本屋のとなりは写真館

新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第143回2015/8/25

 古い映画のDVDがたくさんあるというのは、どんな場所だろう?
①映画好きが個人で収集した。
②レンタルや販売などDVDを商売にしていた。
③映画に関係した仕事をしていて、資料として収集していた。
 昔は映画館をやっていて、古いフィルムがたくさん残っているというのなら、ドラマになりそうだ。②では、現実的過ぎる。
 ①だとすると、「佳菜子」の父親くらいの人の収集になりそうだ。映画館に行かなかったというのだから、収集した人に何か事情があるのだろう。
 それとも、過去の「佳菜子」本人に、何かの事情があったのか。
④何らかの施設に入所していて、そこには古い映画のDVDしかなかった。
⑤外国にいて、そこの日本人のための娯楽施設には、古い映画のDVDしかなかった。

 話は変わる。
 今日の挿絵がよい。モノトーンが美しい。昨日の二人、特に「令子」の表情もよかった。でも、今日の雰囲気はなおよい。
 目的のレストランを前にした「佳菜子」と「広岡」の後ろ姿が目に浮かぶ。


朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第100回2015/8/24

 「三千代」は「代助」を超えた感覚を持っていると思う。
 彼女は、生活費のこと、夫との関係、世間体、そういったことよりも、「代助」との愛に重きを置いて、今後生きて行くことに迷いがない。
 一方、「代助」は、そこまで突き抜けた感覚にはなれない。
 「三千代」との生活も、「平岡」との関係も、何らかの解決をしなければならないと思っている。
 
 「代助」は、男女の愛を至上のものとして、そのためには人を傷つけることも厭わないという位置には立てない人だと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第142回2015/8/24

 もし、若い頃の「広岡」が「令子」をレストランに誘っていたら。もし、もっと前に日本に帰って来て、真拳ジムのトレーナーになっていたら。もし、世界チャンピオンになっていたら。

 あの時にこうしていたら、と思うことは、誰の人生にもあるのだろう。ただ、振り返った時に、当人がどう思うかは十人十色だ。

 あの時に、ああしていればよかったと後悔することは、「広岡」には決してないと思う。

 


朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第141回2015/8/23

 「広岡」は、トレーナーを引き受けはしなかった。トレーナーという仕事は片手間でできるものではない。

 私も、スポーツではないが、アドバイザーを頼まれてやったことがある。アドバイスをした時は、現役の人からは感謝されたが、長い目で見るとどうだったか疑問に思う。私にできたアドバイスは、現役時代のことを思い出してのものだった。指導者としての経験に基づいていなかった。だから、限界がある。本当に役立つアドバイスは、指導者として痛い思いもして初めて可能になるのだ。

 引退した者は、やはり現役を退いた存在でしかない。現役を退いて指導者になるには、新たに一から出直して、新人の指導者として出発しなければならないだろう。私には、そんな大変な道を歩むつもりはなかった。
 「広岡」もそういうつもりはないのではないか。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第140回2015/8/22

 「中西」と「大塚」、今までの描写では、「中西」の方にボクサーとしての魅力を感じる。それは、「広岡」の目を通してのものだ。
 「広岡」のアドバイスは、「大塚」本人も「令子」も考えていなかったが、必要なことだった。一言だが、「広岡」は、「大塚」の弱点となりそうなことを見抜いていたのだ。

うちに来て、あの子を見てくれない。

 「広岡」にとっては、恩返しをしなければならない人からの、望みようもないほどの誘いの一言であったろう。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第99回2015/8/21

 愛した女性とは、結婚をしなければならない。
 他の人と結婚している女性を、愛してはならない。
 これに承服しない考え方を、この作品の中だけでなく、今までに何度も聞いている。考えにとどまらず、それを実践している人を見ることは、現代では珍しいことでなくなった。
 しかし、夏目漱石が描く「代助」は、現代の考え方とはどこか違う。形式的な慣習や世俗の道徳に重きを置かないで、本能のままの感性に従って生きるべきだという主張とも何かが違う。
 では、その違いは何か、と問われると、まだ分からない。

