2015年09月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第178回2015/9/30

 私の感想と、広岡の感じたことは真逆のものだった。


そこで広岡が言い淀むと、真田が試すような口調で訊ねた。

 今回の広岡は訊ねられたことに非常に明確に答えている。真田の話をすぐに理解したのだろう。
 三度読んだということは、三度考えた、いや三度以上考えたということでもあると思う。


 私は、『老人と海』を何度か読んだ。映画も数度観た。20歳代と60歳代では、その感想が全く違っていたことを思い出した。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第7回2015/9/29

 宗助の日曜の夕方の気分がよくわかる。
 次の休日には、あれをしようと思いながら、いざ当日になると、なかなかそれを実行できなかったことが、私にもよくあった。そして、そのことはなんとなく怠惰の証拠のように思えて、自分で認めたくなかった。そんな気持ちも含めて、終わろうとしている日曜日の気分になった。

 この夫婦と弟の様子からは、平凡で穏やかな日常が感じられる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第177回2015/9/29

 前回の私の予想は外れた。

こうしてジャックは試合に負けることによってめでたく五万ドルの賭けに勝つことになるのだ。

 試合の途中で、相手を倒せる戦略を見つけ、それを実行して勝つ。しかも、その戦略は、自分に大きなダメージを与えた相手のやり口に学んだものだった。
 実力が拮抗した者同士のボクシングの試合は、カウンターパンチのように、勝敗が紙一重で決まる。そこに、醍醐味もある。
 ジャックのやったことは、賭け金のための八百長と反則を抜きにすれば、ボクシングの最高の戦い方と共通していると、私は感じた。
 もう一つ思ったことがある。ジャックは、反則負けだ。しかし、ジャックのうちでは、相手の反則負けを見事に封じて、掛け金を手に入れたのだから、勝者になる。
 勝負には、表面的な勝敗と、内実の勝敗があると感じた。

 広岡は、どんな感想を書くのだろうか。

 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第6回2015/9/28

 日曜も夕方となってしまい、明日からの勤めを思うと、つまらなく感じている。そんな宗助の気分を読むと、私も、若いころの自分を思い出してしまう。仕事に慣れたが、同時にだんだんと先も見えてきた年代のころの気分に特に近い。
 勤め人でなくなって、何年も経ってしまった私には、少し懐かしい気さえした。

 明治時代の宗助と私が経験した感覚がこんなに近いのが、不思議なほどだ。
 一方で、夫婦二人の暮らしで、高給取りには見えないのに、女中と呼んでよいのか、家事をする使用人がいるところは、私の経験では考えられない。
 
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第176回2015/9/28

 試合で勝者になれば、チャンピオンの座を守ることができ、今後もボクサーとして活動できる。だが、賭けでは敗者になる。試合で敗者になれば、チャンピオンの座を奪われて、世間からも冷たく扱われるだろう。だが、賭けに勝ち、大金を得ることができる。
 年齢や体力的に限界が近いボクサーにとってみれば、チャンピオンの座にしがみつくことよりも、その後の生活の安定のために現金を手にする方を選ぶのが、得な選択だ。
 しかし、ボクサーとしてのプライドは確実に傷つく。ボクサーとしてだけでなく、人としての生き方を自ら傷つけることになる。ジャックだけでなく、こういう立場に立たされた人が、この精神的なダメージに耐えることができるのだろうか。
 このヘミングウェイの小説の試合の流れからいくと、相手のウォルコットと暗黒街の賭け屋の企みを利用して、ジャックが反則負けになりそうだ。暗黒街の賭けだから、選手本人が賭けることも可能なのかもしれないが、それよりは、暗黒街の賭けだからすんなりとは大金を渡さないことの方がありそうだ。

 ジャックには、試合に勝ちプライドを守るという選択肢はない。それを最初から捨てて、試合に臨んでいる。しかし、金のためとはいえ、ジャックには相手のローブロウに耐えるだけのボクサーとしての体力と技術と精神力が残っていた。それは、ジャックにとっては計算外のことだった。
 ジャックの負けは、事前に準備された計画そのものだ。ジャックの考え方がずるいとか正しくないとか言いきれないが、物事は計算や計画通りにはいかないと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第175回2015/9/26

それを読んで来週の土曜までに感想文を書いてきてください。

 本のあらすじでなく、読後の感想を書く。本の紹介ではなく、読後の感想を書く。それが、読書感想文だと思っている。
 1回の新聞連載の分量は少ないので、読むのはそれほど苦にはならない。しかし、感想文を毎日書くという経験は、私は初めてだ。感想は、感じたこと、考えたことの言語化だ。だから、私の感想文は同じことを繰り返している。
まあ、仕方がないか。

