朝日新聞連載小説 『春に散る』沢木耕太郎 4月9日分
テレビ中継のボクシングの場面で次のような文章がありました。
すると、それが偶然、カウンターのようになり、ミラーの顔にヒットした。
圧倒的に優勢な「ミラー」に対して、ガード一方で逃げ回るような「ナカニシ」の一瞬のパンチでした。
大きくて圧倒的なものを目にすると、それに逆らうような小さな動きを見逃すのが普通でしょう。でも、大多数が従う大きな流れだけを見ていては何かを見失うのも確かだと思います。
少数派、異端の動き、それがないと、世の中おもしろさもなくなるのでしょう。
読んでいただきありがとうございます。
言うのは簡単ですが、少数派を貫くのは実際には大変なことですね。
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2015年04月
「しんみり」 『それから』 夏目漱石
朝日新聞連載小説『それから』 平成27年4月7日分
久しぶりに会った親友なのに、「大助」と「平岡」の会話はなんとなくはずみません。
話の具合が何だか故(もと)のようにしんみりしない。
「しんみりしない」という語句が、このようにつかえるのだと気づかされました。
小説の本筋から離れますが、「大助」の暮らしぶりは、私には想像すら難しいものです。本人には収入がないのに、一軒の家を持ち、婆さんと書生とはいえ、使用人を二人置いています。 当時の上流階級の暮らしぶりとして当たり前なのでしょうが、現代のお金持ちの生活ぶりとも違うと感じます。「大助」のような生活ができるのは、何代も続いた上流資産家の生まれだからなのでしょう。
この時代の日本が相当の格差社会だったことが背景にあると感じました。
「大助」は大学などに行っているわけでもなく、そうかといって遊び暮らしているのでもありません。現代ではこういう生活はちょっと考えられません。
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偶然は、ドラマの中だけか? 『春に散る』 沢木耕太郎
朝日新聞連載小説 『春に散る』沢木耕太郎 4月6日分
「広岡」の視点から、その場所の様子が、次のように書かれています。
街にはあまり人通りがない。それでも扉を開け放ったパブからは音楽に合わせてがなり立てる観光客たちの歌声が聞こえてきたりする。それが逆に、人のいない観光地のわびしさを感じさせる。
通りを行く人々の様子、聞こえて来る音、見えている建物、それらを一度に思い浮かべることができます。沢木耕太郎の文章はすごいものです。「人のいない観光地のわびしさ」が、伝わってきました。
朝日新聞連載小説 『春に散る』沢木耕太郎 4月7日分
「広岡」は、バーに入ります。そこのテレビでは、ボクシングの試合が流されていました。
ボクシングは見たくない。
「広岡」は、元ボクサーなのか、と思いました。ボクサーとしての過去に嫌な思い出があるのでしょうか。医者に運転を止められているというのも、ボクシングの後遺症なんでしょうか。
朝日新聞連載小説 『春に散る』沢木耕太郎 4月8日分
偶然に起こったことがその後の人生を変える。ドラマの中でよくあることです。
私の場合で、実際に何かの偶然が自分の人生を変えたということがあったでしょうか。そんなことは現実にはほとんどない、と思いました。
でも、少し考えてみると、現実の人生は、全て偶然に起こったことに左右されてきたのではないか、という気もします。
思った通り、計算した通りには、物事は進みません。でも、出来事の結果は、偶然だけでなく、自分の意思と意図が入ってきたのでしょう。
そして、年を取ると、だんだん偶然の力を強く感じるようになるのは、私だけなのでしょうか。
この小説では、偶然に目にしたボクシングの試合中継が、これからの鍵になりそうです。
読んでいただきありがとうございます。
この連載、おもしろくなってきました。
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気取ったって 『吉里吉里人』 井上ひさし
ブログは、誰かが読んでくれるから、かっこいい文章を書きたいと思ってしまいます。かっこつけたってしょうがないというのは分かっているのですけど。
この小説は、笑いを狙っているので、変でかっこわるい書き表し方がいっぱい出てきます。
「橋本」は、おかしな表現にかけては、底なしです。
竹輪の穴のようなトンネルを抜けると、そこは北国だった。
彼と彼女は即席ラーメンが出来あがるぐらいの間、じっと見つめあっていた。
