2015年05月

 正岡子規の『病床六尺』を読み終えました。
 この作品は、明治35年(1902)に、新聞に連載されていました。今連載を読み続けている夏目漱石の『それから』は、明治42年(1909)に連載されたものが、106年ぶりに再連載されています。3月に読んだ浅田次郎の『赤猫異聞』は、明治時代に活躍している人たちが、江戸から明治にかけての混乱期にあった事件を回想するという設定になっていました。
 たまたまですが、江戸時代から明治時代にかけてが、作品の背景にあるものを読んでいることになりました。
 明治維新というと、いろいろな制度が大変換したととらえていました。しかし、その当時の日本に生きている人々は入れ替わったわけではないのです。多くの人々が、この二つの時代をまたいで生きていたことを改めて思いました。

 姜尚中の『オモニ』を読み始めました。これは、太平洋戦争の前後が小説の背景になっています。第二次世界大戦の前後も、日本は大転換をしたと受け止めています。私たちは、戦後の生まれなので、戦前を生きた人たちに育てられてきたのです。しかし、私自身は太平洋戦争を経験した人たちが、戦中の話や戦後の混乱期について語るのを聞いたことはありますが、戦前のことはあまり聞いたことがありません。
 人々が、そして、一人の人がそれもごく普通の生活を送っていた人が、戦前の生き方を、戦後どう変化させたのかに興味を感じます。そして、変化させずに残り続けたものもきっとあるのだろうとも思います。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第51回
 さんざん怪しまれてきた「広岡」は、今度は逆の印象を持たれたようです。
 金も信用もなさそうな初老の男の実態が、有名ホテルに滞在していて、有力な人の知り合いであったという逆転、落差が描かれています。

 私は、このような見た目と実態の落差を感じられた経験がありません。見た目も内実も、フツウの老いた男です。
 あーあ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第37回
 「代助」は、はっきりしない性格を与えられていると思います。考えが先回りばかりして、さっぱり行動に移しません。
 ところが、なんとも豊かな才能を与えられた人物です。英語を楽に話すことが出来ます。書物は内外のものを問わず、深く理解できます。絵画、美術にも知識があり、そのうえ、ピアノを易々と弾きます。家柄に恵まれ、食べていくのになんの苦労もない境遇です。
 だが、父親や兄から望まれるようなこと、つまり、家柄にふさわしい職に就いて持っている才能を発揮するようなことは一切しません。

 当時の日本で、働くにふさわしい環境にある男性に求められていたことは、家族のため、社会のため、国のために、懸命に働くことなのでしょう。そして、当時の日本の指導者層が目指していたことは、産業を発展させて、欧米列強に負けないような国家をつくることだったのでしょう。
 そのような当時の日本の読者は、「代助」を、どう受けとっていたのでしょうか。気にかかります。

『病床六尺』 正岡子規
 『病床六尺』が、新聞連載の百回目を迎えたことが書かれていました。私は、この文章が新聞に連載されていたことを知らずに読んでいました。
「病床六尺」が百に満ちた。一日一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが余にとつては十年も過ぎたような感じがするのである。
 子規は、日記として『病床六尺』を書いていたと思っていましたが、違っていました。しかし、新聞連載であったということを知って、今までいろいろ感じていたことに納得がいきました。
 読者を常に意識した文章であったと思います。それは、読者に迎合するという意味合いでは全くありません。むしろ、時代が違うとはいえ、反論や批判が出そうなことも堂々と主張されていると感じます。読者がいて、締め切りがあるということは、健康な書き手にとっても、負担になることでしょう。
 子規にとっては、執筆を続けることが辛い日も多くあったことが伝わってきます。しかし、それよりも、表現することに生き甲斐を見いだしていたのだと思います。正岡子規の表現への意欲と喜びを感じます。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第36回
 「三千代」のことが、詳しく書かれています。
 「代助」は、知り合った初めから「三千代」のことは気になっていたことが分かります。それなのに、「平岡」と「三千代」の結婚には一役買っているようです。
 「代助」は、深く考えるのに、それを行動に表さない人物だということが伝わってきます。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第35回
 前回で、「代助」の理論に考えさせられました。今回は、そんな深い理論と違う面を見せています。個性的な感覚を、自分で持て余しているような「代助」が描かれています。
 そして、彼の心の奥底には、「平岡」との議論よりも、「三千代」のことがあるようです。

