本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2015年07月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第111回2015/7/23

 「夢」という語が、将来実現したい願いや理想の意味で使われるようになったのは比較的新しい、という分析を読んだことがある。
 私は、「夢」を願いや理想の意味で使うのは今でも抵抗がある。「夢」とは寝ている間に見る幻想、という意味の方を強く思い浮かべてしまうからだ。
 最近は、夢の実現が人の幸福につながるだけでなく、実生活の安定につながるという捉え方をしている例を見聞きすることが多い。しかし、夢の実現と実生活上の安定は無関係だと思う。
 金銭的な富を得たい、という夢を実現したときだけが、実生活上の経済的な安定につながる。その他の夢が、成功や安定につながるというのは、それこそ「夢」だと思う。
 その意味で、「佐瀬」は、「夢」を実現させたのだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第78回2015/7/22

 「代助」の意図が分からない。
 「平岡」とは、肝心の話はできなかった。しかし、もし「代助」の思うように話が進んだらどうなるのか。
 「平岡」が妻に気を配るようになって、今よりも妻に優しくなったとしよう。そうすると、「三千代」が今困っていることは、解消する。そして、毎日淋しい思いをしないで済むようになる。つまり、彼女はそれなりに安定した結婚生活を送れるようになるであろう。
 そうなると、「代助」は「三千代」を「気の毒」に思わなくてもよいようになる。そうなることが「代助」の意図なのだろう。
 これは、理屈で考えるような気持ちではないのかもしれない。愛する女性が困っているのだから、純粋に彼女を助けたいという気持ちだと言われそうな気もする。
 しかし、どんな場合でも理詰めにする「代助」のことだから、読者としてもつい理詰めで考えてしまう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第110回2015/7/22

 「広岡」は、日本に帰って来て、今までに明るい話題に巡り会っていない。幸せな暮らしをしているだろうと期待をしていた「佐瀬」の様子にも、少しの明るさも感じられない。
 しかし、刑務所で「藤原」と面会し、すっかり老け込んだ「佐瀬」を目の前にしても、「広岡」が落胆している気配はない。
 それは、日本のジムでの生活に理由があるのではないか。プロボクサーを目指して練習に励んでいた頃、またプロの試合に出始めた頃は、若かったし、将来への夢もあった。そして、何よりも仲間がいた。ただし、その頃の生活が決して楽なものではなかったはずだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第77回2015/7/21

必竟は、三千代が嫁ぐ前、既に自分に嫁いでいたのも同じ事だと考え詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。

 結婚する以前に、「三千代」は「代助」を深く愛していた。ところが、「代助」の「三千代」への愛は、「平岡」との結婚を阻止するほどに強いものではなかった。強い弱いというよりは、結婚という形式へ発展しない愛情だったようだ。
 だが、「三千代」の方はそうではなかった。彼女は「代助」への愛情を結婚へ結びつけたかった。そういう気持ちがありながら、「平岡」との結婚を彼女も拒否しなかったのは、当時の女性としては珍しいものではなかったのであろう。
 「代助」は、今になってその事を理解した。だから、「堪えがたき重いものを」感じているのだと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第109回2015/7/21

「生きてたか」

 このせりふがおおげさでない場合がある。混乱の世相や時代の場合。もうひとつは、年齢。今の日本は、時代は安定しているが、年齢的にはこのせりふが当てはまる人は多い。
 特に私の年齢の男性は、数年と言わず久しぶりに会うと、このせりふがふさわしい。最近は、葬儀も家族葬だったり、それどころか全くしない場合もあるだけに。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第76回2015/7/20

 「代助」は、「三千代」を「気の毒に思った。」と改めて自覚している。「気の毒に思った。」と4回重ねて書かれている。
 結婚する前の「三千代」を好きだった。しかし、友人と彼女の結婚を止めることはしなかった。
 今、彼女に感じている愛情は、彼女が辛い結婚生活を送っているからこそのものだと自覚している。

