれない。

 広岡のイメージしていることがようやく見えてきた。
 入居と退居が自由にできる。しかも、無料の宿泊施設ということだ、そして、利用者は元ボクサーを対象に考えている。これは、老人ホームともシェアハウスとも違う。

 それにしても、住居というのは、難しいものだ。これだけ物質的に恵まれている日本でも、安心して暮らせる家を持つことや借りることができている人は多くはない。特に、高齢者ほど住む家の不安は増える。
 最近、「終の棲家」という言葉を聞くが、人生の後半から最後までの期間に住むべきところの意味で使われていることが多い。しかし、老人になって住む家というのもおかしなものだという気がする。確かに、青年期や中年や老年で住宅に求めるものも大きく違ってくる。だからといって、それぞれの時期に合う住宅に住み替えるということが一般化しているわけではない。
 要するに、現状は、どんな形態の住居に住むのが合理的で快適なのか判然としないのだろう。団地のスラム化、二世帯住宅が一時の流行に終わったこと、戸建ての家が持ち主亡き後に空き家になること、そして最近の高級といわれたマンションの問題など、よい住処を求めてみんなが模索している。
 昭和時代には、賃貸の共同住宅には独身や夫婦だけの時期に住み、子どもが生まれたら戸建て住宅に何世代かで住むという形態が一般的だった。今は、そういう家族形態がなくなりつつあるのに、それに見合った住居の形態が見つからないのだと思う。


 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第202回2015/10/25

 進藤という登場人物のことはまだよく分からない。しかし、佳菜子の話からは、妻子がいて元気に仕事をしていて表面的には安定した生活を送っている。それどころか、妻との仲はよさそうだ。仕事の不動産業の方も小規模ではあるが、困っている様子は見えない。
 少なくとも、広岡の昔の仲間の元ボクサーと比べれば、幸福な生活をしているように見える。だが、商売だからというだけでなく、「大人のシェアハウス」なるものに憧れをもっている。
 この気持ちも分からなくもない。家族がいて、住む家があって、老後の生活が送れるほどの貯えもあるからといって、それで満足するかというと、そうとも限らないのだろう。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第22回2015/10/23

 宗助にしてみれば、弟から激しく責任を追及されたのと同じであろう。普通なら、兄として弟を心配しているのに、その自分を差し置いて、安之助に頼み込むなぞはもってのほかと怒るところだ。
 ところが、これだけ弟の小六から自分が軽く見られているのに、腹を立てるどころか、弟の心意気に感心している。
 面子などに拘らない人でも、あからさまに実の弟から、兄はあてにならないと思われれば、腹を立てる。実際に弟のために、何もしてやることができなくとも、こういう行動を弟にとられれば、やはり怒ると思う。それをしない宗助に、私は感心した。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第201回2015/10/24

 シェアハウスが英語だと思っていたら、和製英語だった。だから、広岡にはピンとこなかった。今や下宿は、死語になり、シェアハウスは私でも知っている語になった。でも、間借りや下宿と、シェアハウスなるもののどこが違うのかはよく分からない。根本的には変わっていないような気もするが、どんなものか。
 
 私は、昔の仲間と共同生活することに魅力を感じない。進藤はなぜそんなに魅力を感じるのだろうか。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第21回2015/10/22

 宗助は、頼りない人だ。
 叔父に任せて、父の遺産を食いつぶされてしまった。遺産の中からの弟の学資を守ってやることもできなかった。さらに、学資がなくなった弟を援助しようという強い気持ちも、その力もなかった。
 もし、宗助が世慣れたしっかり者だったら、父の遺産の処分を抜け目なくやり、なるべく多額の金を相続しただろう。また、父の遺産の一部を弟小六の学資に充てる算段もしただろう。
 そういう人は頼りがいがあるとされる。ただし、それだけのことだ。損得勘定に長けていて、存命中は意見の合わなかった父の遺産で、弟の面倒をみたというだけだ。
 そういう人が、人としてどうなのか。

 一方、頼りない宗助は、子どももいないのに、おもちゃを買って来て、それで遊んでいる。自分が損をして、弟にも迷惑をかけているのに、妻と鉢物を買って来て、安らかに眠る。
 こういう人は、人としてどうなのか。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第20回2015/10/21

 御米はずいぶんと淡白な性格だと感じた。
 明治時代であっても、夫の財産にはもっと関心があっても当然だろう。ましてや、小六の学資のことは、夫婦の家計に響くことになりそうなのに、夫を問い詰めるようなことを、御米は一切しない。
 宗助は、遺産のことを諦めるにしても、御米のようにさっぱりとはしていない。どこか、未練がましい。
 だが、この夫婦は苦労や心配を抱えても、互いを責めることなく、ますます寄り添っていくことはよく伝わってくる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第199回2015/10/22

広岡には、この部屋にいても、特にしなければならないことはなかった。

 引退後の生活は、これに尽きるなあ。趣味とか引退後の人とのつながりとかいうが、それは「しなければならないこと」にはならない。「しなければならないこと」とは、それをしないと生活費を稼げない仕事のことだ。仕事場でなく自分の部屋にいても、職に就いているときは、いつも仕事のことが頭のどこかにある。逆に、自分や家族を養うための「しなければならないこと」があり続ける人は、引退した人とはいえない。
 現役の間は、稼ぐためにあくせくすることから逃れたいと思い続ける。引退後は、やりがいのあることを見つけようといつも思う。そういうものなのだろう。
 そして、引退後は、「特にしなければならないことはなかった」という生活をするのは、幸せだと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第198回2015/10/21

