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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第159回2015/9/10

 「星」のボクサー後の人生は、平凡で穏やかとは逆のものであったことが分かる。それは、「広岡」を含めての四人ともがそういう人生を送ってきたのだろう。

 現実の人生は、この小説のジム仲間の人生とは違っている。おおむねの人の人生は、普通で平凡な色合いを帯びている。小説に描かれるような起伏に富んだ一生を送る人など滅多にいない。
 私の場合なら、一つの職業を定年まで続け、結婚は一度だけだ。周囲を騒がすようなことをしたことはないし、世間の記憶に残るような事件に巻き込まれたこともない。
 だが、自分の中では、うれしいこともあったし、悲しいこともあった。繰り返しの日々に見えて、同じ日は一日としてない。時間を早回しのように圧縮したり、小さな変化を誇張すれば、小説に描かれるいる人生の要素が、平凡な人生の中にもおおいに見えてくる。


失う悲しみを味わわないためには、最初から関わりを持たなければいい。

 ここに「広岡」の生き方の一端が見えてくる。「広岡」は、ボクサーを引退してからの生活で、このように思い続けて仕事だけに没頭してきたに違いない。だからと言って、「星」の今の悲しみを、「広岡」が理解しないわけでは決してない。それどころか、「星」が、愛し信頼できる女性と何年も暮らしていたということに羨望の気持ちを持ったような気がする。 

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朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第158回2015/9/9

その繊細さが、四人が四人とも、ついに世界チャンピオンになれなかった理由かもしれない

 連載100回の感想で、「広岡」が世界チャンピオンになれなかったのは、次のことが欠けていたからだろうと、私は考えた。 
  ・その競技と競技者の健康面までを熟知した指導者(コーチ)。
 ・競技者の生活をあらゆる面で支え、応援してくれる家族や支援者。
 ・勝負の運。
 この回では、私が考えていたようなことではなく、「その繊細さ」が理由かもしれないと、されている。
 ということは、他人を思いやる繊細な神経は、世界チャンピオンになるには邪魔になるということなのだろう。リングの上だけでなく、どんな場面でも相手のことなど一切考えないで自分のことを優先させる強引さ、ある意味の鈍感さが、勝ち続けるために必要だということだと思う。
 現在の「星」はすべてにやる気を失なっているような状態なのに、「広岡」の気持ちを「繊細」に感じ取り、思いやっている。それは、若いころから変わらないものなのだろう。

 「佳菜子」の「人の心を感知する独特のセンサーのようなもの」は、ここでいう「繊細さ」に通じる。作者が人間を見つめる視点は、こういうところに常にあるようだ。それが、この小説の魅力的な会話を生み出していると感じる。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第157回2015/9/8

 「ジムの会長」の言葉に感心したのは、これで二度目だ。

自分をどれほど追い込んでもよい。しかし、他人を追い込んではならない。それが共同生活をしていく上での鉄則だ。深追いするな。他人を深追いしていいのはリングの上だけだ。

 「他人を追い込んではならない」は、今までにも聞いたことがあって、それが大切なことを知っていた。しかし、そのことを、「共同生活をしていく上での鉄則」として意識したことはなかった。
 なるほどと思った。それに、これはジムの共同生活だけでなく、いろいろな場面で当てはまる。学校にも、会社にも、地域社会にも、家族でさえ、共同生活の要素がある。「他人を追い込んではならない」は、そのいずれの場合も、「鉄則」だと改めて思った。
 さらに、「リングの上」はボクシングだけではない。戦わねばならぬ場合は「深追い」もあり得るということだ。

 この回の最後の一文もよい。「繊細さ」「奇跡」、まさに語句の意味がこの上なくピタリと当てはまっている。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第110回最終回2015/9/7

 連載を読み終えた。
 毎回の感想を続けることができた。

 働くことの意義を考えさせられた。
 結婚という社会的な夫婦関係と、自然な男女の関係との違いについて考えさせられた。
 世間の良識と道徳が、時代によって変化し、それは何の影響を受けるかについて気づかされた。

 最終回では、次のことを考えてみたくなった。
 人は、一人の人として尊重される存在である。同時に、人は、家族、社会、国家の一員として生きることに意義がある。人は、この両面を常に有している。
 この両面、すなわち、個としての面と集団を支える一人としての面をもちながら、そのふたつが衝突する場面がある。そして、そのどちらかを優先させなければならない場合がある。
 明治時代には、最終的に、家族の一員であり国家の一員であることを優先させることが求められたに違いない。
 そして、そのような時代の中で、「代助」は、個としての自己を守って生きようとしてもがいている。

