2015年04月

朝日新聞連載小説 『春に散る』第19回

 「広岡」は、旅先で2日目の朝を迎えました。観光名所と言ってもここでは、灯台くらいしかないようです。その灯台の階段を「広岡」は昇って行きます。

 どんな観光地でも名所という場所には、何か独特の雰囲気があります。そこは由来と歴史のある場所です。そして、由来と歴史だけでなく、いつも人目にさらされている場所です。
 観光客が多いときは、賑やかで華やかで、取り澄ました場所になります。観光客がいなくなると、急に雰囲気を変え、ホッとした古びた様子を取り戻すようです。
 私は、どちらかと言うと、人の少なくなったそういう場所が好きです。寂れていると言えば、そうですが、寂れた雰囲気もまたいいものです。

 「広岡」は、その灯台の階段で、誰にも会いませんでした。少し前まで大勢いた観光客は、一斉にそこを離れたようです。きっと、彼は人のいない灯台の最上階からメキシコ湾を見渡すことになるのでしょう。


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朝日新聞連載小説 『春に散る』第18回

 「広岡」が倒れた原因は心臓発作でした。もう少しで手遅れになりそうな心臓発作だったことが描かれています。
 心臓に深刻な病気があるということは、ボクサーを続けることはできません。ボクサーを続けるどころか、車の運転さえ危険だとされたようです。

 重い病気を発見されたということは、二つの意味をもつと思います。手遅れにならない内に発見され、治療に入ることができて、幸運だったという面があります。一方、そのような病気にかかった場合は、長い期間、あるいはその後生きている限りは、その病気と付き合っていかなければならないという面もあります。
 軽い風邪であっても、その後の身体にはなんらかの影響が残るのではないでしょうか。それが、重症の病気の場合は、それがきっかけで生活がガラリと変わることがあります。
 そして、人は生きている限り病気から逃れることはできないのです。




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朝日新聞連載小説 『春に散る』 第17回

 倒れて身動きできないでいた「広岡」は、部屋のクリーニングに来た女性に偶然発見されました。
 
 偶然ということをあまり信じていませんでした。偶然に助かったというような経験がなかったせいだと思います。
 ところが、実際に今回の私の病気は偶然に見つかったのです。大腸の検診をしてもらいに受診した病院で、今までの検診ではやらなかった腹部のエコー検査で、すい臓に異常が見つかったのでした。
 これは、かかりつけの医師からも、よく発見されたと言われるほど、偶然性の高いことのようです。

 これだけでなく、今までを振り返って見ると、偶然に起こったことで助かったということはたくさんあるように思えてきました。意図しないできごとで、振り返って見ると、良い方向に進んでいたということはあるものです。逆に、望んで、計画を練って進めたことが、予測と違って悪い方向だったということも少なくありませんでした。
 思うようにならないから、おもしろいとも言えます。

朝日新聞連載小説 『それから』第13回

 「大助」と、彼の父親との話は言い争いにさえなりません。お互いの言葉がぶつかり合わないのです。
 父である「長井」は、誠実と熱心が生きていく上で大切だと「大助」に説教します。
 「大助」も、誠実と熱心の大切さは認めています。
 ただ「長井」にとっての誠実と熱心は、どの時代でもどんな場合でも変わらないものとしてとらえられています。
 「大助」にとっての「誠実と熱心」は、次のようなものです。

自分の有する性質というよりはむしろ精神の交換作用である。


これでは、言葉は同じでも、議論はかみ合いません。

 さて、私も「誠実と熱心」の「熱心」について考えてみました。
 「仕事に熱心に取り組む」というときに、「仕事」の内容が問題になります。自分がやりたかった仕事であり、やりがいを感じる場合があります。一方、金を得るための仕事であり、ノルマとしてやる場合があります。
 前者は価値のある「熱心」であり、後者は「熱心」というよりは、忍耐というべきです。 だからと言って、「大助」のように考えることもできません。
 生計を立てるために仕事に就き、その仕事に就いたからには、手を抜かずに続ける「熱心」は、現代でも価値があると思います。

 私が「長井」の立場かと言うと、そうではありません。どちらに近いかと問われれば、「大助」に近いことを感じます。


朝日新聞連載小説 『春に散る』第16回  
 「広岡」は、突然に激しい体の変化に襲われていました。 
 やはり、前触れなしの重病のようです。 小説の先のことを予想しつつ読んでいたのが我ながら分かりました。予想は、当たるばかりでも楽しくないし、かと言って思わぬ展開ばかりでは、荒唐無稽のストーリーになってしまいます。

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朝日新聞連載小説 『それから』 夏目漱石 第12回   「大助」は、今の自分を次のように見ています。 大助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業のために汚されない内容の多い時間を有する上等人間と自分を考えている。  「大助」のように、金の心配をしなくてもよいというわけにはいきませんが、職業のために時間を割かなくてもよい暮らしに、私もなっています。そうなってみると、自由になった時間に何をしようかということを考えます。私なりにそれを見つけていますが、今の自分が「内容の多い時間」を過ごしているかどうかは、自信がありません。さらに、「上等人間」と、思ったこともありません。    主人公が、こんな風に自分を見ることができるのは、羨ましいくらいです。そして、この思いはどこから湧いて出ているのか、疑問に思いました。 クリックをお願いします。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

朝日新聞連載小説 『春に散る』第15回  新しい章に入りました。今回の最後の文に次のようにあります。 自分は正真正銘の病人だったからだ。  「広岡」は、チャンピオンへの夢を果たせなかった元ボクサーでした。  また、医師から車の運転を止められていました。ここから、私はボクシングの後遺症があるのだろうと思っていました。が、この文からは、もっと深刻な病気を患っているような気がします。 クリックをお願いします。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ   続きを読む

朝日新聞連載小説 『それから』 夏目漱石 第11回   「大助」にとって、彼の父親はまるで別世界に住む人のようだったことが分かります。「父」の言動でいちばん応えることを、次のようにいっています。 自分の青年時代と、大助の現今とを混同して、両方とも大した変わりはないと信じていること。  この感じ方は、今もあてはまります。例えば、私たちの世代が自分たちの親の世代について話すときに、同じようなことが愚痴として、よく出てきます。  なぜ、こんなにも似ているのか、不思議なほどです。 クリックをお願いします。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ 続きを読む

朝日新聞連載小説 『春に散る』第14回  「広岡」が有望なボクサーであったこと。だが、世界チャンピオンになる夢を果たせなかったことがだんだんに明らかになってきました。  「広岡」は、現役のころにあるトレナーから次のように言われました。 「君は普通のチャンピオンになれるかもしれない。しかし、私はチャンピオンの中のチャンピオンになれるボクサーしか教えるつもりはないんだよ。」  有望と言われている現役のボクサーが、トレナーからこう言われたら、ショックを受けるでしょう。でも、一人のトレナーのこの一言がどれほどの影響力をもったのかは、この回だけでは分かりませんでした。 クリックをお願いします。にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

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