普通は使わない直喩でしょう。でも、トンネルの比喩として「竹輪」はある意味、ぴったりだと思います。また、「即席ラーメンが出来上がるぐらいの時間」というのも、実際の生活では、よく感じる時間だと思います。3分間も見つめあうとしたら、よほどこの二人は惹かれあっていたのでしょう。
変でおかしな表現と、多くの人が感心するようなうまい表現とは、紙一重だという気がしてきました。
とにかく、私のような素人は、どこかで覚えてきたうまい表現を、自分の文章につかわないにこしたことはありません。
読んでいただきありがとうございます。
『吉里吉里人』の主人公は徹底してだめな作家に描かれています。でもそこには物書きの気持ちもずいぶんと描かれていると感じます。
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旅先で選ぶ食事の場所 『春に散る』 沢木耕太郎
朝日新聞連載小説 『春に散る』沢木耕太郎 4月5日分
旅先で食べる場所を選ぶのは、楽しみでもありますが、面倒くさくもあります。ガイドブックに載っているようなレストランや名店を選ぶほど食通ではありません。地元の人たちがなじみにしているような気取りのない所がよいのですが、そういう所を見つけるのは難しいものです。
そこで、駅前のごく普通の食堂に行き当たりばったりで入ることが多いのです。そうすると、味も雰囲気もどこにでもあるごく普通のものなのでした。でも、それはそれでよいとも言えます。
簡易スタンドがレストランになったようなメキシコ料理の店
「広岡」は、そんな店を選んでいます。
どこで、どんなものを食べるか。人の考え方、生き方がそこにも表れるものなのです。
例えば、「蕎麦はあの店以外では喰わない。」などと自慢げにいう人とは付き合いたくありません。
読んでいただきありがとうございます。
「広岡」は、なんだかカッコいい人物ですね。
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おまえの頭は牛の脳みそで一杯だ 『それから』 夏目漱石
朝日新聞連載小説『それから』 平成27年4月6日分
「大助」は、書生の「門野」のことをずいぶんと見下しています。
大助から見ると、この青年の頭は、牛の脳味噌で一杯詰まっているとしか考えられないのである。
「門野」のことを見下している理由は次のようなことです。話が込み入ってくると理解が遅い、論理的なことになるとまるでついて来られない、さらに神経に細やかな所がない、とこき下ろしています。
一方で、「大助」自身のことは、
細緻な思索力と鋭敏なる感応性
の持ち主である、としているようです。
これが当てはまるとしても、「大助」という主人公は、なんとも高慢でいやな奴です。
ところで、私は、自分の頭に牛の脳みそが詰まっているとは考えたくありません。込み入った話にもついていけると思っています。だからと言って、自分のことを、細緻な思索力と鋭敏なる感応性の持ち主とも思いません。
だが、思索力や感応性がないか、というとそう思いたくありません。いや、人よりはものを深く考える、人よりは少しだけ鋭い感性をもっている、と思いたいのです。思いたいだけでなく、実は自信がある……ような気もしてきます。
他の人を軽蔑するようなことを言ってはいけない。自惚れてはいけない。そういう風に、常識としてもっているだけで、内心では、「大助」に近いか、「門野」に近いか、と言われると、断然「大助」に近いのでしょう。
連載を読んだだけでは、主人公を嫌なやつと思いましたが、感想を書いてみると、自己を振り返ることになってしまいました。
読んでいただきありがとうございます。
毎日感想を書くと、読んだだけとは違うようです。
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ホテルのチェックイン 『春に散る』沢木耕太郎
朝日新聞連載小説 『春に散る』沢木耕太郎 4月4日分
旅行にしばらく行っていないので、ホテルに泊まることも数年ありません。
旅行に出かけていたころは、ホテルへのチェックインのときには何か特別な気分になるものでした。普通のビジネスホテルと知っていても、そのホテルの雰囲気やその宿泊地の特徴などが伝わってくる場合もありました。また、部屋のドアを開け、室内に入るときも、初めて訪れた駅に降り立つ気分にも似ていました。
この回で、主人公の名前が分かります。「広岡仁一」、アメリカにいる日本人です。英語に不自由はなさそうで、経済的にも不安はないようです。