 どうやって「三千代」との生活をしていくかという経済面の心配だけで、「代助」が苦しんでいるのではないと感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第139回2015/8/21

速さもうまさも大塚の方が上かもしれない。だが、何かが中西の方が勝っているような気がする。

 「何か」は、この小説が描こうとしている主題に関わることだろう。


真拳の会長は単なるアマチュアにすぎないんだと


 「会長」は、元プロボクサーやプロボクシング業界の人ではなかったことが分かる。そして、彼のボクシングの理想は、理論的でボクシング技術を大切にしたものだったようだ。


だが、広岡には、そのことに何となく現実味が感じられなかった。


 読者としても、そう思う。だが、説明されてみると、「令子」にまつわることが一気に納得できた。

 沢木耕太郎の緩急自在な表現力を味わえた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第98回2015/8/20
 
彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業という文字があるだけで、職業その物は体を具えて現れて来なかった。彼は今日まで如何なる職業を想い浮かべて見ても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。

 私は小学校の頃から将来の職業について考えた。考えさせられたというべきかもしれない。だが、昨今のように学校教育のカリキュラムの一部として教えられたのではない。家庭と学校の両方から、しつけの一部のように、子どもの頃から職業について考えるのが正しいと教えられていた。
 上級学校を選択する場合も、それによって職業選択の幅が変わることを前提として学校を選択した。大学の入試に失敗した場合の浪人の期間は、社会一般の公認だった。だが、高校や大学を卒業すると、就職しないという選択肢はなかった。
 日本の近代以降は、このような感覚と現実が多数派であり、良識的であっただろう。
 だから、「代助」のような感覚は異端と見なされる。
 だが、どの時代でも私のような感覚が通用するものだろうか。
 子どもの頃から将来の職業を考えて、学校は職業に就くための準備の場という感覚に疑いをもってもよいのではないか。
 昨今の日本では、私の世代が持っていたこのような常識は通用しなくなってきた。

 「代助」の身近に「門野」がいる。「門野」は、資産家の出ではなく、特別な教養も才能も持ち合わせていない。彼は、住と食の面倒をみてもらっているが、使用人としての賃金を得ているわけではなさそうだ。彼もまた職業に就いているとはいえない立場だ。
 その「門野」は、毎日機嫌良く暮らしているように見える。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第138回2015/8/20

 アメリカのテレビで見た「中西」は、試合運びの冷静さとチャンスを待つ精神力から「広岡」にとっては、印象深いボクサーだった。「令子」は、その「中西」と真拳ジムの選手との試合を組ませようとしている。その試合が実現すれば、「広岡」は、どちらの立場に立つのであろうか。

 自分が打ち込んでいたことからすっぱりと身を引くというのは難しいことだ。
 引退しても、過去の経験を求められることもある。しかし、コーチとして本当に役に立つ存在になるというのは、あらゆる競技と業種において、非常に数の少ない存在であると思う。
 どんな技能でも、現役を去れば、たちまち過去のものになるのが現実だろう。

 それは、「広岡」のような男でも同じだと思うのだが。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第97回2015/8/19

 「父」は、この縁談が「父」にとって利益になることを正直に話した。また、自分の事業の状況が芳しくないことと、年のせいで弱ってきたことを、隠さずに話した。
 だが、我が子「代助」は、それを理解しながらも、「父」を助けようとはしなかった。「代助」がこの縁談についての不平不満をぶつけてくるのなら、まだ対処のしようもあるが、それもしない。
 「父」にとっての息子「代助」は、理解できない存在である。理解できないだけでなく、父としてどう接していけばよいのか、叱りつけるというよりは途方に暮れているように感じる。

 「代助」の方は、「父」をよく理解できる。だが、「父」が望むように動くことはもうないと心に決めている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第137回2015/8/19