テーブルの上に置いてある携帯電話が振動している音が聞こえた。

 広岡の生活ぶりは、興味深い。
 ベランダに来るネコの様子がよく見えるのは、ベランダに余計な物を置いていないからだ。昼間だし、広さもある部屋なのに、携帯電話をバイブにしている。
 映画の描写で、一人暮らしの中年女性の部屋のベランダの床がビールの空き缶で埋まっているのを見た。どこでも携帯電話の呼び出し音を鳴らし、大きな声で応答しているのは老年の男が多い。
 自分の部屋を掃除、整頓する。隣室などに電話やテレビの音で迷惑をかけない。
 これらは、マナーの問題というよりは、日常生活の能力だ。広岡は、自立して暮らす能力が高いと感じる。

 現実の社会では、広岡のような能力を持たない人を、多く見る。金がないのは困るが、こういう日常生活の技術に欠けるのも困りものだ。
 広岡のように暮らしたいと思う。


何か暗い影のような過去があるのだろうか…。

 佳菜子の過去については、以前の回(143・148)でも気になっていた。 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第19回2015/10/20

 宗助が継ぐべき遺産は、実際に受け取った額の何倍もあったであろう。また、小六の学資についても潤沢と言えないまでも卒業までの額はあったに違いない。
 全て、叔父夫婦の身勝手な処置のせいで、正当な遺産を食いつぶされたといってよい。
 だが、叔父夫婦のことばかりも責められない。宗助には、父の考えに背いた過去があるようだ。当時は、父の方針に真っ向から背くことは、家業と一家の財産を継ぐことの拒否になったのであろう。
 そういう、経緯があったとしても、父の没後に実家に戻り、財産の処分を、全て宗助自身が行うことは可能だったようだ。
 宗助が、自分で財産の整理を行うとすると、今の役所勤めを続けるのは無理であったろう。そうなると、職を失うことになる。職を失っても宗助夫婦と小六の生計が成り立つほどの金額があったかというと、借金もあったということから怪しくなる。
 そう考えてくると、叔父を強く責める立場にない宗助の姿が浮かび上がってくる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第197回2015/10/20

 広岡はやはりこまめに自炊していた。
 男の一人暮らしで、自炊を本格的にやるというのは珍しい。広岡は、今や完全に仕事をしていない引退した男だ。その広岡が、家事をこなし、食事を調理する際には喜びさえ感じている気配を感じる。そういう境遇にある男の暮らし方として、広岡の自炊に興味を感じる。
 一般的には、老いた男の一人暮らしは、飯は外だし、掃除洗濯などはごくたまにしかしないとなるだろう。だが、それでは、あまりに情けない。しっかりと取り組んでみると、家事は奥が深くおもしろい。

 味をつける前の肉や魚をネコの餌とするところなぞは、私と同じ感覚を感じる。私も、ネコにもイヌにもペットフードが最高の餌だとは未だに思えない。だいたいが、ネコにやる食べ物のことを、ゴハンというのさえ、抵抗がある。餌という明確な語があるのだから、それでよいと思っている。
 ただし、家のネコは、療法食のペットフードだし、それを注文した動物病院からは、「○○ちゃんのお食事が届きましよ。」と電話がかかってくる。それを、あえて「餌を受け取りに行きます。」などとは言わない。


 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第196回2015/10/19

昼食後、広岡は食器を片付け、洗い物を済ますと

 ご飯を自分で作っているということだ。しかも昼食だから、朝、晩も自炊しているのだろう。
 一人暮らしで、欠かせないものは、家事の能力だ。今は炊事・洗濯・掃除も便利な用品がたくさんある。それだけに知識と技術が必要だ。
 私は、病後は家にいる時間が長くなったので、ご飯作りを手伝ってみた。やってみて初めて、気づいたことがある。毎日のご飯の準備は、今まで考えていた「料理」とはちょっと違っていた。
 「料理」のイメージは、何を作るかを決めて、材料をそろえるという手順が一般的だ。でも、毎日の食事は、食材として何があったかから始まることが多い。食材を買いに行くにしても、毎日のことだから、売っているもののなかで、何が新鮮で安いかで決めることが多い。
 それに、毎食を作る上で一番大変なのは、後片付けだと分かった。
 広岡は、それをきちんとこなしているようだ。


ラジオを聞いたり、本を読んだりするだけで充分に満足な時間を過ごすことができていた

 この感じよくわかるなあ。部屋を整頓し、自炊し、ラジオに本、これでネコの世話をすれば暇どころか、忙しいくらいだ。


朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第195回2015/10/18

 そうなんだよなあ。
 思いがけないことで、自分の歳を自覚させられるんだよなあ。
 広岡は、若い頃と髪型が変わらない。体型も変わらない。どう見ても、アメリカ帰りで裕福なかっこいい男だ。
 だが…
 年齢はそれなりの変化をもたらしているに違いない。若々しい身体をもっていても、老人とは思えない精神をもっていても、それは、若い身体でも青年の精神でもないのだ。
 ただ、親しい人のイメージだけは、歳を取らない。それに、自分でもつ自身のイメージもなかなか歳を取らない。ある時、それに気づくのだ。

 ショーウインドーに映った姿が自分だとわかって驚く。最近撮られた写真の自分の姿が信じられない。誰しもが経験することだろうが、ショックなできごとだ。


 昔の仲間の元ボクサーの現実を突きつけられ、自分が老いたことを突きつけられ、どうなるのだろうか。普通なら落ち込んで、意気消沈して、また日本を去るところだが。

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