 他の3人は、広岡と同じようにこの試験を受けたということか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第171回2015/9/26

 私の狭い経験の中でも、頭がいい、ということはどういうことかについての変遷がある。
 私の学生時代は、圧倒的に学校の成績が、頭のよさの指標だった。しかも、その成績は、試験における総合得点と順位だった。だから、順位がはっきりする母集団の中での頭のよさであった。例えば、中学校ならば、学級の中で、学年の中で、頭がいいかどうかが位置づけられた。
 次の世代でも、やはり学校の成績が指標となった。しかし、偏差値なるものが導入されて、母集団がぐんと広がった。大学受験に際しては、全国の同年代の中で、位置づけがなされた。そして、このころからは、学校の成績も筆記試験の結果だけでなく多様化し始めた。
 現在は、いろいろに言われてはいるが、学校の成績と試験の結果が、現実的には頭のよさを判断する指標になっていると思う。しかし、それだけではないことがだんだんに常識化していることも確かだ。
 記憶していなくても、知識を活用できる時代になった。旧来の学校制度が機能しなくっている面も明らかになってきた。
 優れたスポーツ選手の条件は、高い運動能力だけでないことはよく知られるようになった。また、優れた学者の条件が、学業成績や知能だけでないことも理解できる。
 それでは、頭がいい、とはどういうことか。今回ばかりは、真田の言っていることに、私はまだ納得いかない。ただ、頭がいい、ということは筆記試験のように静的な場面で発揮できるものはその一部だということは分かる。
 
 会話の中で、問われたことに、はっきりと答えられれば、頭がいい証拠だろう。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第5回2015/9/25

 この回で描かれている宗助の休日の行動は、当時としては相当に新しいものだったのかもしれない。
 本屋を覗き、時計店に入り、西洋小間物などを物色しているが、どれも買わずにブラブラと歩いている。最後に安価なおもちゃを買って帰るところなどは、最近のテレビの街歩き番組を思い出しさえする。
 大人の男が、こういう感覚で街中をブラブラするというのは、私の感覚ではなんの違和感もないし、実際にやってきた。だが、宗助は明治時代の人間だし、私は昭和時代の人間だ。
 平成時代の大人の男には、こういう感覚はないのかもしれない。

 流通や販売の形態の変化は、人の行動や感覚に影響を与える。
 本屋の次に時計屋へ行き、別の店も覗いてみるという行動は、歩くという時間の流れに沿って、物事をとらえていく。
 一方、現代のショッピングモールに入って、そこの本屋、時計屋、別の店を回る行動は、歩き回るというよりは目的の場所に次々に移動するという時間の中で、物事をとらえていく。
 そこには、商品の販売形態の違いだけでなく、人の行動と思考にも違いが出てくるであろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第173回2015/9/25

 広岡は、聞かれていることに答えていない、と思っていたらその通りだった。
 真田が聞きたいことは、なぜボクシングをやろうと思ったかの理由だ。広岡が言いづらかったのはまさにそのことだった。
 前回の私の文で、「話の流れで、そのことも正直に言うかもしれない。」と書いたが、今日の回では、「正直」という言葉をそのまま真田から言われたような気分だ。

正直の反対は嘘をつくことではありません。

話というのは、省略することができるんです。省略することは、嘘をつくことと同じではありません。すべてを話すのではなく、必要なことを話せばいいんです。

 自分が質問する時は、答える人に対して、肝心のことだけを早く答えてくれよ、と思う。ところが、質問される側になった場合に、いっぱい話したが肝心のことを答えていなかったと、後で気づくことがよくある。
 省略するところは省略して、必要なことだけを話すようにこれからは気をつけよう。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第4回2015/9/24

 明治時代の休日の宗助の感覚は、私の昭和時代の感覚に極めて近い。

彼の生活はこれほどの余裕にする誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入には、落ち付いていられないものであった。

 宗助は、今でいう公務員であるらしい。大きな組織の一員として働く者の余裕のなさが、明治時代から始まっていたことが理解できる。混み合う電車での出退勤、定時の就業時間、毎日曜の休日、そして組織の歯車として働かされている感覚。これらが、日本が近代国家への道を進みはじめた明治時代から、昭和まで続いていたのであろう。
 では、現代はどうなのか。非正規の雇用、シフト制の就業時間、不定期の休日、そしていつ解雇されるかわからないという不安感。明治から昭和まで続いた庶民の労働感覚とは、異なる過酷さがあると感じる。

 

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