 これ、と決めたことは最後までやり抜く。「広岡」はそういう人間だ。だが、その決めたことをどうしても諦めなければならない事情を一度ならず経験してきた。
 一方では、諦めると未練を残さない人間なのだろう。
 ボクシング仲間の中心だったが、一度日本を離れると、昔の仲間と連絡すら取っていない。野球とボクシングに関係する仕事や人付き合いを断ち切った。ボクシングを諦めてから始めたアメリカでのビジネスとも縁を切って、今日本に居る。
 一つのことをやり抜く部分と、手を引いたらそこに未練を残さない部分はどこかでつながるのだろうか。

 アメリカを立つ前に偶然テレビで見たボクシングの試合のことが、ここにきてつながるかもしれない。

『母 -オモニ-』姜尚中

 読み終えた。
 「オモニ」が自らの一生を話してくれた。それを私が聴き終えたと感じている。作者を介して文章を読んだのであるが、語ってくれたことを直接聴いたような感覚が残っている。
 人の一生を知るということの価値を知らされた。しかも、その人は自分の家族だ。知るだけでなく、共に暮らした人の一生だった。
 この作品の特徴は、作者の母が中心になっているが、それだけにとどまらずに叔父と、さらに共に暮らしていた人の一生も丁寧に描かれているところだ。
 
 子どもに何を教育するかは、永遠の課題だと思う。でも、ここに一つの回答がある。
 子どもにとって役に立つのは、共に生きた人の一生を知らしめることだと思う。
 どうやって一人前になるのか、どうやって食っていくのか、どうやって困難を乗り越えるのか、どうやって老いていくのか、どのように死と向き合うのか、それが全て詰まっているのが人の一生だ。
 しかも、自己に最も近い人の一生だ。そして、その人が肉親だけでないところに一段の良さがあると思った。

 「在日」という存在と、戦争の時代ということがあるが、それにしても「オモニ」の語りには独特の存在感がある。それは、識字のことが影響しているかもしれない。「オモニ」にとっての表現手段は、音声言語だけである。それだけに生き生きと自分を表現できているのではないかと思う。
 幼児の頃だけでなく、親子兄弟のコミュニケーションは会話が根本だと意識させられる。

 文字の読み書きができなかった。故国を出て来るしかなかった。差別される苦しみを味わった。それらを跳ね返して生き抜いた「オモニ」の力強い声が耳に残っているような気がしている。 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第96回2015/8/18

 親子、父と息子の関係がくっきりと表現されている。子が成人し、どのような形であれ、父子の別離が近づくと父の老いが明らかになる。
 「父」と「代助」の決別を避けることはできない。だが、父子の関係を妥協によって続ける道もある。
 世間には、妥協で繕った関係を続ける場合も多いのだろうと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第136回2015/8/18

 「広岡」が、今の日本の様子や習慣に戸惑うこともあるだろう。「藤原」と「佐瀬」に会ったとしても、良いことばかりは聞かされないだろう。
 「令子」は「広岡」についてこのようなことを考えていたのだろう。彼女は、彼の現在をよく理解していることが分かる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第135回2015/8/16
 
 歩くのが好き、まるで恋人とのデートのように「広岡」を映画に誘う、「佳菜子」は妙な女性だ。今までも不動産の斡旋とは言い難いほど「広岡」の世話を焼いている。なによりも不思議なのは、年齢が離れ、しかも40年前の感覚しか持ち合わせていない「広岡」との会話を、いつも楽しんでいる所だ。
 「広岡」が、彼女とのいろいろな違いを無理に埋めようとしないのがよいのかもしれない。

 その「佳菜子」と行くレストランは、「令子」に紹介された店らしい。「広岡」が日本に来て頼りにした唯一の人がいる。それは、「令子」だと思う。彼の身元保証をしたのは「令子」だし、昔の仲間に会えたのも、「令子」が出発点になっている。
 「広岡」と「令子」には、過去には恋愛関係があったかもしれない。だが、それだけでなく、ボクシングを軸にした信頼関係があったのではないかと感じる。

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