 「代助」は世の中の習慣や道徳に縛られることなく、自己の感性に従って行動する人物だ。だが、感情のままに行動してはばからない人物ではない。感情に従うが、その感情がどこから湧き上がるかを、理性で突き止めなければすまないのだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第108回2015/7/20

 「佐瀬」にはまだ会っていない。だが、農村地帯で、農業をやっていないというのはただ事ではない。どうも今までの様子では、「佐瀬」は、かなり肩身の狭い暮らしをしているのではないか。
 そういう意味では、都会の味気ない人間関係は、うまくいっていない場合には気楽な面もある。人間関係が濃い場所では、失敗者の烙印がつくとかなり辛い思いをしなければならないだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第107回2015/7/19

 私の住んでいる地域から車なら気軽に行ける所に知り合いの農家がある。そこに行くと、とにかく新鮮で安心な米と野菜を分けてもらえるので、よく行く。
 そこは、山間部でも、交通の便の悪い地域でもない。ただ、農村地帯なので、人は少ないというだけで、都市部から隔絶されたという雰囲気はない。
 ただし、人付き合いはまるで違う。そこに住む方は、お互いにその地域の全戸の事を知っている。もちろん、詳しい家族構成も頭に入っている。それどころか、その地域の人の事は、何代か前に遡ることもできるようだ。
 私は、何十年と変わらないお隣さんの家族構成すら詳しくは知らない。
 今の日本では、人口で比べるならば、私のような都市部の人間関係が多数派だろう。しかし、面積で比べるならば、農村、漁村などのような人間関係をもつ地域の方が多いのではないか。少なくとも、北海道では互いの事は知りたくなくても分かってしまうような人口構成になっている地域の方が、面積は圧倒的に広い。

「あんたさんは借金取りかな」

 「佐瀬」の所に借金取りが頻繁に来ることが、その地域では知れ渡っているのか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第106回2015/7/18

 「広岡」と一緒に短い列車の旅をした気分だ。
 車窓からの風景を描くだけでなく、そこに住む人の暮らしを考える。車内の乗客の様子を眺め、駅弁を食べ、そこから移りゆく風景へとまた戻って行く。
 こういう文章表現を味わうのは、『春に散る』を読む楽しみの一つだ。

さてどうしよう。

 「広岡」に何が起こるか、楽しみだ。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第75回2015/7/17

 「三千代」は結婚前も、結婚後も「代助」を好きだったことが、彼女の何気ない行動や言葉から伝わって来る。
 そして、「代助」は、「三千代」への「平岡」の態度に、嫌悪感を強めていることが分かる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第105回2015/7/17

それは何にも代えがたい日本という国の豊かさのようにも思える。
 
 私もそう思う。テレビや新聞で、外国の映像を毎日のように見る。しかし、日本ほど、森の木々と水田とそれを支える川や湖の風景が、人々の生活の身近にある所はないようだ。自然の恵みを受けつつ、人間の工夫を重ねていく所に日本の特徴があると思う。
 経済力や工業力は、常に変動し、日本はその面では外国に抜かれることが多くなった。一方、自然と結びついた人の暮らしは、そう簡単に変化するものではない。地形や自然環境は、人工的に破壊しない限りはごくわずかな変化で、そこに存在し続ける。
 現在も、水に恵まれ、山林に恵まれ、水田の続く光景を容易に見ることができる。そして、その光景は美しい。
 しかし、農業は後継者が不足し、日本中であえいでいる。さらに、日本人が米を食べる割合は減るばかりだ。林業を中心とする地域は人口の減少どころか、地域そのものが消滅する所もあると聞く。
 それはなぜなのか。日本人が、「心の豊かさ」を失っているからだという議論もある。それだけではないと感じる。
 「国の豊かさ」とは、経済力や工業力やましてや軍事力などではない。「日本という国の豊かさ」は、水田の美しさに表れてくるような「豊かさ」なのだ、という考えが広まらない限り、「日本という国の豊かさ」は消えていくと感じる。
 