御前はそれが自分の勝手だからよかろうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉という観念は有っているだろう。

 これが、社会に認められた観念だ。そして、ここに疑問をもつ人は少なかったと思う。それは、現代でも通用すると思う。

父も兄も社会も人間も悉く敵であった。彼らは赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この燄の風に早く己れを焼き尽くすのを、この上もない本望とした。

 夏目漱石は、「代助」と「三千代」に「本望」を遂げることをさせなかった。
 ここには、愛を至上なものとするよりも、個の存在の重さを主張している姿勢を感じる。

代助は、自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。

 進むべき方向も、進むための方法も微塵も見えない。が、先へ進もうとする意思を感じる。それは、社会を捨てた二人だけの逃避行ではないと思う。
 今までと異なる境遇と生き方であったとしても、「代助」は、明治という時代の「電車」に「乗って行こう」と「決心した。」のではないだろうか。


 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第156回2015/9/7

しかし、そうしたありきたりの言葉では、いまの星の胸には届かないような気がした。

 「心には届かない」としても、意味は変わらない。だが、二人の男の会話では、「胸には」がより伝わってくる。「胸が裂ける」という慣用句を思い出した。
 こういう何気ない言葉の選択から、登場人物の声、表情、その場の雰囲気が浮かんでくる。

 「星」は、他の二人とは違って、独り身の生活が長いというわけではなかったようだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第155回2015/9/6

 夫に先立たれた妻は、その後の人生をしっかりと生きる場合が多いようだ。しかし、妻に死なれると、夫はダメになるケースをよく聞く。
 独身の男性は、結婚している男性よりも平均寿命が短いそうだが、それもうなずける。

 なんだか現代日本の男性の老後の生活は寂しく哀しい。

 だが、しかし、でも…
 本当にそうなのか。体力がなくなれば、どんな仕事をしていても若い頃のようには進まなくなる。老人同士の付き合いは、若い人同士の付き合いのような華やかさはなくなる。病気にもなれば、大切な人と死別することも増える。
 自然なことではないか。

 日本は平和だ。物は豊富だ。
 日本の老いた男たちよりも、もっともっと寂しく悲しい思いをしている人が、世界中にいっぱいいる。

 昔の思い出にしがみつき現在に落胆する。「広岡」は、そんなことはしないと思う。
 

wowow 映画 グランド・ジョー

 よかった。

 映画館に行かないし、テレビで放映した映画しか観ていない。それも、最近は何を観るかの傾向も特にない。
 この映画の前には、「ガメラ 大怪獣空中決戦」」を観始めたが、途中で寝てしまった。
 この数か月に観た洋画では「鉄くず拾いの物語」がよかった。
 「グランド・ジョー」は、なんの予備知識もなく番組表の短い紹介だけで選んだ。半分くらいまでは、たいして引き込まれもしなかった。後半にいくにしたがって、映画に集中できた。
 観終わって、しばらく呆然とした。エンディングタイトルに曲が流れるが、その訳詞の字幕にも見入ってしまった。

 私の若いころ、アメリカは、映画とテレビドラマとミステリー小説の中でかっこよさそのものだった。
 最近のTVドラマの中では、日本もまもなくこうなるのかと思わせられる暗さに満ちている。
 この映画は、アメリカの中でも特殊な地域だろうが、アメリカの現在が伝わってくるような気がした。描かれているのは悲惨な家族と若者、そして独り者の男だ。ストーリーは暗い。幕切れも決して希望に満ちているわけではない。
 だが、苦しみながら失敗しながらもよりよく生きようという意志と、さまざまな困難を乗り越えていく者がいる、そんなアメリカを久しぶりに感じた。

 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第154回2015/9/5

 ボクシングの世界チャンピオンが一人誕生するためには、世界中に無数の敗者がいなければならない。その敗者の中には1回も勝つことなく、ボクサーをやめた者もいる。だが、その中の何人かは勝ち続けて、ランキングの上位まで達した。
 「広岡」は、野球ではプロでの活躍を見込まれ、プロのボクシングではチャンピオンに近づいていた。それだけの才能があり、努力もしたに違いない。しかし、いずれの場合もそこに到達できなかった敗者であった。
 沢木耕太郎は、チャンピオンの物語ではなく、栄光を手にする資格がありながら、敗れた男の物語を書いていると感じる。
 しかも、そういう男たちのその後が描かれている。

広岡がもういちど呼びかけると、不意に扉が開き、男が顔をのぞかせた。

 「星」は、一瞬で「仁」だとわかった。しかし、「星」の方は、「男」と表現されている。40年経てば、変わるのは当然だ。「広岡仁」が昔と大きくは変わっていないと見えることは、すでに他の二人も言っていた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第109回2015/9/4