 漱石は、この新聞連載小説に、当時の日本が持つ問題を、かなり意図的に織り込んでいるように思えてきました。

朝日新聞2015/5/19 インタビュー記事 『インタビュー 歴史の巨大な曲がり角』 見田宗介
 見田宗介は、インタビューに次のように答えています。
近代社会は「未来の成長のために現在の生を手段化する」という生き方を人々に強いてきました。成長至上主義から脱して初めて、人は「現在」という時間がいかに充実し、輝きに満ちているかを実感できるのではないか

 私が知っている人たちは年を取り、生まれてくる子どもの数は少ないのがよく分かります。近所では、お年寄りのひとり暮らしが増え、それに伴って空き家が増えています。空き家が壊されても新しい家が建たずに、売り地の看板が立ったままになっている所もあります。
 郊外にドライブに出ると、農作地が減り、かつては水田だったところが草に覆われています。町に入り、その町の駅前通りが廃墟のような様子になっているのを見ても驚かなくなりました。
 村おこし、町おこしの活動は、しばらく経つと、その活動の担い手であった若かった人たちの後継者が不足し始めているようです。
 私の近所や、地域では、昭和30年代から40年代頃のような成長発展は、もうないと感じます。
 発展のない地域で、増えることのない収入で、若い人のいない中で、生きていくしかありません。
 それには、新しくて広い住居を持つ、より高価なものをたくさん食べる、大きくて性能の高い車と便利で新しい物をたくさん持つ、日本の経済をよくすることを考えて消費し貯蓄もする、などを目指さないことです。最近は、エコとか、断捨離とかいって、新しい物を買うことに後ろめたさを感じるようになってきています。でも、もし機会があれば、より便利な住居に住む、よりおいしいものを食べる、こういうことに慣れ親しんでいます。その感覚を完全に捨て去ることはできないかもしれません。
 でも、現実はそういう成長発展はもう終わったことを見せてくれています。
 家が古くなれば、古くなったなりの住み方を工夫する。空き地が増えれば、その空き地の草木を眺めて楽しむ。少数者となった若い人たちのことを、考えて暮らす。今や人口の割合の中で多数者となった私には、そのような生活の仕方があると感じました。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第49回
 「広岡」は、不動産屋の店主にますます怪しまれます。
 小説の中でなくても、次のようなことのいくつかが当てはまるとどうなるでしょうか。
 定職に就いていない。家族と同居していない。携帯スマホを持っていない。携帯スマホはあるが固定電話を持っていない。運転免許証や健康保険証を持っていない。今は一時的にそうなっているとしても、このうちのいくつかが当てはまると、今の日本の社会では、なんの信用も得られないでしょう。
 頻繁に利用している金融機関で、窓口の係と顔見知りであっても、カードや通帳がなければ、何もできません。
 過去にどのような経歴があっても、現在を証明するカード類を示さなければ現住所さえ信じてもらえません。
 逆にいうと、身分を証明するカードと、パスワードを知っていれば、本人とみなされるのです。
 そして、そういうシステムをおかしいと感じないで受けいれてしまっています。これは、まちがいだと思いました。

朝日新聞2015/5/19 インタビュー記事 『インタビュー 歴史の巨大な曲がり角』 見田宗介
 平成生まれの人と話す機会は多くありませんが、その機会は増えてきました。この記事で言われているように、平成生まれの人たちと、その少し前に生まれた我々の子ども世代「団塊ジュニア」との間に、はっきりとした違いを感じることはありません。違いが感じられないというよりは、今の20、30歳代の人たちに、「世代の特徴」とか「価値観の違い」という考え方が通用しません。
 職業や仕事について、若い人と話すことがあります。実際には50年間ほど離れているわけですが、その間に戦争や政治体制の大変化はありませんでした。しかし、我々「団塊の世代」が経験してきたような「会社選び」が、今の若い人たちの「就活」と、共通するものがほとんどないことに気づかされます。国公立の4年生の大学を出て大手の会社に就職するか公務員になれば、その先は程度の差こそあれ安定したものになる、などという考え方は、完全に昔話になりました。
 私が持っていたような考えは過去のものであるし、それが良かったとは思いません。では、現代の「就活」を、どう考えればよいかというと、どうも掴み所がない、というより他はないのです。
 若い人たちに、昔との違いをどう感じるか、と問いかけても、首を傾げられるばかりです。その人たちに向かって、「世代が違うから過去のことは参考にならないね。」「右肩あがりの時代とは価値観が違うんだね。」などと言っても、彼らはますます首を傾げました。

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