 「佐瀬」は、「広岡」が思っているような暮らしをしていないような気がする。現実の農村の生活は、苦労が多いのではないか。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第74回2015/7/16

 ここまで『それから』を読んで、「代助」が自分では全く働かないで平気なことに、反感を持ち続けていた。しかし、ここ数回で気持ちが変化した。
 必死で働かなくては生計が成り立たないようでは、「代助」のように感じ、考えることはできないと思うようになった。感性を磨き、洋書を読み、人間の心理を考察するような生活は、資産と時間に十分な余裕がなければ、成立しないのであろう。「代助」のような境遇が与えられて、はじめて「代助」のように思索できるのだと感じる。

 赤坂の女の件は、現代ではそれほど驚くようなことではない。しかし、100年前にこういう女性の心理に目を付けた作者の先見性は驚くべき事だ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第104回2015/7/16

 駅弁。「広岡」が選んだのは、車海老と秋刀魚の弁当だった。きっと売れ筋の名物弁当ではないだろう。
 彼が思っているように、シーズンでなくても秋刀魚を食べることができる。今は、ほとんどの食材がそうなっている。これは、便利だが、食が豊かになったとは言えない。産地で旬の物を食べるのが本当の豊かさだろう。

 車内の初老の男性グループ。いろいろな場所で、老人の男性グループをよく見かけるようになった。私もその年齢だ。私は、一緒に行動する仲間がいないので、グループで動くことはない。
 「すでにそれぞれの仕事をリタイアーし、老後の人生を楽しむ」の中に私も含まれる。だが、そういう人たちを見かけても、好意を持てない。なぜそうなのか、自分でもよく分からないが、老人の男性グループが他の年代の人よりも楽しそうにしているのは、何かぞっとしない。

 「広岡」は、こういうグループの人たちと自分との違いを感じていた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第73回2015/7/15

 「代助」は、「父」に共感することも同意することもできない。そして、「父」よりも自分の方が理屈にかなっていると確信している。
 ところが、理屈で「父」を説き伏せることは不可能だと、結論づけている。
 「代助」は、「父」が勧めることに従うことはできない。従わないだけでなく、話し合って妥協点を見つけることさえもできない。そう考えると、「父」との「絶縁」しか残された道はない。
 そして、その「絶縁」を避けようという気持ちはそれほど強くないようだ。
 親子の「絶縁」は、「苦痛」ではないが、そうすると、経済的な援助がなくなる。これは、「代助」には是非とも避けたいことだ。
 要するに、親の口出しはいらないが、親の金は欲しい、ということだろう。

 こういう親子間の軋轢は、現代にも無数にあると感じた。
 明治、大正、昭和、平成、時代が進むに連れて、顕在化する親子の関係を、既に描いているということなのだろうか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第103回2015/7/15

停車している車両はどれもカラフルだった。

 国鉄の時代を知っているだけに、最近の列車のカラフルなのには驚かされることがある。鉄道が物流の大動脈と呼ばれて、石炭や木材、そして溢れる人々を運んでいた時代があった。その頃は、車両の色は全国どれも似たような色で、蒸気機関車は他の色になりようがなかった。地味な色で、快適さやサービスを売りにしなかった時期に、鉄道は花形の存在だった。
 今は、様々に宣伝され、車両はカラフルに塗られている。しかし、イベントが終わると、大部分の地方線は乗客が減り、ついには廃線になっていく。マニアやファンや観光客に支えられて、美しい風景の一部になることは、鉄道にとって悪いことではないが、鉄道が本来の役割を終えたことも意味すると思う。

 この作品で何度目かの移動の場面になった。車窓風景や列車にまつわる事で、作者は何を取り上げていくのだろうか、楽しみだ。

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