  「代助」が価値を認めない物事に、価値をおくと「平岡」がとった行動になるのではないか。
 世間で幅を利かせる富と地位を得ることを目的にして、世間体を気にしながら生きるのが、「平岡」であろう。そういう考え方に立つと、「代助」の「父」に苦情を訴えることは当たり前になるのだろう。そして、それが、「代助」に打撃に与える最も効果的な方法だと考えつきそうだ。

 一人の人間を、個人として見るか、家と地域社会と国家の一員として見るか、その違いが浮かび上がってきたと感じた。

 「代助」は、彼と「三千代」との愛を、彼だけに責任のある問題としかとらえなかった。しかし、世の中の人々は、世間の一員であり、家の一人である「代助」が引き起こした破廉恥な事件ととらえることになるのだろう。 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第153回2015/9/4

 「弘」も「弘志」もヒロシと読める。苗字も名前も、漢字の読みは確かめないと正確にはわからない。しかし、主人公の世代の名前の読みはまだ見当がつく。今の子どもたちの名前はどう読めばいいか、困ることがある。でも、一度聞くと忘れないからそれはそれでいいか。

 「星」の住んでいるらしい所に近づくにしたがって、不安が増す。
 「広岡」が駅前で見たホームレスのことが気になる。あれは、何かの暗示だったのだろうか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第108回2015/9/3

代助は拳を固めて、割れるほど平岡の門を敲かずにはいられなくなった。忽ち自分は平岡のものに指さえ触れる権利のない人間だという事に気が付いた。

 「代助」は、周囲の目をはばからないような行動をとらなかった。しかし、「三千代」の命が危ないかもしれないと思うと、自制心も限界に近づいている。
 かろうじて、強引な行動を止めているのものは、彼が否定している夫の権利というものだった。観念では否定していても、社会の秩序を破壊する行動はとらなかった。
 矛盾だと思う。だが、矛盾をはらみながら生きていくのが人間だとも思う。
 だからこそ、彼の苦しみが時代を隔てた読者に伝わってくるのだと感じた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第152回2015/9/3

 4階建てのビルの2~4階にスナック、居酒屋、1階にラーメン屋、寿司屋がびっしりと並んでいる。どの店も小さいが客はそれなりにいる。名前の変わる店はあるが、空き店舗は出ない。
 スナックが減り、お好み焼き屋、弁当屋が増える。
 たまにスナックに行くと、次の客が来るまで店を出ることができないほど客がいなくなる。
 テナント募集の張り紙が目立つようになる。
 ついにビル全体がガランとして、廃墟のようになった。
 この30年間のどこにでもある移り変わりだ。「水商売」だから仕方がないか。昔は、堅実といわれていた業種も今は、当てにはならないようだが。

 ますますよくない予感が…

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第107回2015/9/2

 恵まれた境遇と、才能。ないものと言えば世俗的な地位と自由になる金銭だけだ。愛する女性は、すべてを投げうって、その愛にこたえてくれている。それが、「代助」だ。
 以前の仕事に失敗し、その際の借金がある。今の職業と地位に満足していない。病気で子を亡くし、妻への愛は冷めた。世俗的な成功を求めて動き回っているが、うまくいかない。それが、「平岡」だ。
 そして、「代助」は、世渡りの術で、「平岡」に手も足もでない、と感じた。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第106回2015/9/1

三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。

 この回の注釈が大変に役に立つ。
 
 この小説の時代以降、100年以上かかって、上のような考え方が広く世間に認められるようになった。
 結婚は、本人同士の愛によって結ばれるものという考え方も同様であろう。
 既婚であろうと、女性の愛を、誰からも「命令する訳には行かない。」とする言葉は、当時としてはそれまでの考え方を逆転するものだったと想像できる。

 男女は平等、同権であり、男女共同参画社会をより進める、という考え方を、私はすでに認められたものとして教えられてきた。その考えに反対すると、非難されることを覚悟しなければならない時代に生きている。
 「代助」は、女性に参政権さえない時代の日本社会で、ここまで到達している。

 社会活動家、思想家が上のような主張を述べ始めるのは、日本ではもっと後の時代になってからであろう。
 そして、何よりも注目したいのは、活動家や思想家は概念が先行するが、漱石の小説の中では、感情に左右され、実際には考えた通りには動けない「人」が描かれている点である。それが、三年前の「代助」の行動に表れていたと思う。

君からの話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶えるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。
 

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