荷物は柔らかそうな革でできた古いボストンバッグ型のものがひとつだけだった。
このように、「広岡」の様子が描かれています。
男が短い旅行でもキャリー付きのバッグを持つようになったのはいつ頃からでしょうか。バッグをひとつだけ、しかも古い。やっぱりそうでなくちゃ。
私も古いものを大切に使おう。
服装や持ち物の描写で、登場人物のイメージが作られていくのですね。
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しばらく旅行にも行っていない 『春に散る』沢木耕太郎
朝日新聞連載小説 『春に散る』沢木耕太郎 4月3日分
私は、もう数年旅行に行っていません。旅行に出られないわけがあって、毎日外には出るが、自宅を離れることをしない生活が続いていました。
旅先での出来事がこの回に出ていますが、なんだか、私も旅行に行きたくたりました。
主人公の目的地は、アメリカの最南端の地のようです。そこは、仕事で行くような場所ではなく、かと言って賑わっている観光地でもないようです。主人公は、その地の数少ない名所が目的でもないようです。
さびれた雰囲気の観光地へ、他の人は使わないタクシーで向かう「男」、その場所に何か思い出でもあるのでしょうか。
読んでいただきありがとうございます。
毎日の連載は、作者には大変でしょうね。毎日の感想は楽しいです。
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デジタルはダメだ
『ダ・ヴィンチ』2015MAY 「特別対談 北野武×荒木経惟」
写真と映画のフィルムの良さを、北野武と荒木経惟が話していました。
フィルムは、昔のように盛んに使われることはもうないと思います。でも、フィルムカメラでの撮影、プリントと、フィルムによる映画上映を、なくしてはならないと思いました。
フィルムを使うと味わいや懐かしさが増すというだけではないことが分かりました。フィルムを介した映像は、デジタルとは異なる原理で、人間にものを見せるということが、対談の中で強調されていました。
どちらも、名前が「カメラ」でも、フィルムカメラとデジタルカメラは、別の物ととらえるなら、どちらを選ぶかということではないでしょう。
私は、フィルムカメラを持っていますが、めったに使いません。現像、焼き付けを自分でできないのが、弱みになっています。でも、フィルムが手に入るうちに少しでも撮っておこう、と思わされました。
この対談を読んで、もうひとつ、おもしろかったことがあります。
俺もきっとフィルムと同時に消えていくんじゃないの。 荒木経惟
いいジジィだな、いい顔のジジィになったって言われたいなって。 北野武
こんな風に、ジジィを自覚して、消えていくことを認めながら、生気に溢れているところが、いいと思いました。
読んでいただきありがとうございます。
最近はレコードも見直されていますね。ジジィのこともおおいに見直してほしいところですね。
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泉ピン子と大泉洋の共通項
TV番組 「ハナタレナックス」「サワコの朝」
大泉洋は、NHKの朝ドラマでダメな父親を演じています。大口ばかりたたいて、さっぱり実行できない、それでいてどこか憎めない所を持っている、そういう役を演じたらピッタリの役者だと思います。
泉ピン子は、言うまでもなく、イジワルな女を演じたらピカイチの役者でしょう。
その二人を、それぞれ違うトーク番組で視聴して気づきました。
二人とも、見てきたことを、おもしろく話す能力が抜群に高いということです。
泉ピン子は、芸能界に入ったきっかけを、芸人さんたちに「見てきたことをうまく話すおもしろい娘(こ)だ。」と言われたことにあったと、話していました。
大泉洋は、ナックスのメンバーに、自分の周囲にいたおもしろ人間のエピソードを、熱弁と言える勢いで紹介していました。おそらくこの話は何度も聞いたことのあるはずのナックスのメンバーは爆笑していました。視聴者がおもしろくないはずはありません。
見たこと、経験したことを、おもしろく伝えられる才能って、すごいことなんだと思いました。
読んでいただきありがとうございます。
ブログの記事も、おもしろさが伝えられたらと思いますね。そのためには、まずは筆者がおもしろく感じることでしょうね。
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