本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2015年09月

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第1回2015/9/21

 同じ二人でも、恋人同士と夫婦の会話ではどこか違う。
 どこが違うのか。そして、それはなぜなのか。

「おい、好い天気だな」と話し掛けた。細君は、
「ええ」といったなりであった。

 仲の良い夫婦でも、そうではない夫婦でも日常の会話はする。上の会話のような意味のなさそうな言葉のやり取りも、仲のよい夫婦の場合はどこか違っている。
 愛し合っている夫婦は、互いの気持ちを察し、穏やかに言葉を交わし合うのだろう。
 でも、そんな分かり切ったことだけではないのかもしれない。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第169回2015/9/21

 ボクシングに近づいていくストーリーがおもしろい。今までで一番展開に引きつけられる。

 窓の外からのぞき込んでいた広岡は、そのボクサーの動きから眼を離せなくなった。
 そして、思った。美しいな、と。

 ボクシングは、競技としての格闘技の中で、最も血なまぐさいと思う。
 プロボクシングは、ルールとレフリーとグローブがあるだけで、あとは生身の人間の一対一の闘いだ。ショーの要素をもった新しい格闘技がブームになった時期もあった。しかし、結局はボクシングのスタイルを超えるものは誕生しなかった。
 ボクシングには、究極の何かがあるのだろう。倒すか倒されるかと、「美しいな、」と思わせるものが。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第168回2015/9/20

 野球ができなくなったが、ボクシングならできるかもしれない。プロボクサーになれれば、それで食っていけるかもしれない。日本チャンピオンになれれば、金も相当稼げるかもしれない。世界チャンピオンになれれば、金もどっさり入り、有名になれるはずだ。
 プロボクサーを目指す人は、気持ちのどこかでそう思うだろう。
 だが、当時の「広岡」は、こうは考えなかったと思う。ただ、自分をあっけなく倒したボクシングに、抑えようのない興味を感じ、住む所を与えられかもしれないと思って真拳ジムを訪ねただけだろう。
 だから、「広岡」の行動は、行き当たりばったりで、計画性もなく、事前の調査も足りないものといえる。
 「広岡」の行動に、次のような助言は間違ってはいない。
 もし、ボクシングを目指すなら、もっとよく調べて、複数の人に相談してから決めるべきだ。
 でも、こういう助言が役に立つかというと、大きな疑問だ。

 夢の実現を目指して、一つのことに長い年月をかける場合でも、それぞれの場面では目の前のことに精いっぱいに取り組むだけだと感じる。
 人生は、方針と計画の通りに進むわけはない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第167回2015/9/19

「星」の部屋を出て、ウィスキーの酔いを醒ますために歩き始める。

40年前にもこの辺を歩いたことを思い出す。

40年前の出来事を次々に思い出す。

 前回から回想の場面になっている。

夜、広岡は水道橋に行き、最も安い席のチケットを買って会場に入った。

 回想の場面だが、視点は作者だ。複雑な設定だが、すんなりと入ってくる。
 そして、ボクシングというスポーツの真髄が簡潔に書き表されている。

観客がそうした戦いの中で決定的な一発が当たるかどうかの瞬間を息を呑んで見守っていること。

 ボクシング観戦の要までもが、きっちりと表現されている。


 部屋の柱を殴る。一冊のボクシングの雑誌を舐めるように見入る。立ち見の席で試合を見つづける。そして、「真田拳闘倶楽部」の広告に眼を留める。
 その時々の「広岡」の気持ちと細かなことは何も書かれていないのに、孤独で目的をなくしていた若者の心と姿が浮かび上がってくる。

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いつの間にこんなに伸びたのだろう。
ナスタチウムは、去年から庭に植えてみた。
性質が分からないので、どのくらい大きくなるかもつかめない。
去年は鉢植えがつるをどんどん伸ばすので、垂れ下がるようにした方がよいのかと思ったが、そうでもないらしい。
今年は、地面に植えてそのままにしていた。
なかなか花も咲かなかった。
ところが、暑さが去ったころからこんなになった。
これでも一度刈り込んだのだが。
チェリーセージと場所を取り合っている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第166回2015/9/18

 肩を壊していたのに、ボクシング選手として活躍したことに疑問をもたなかったが、そういうことだったのか。
 スポーツの種目によって使う筋肉に違いがあるということは聞いていた。それにしても「広岡」がボクシングを始めるまでの経過はいかにも彼らしい。けんかの相手(ボクサー)から、ジムを勧められたというのなら平凡だが、「広岡」は自分で考え、自分で試している。
 この時に、「広岡」を殴った相手は、「星」のようだが、次回には分かるだろう。

そして、最後に、部屋が微かに揺れるようなパンチを叩き込んでみた。

 いかに安普請の建物であろうと、拳を痛めることもなく、こんなパンチを叩き込めるなんて、やはり只者ではなかった。



朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第165回2015/9/17

 「星」は、一緒に住もうという話には乗らなかった。「佐瀬」と「藤原」も「広岡」の所へ進んで来る気配は感じられない。
 ジム仲間の3人は、「広岡」がいくら金持ちになっても、その金を当てにして世話になろうという気持ちは持たないと思う。
 そして、「広岡」の方は、他の人に強引に自分の考えを押し付けることはしないだろう。ジムのコーチ役を引き受けなかったように、決して自分から他の領分へ出しゃばることはしない。
 「広岡」には、他の人を深追いしない、そして、自分の役割が済んだと思うと、自ら身を引く姿勢を感じる。


広岡は相手を殴るどころか、体に触れることもできなかった。

 ここがボクシング観戦の魅力でもあるが、それを分かるようになるにはそれなりの経験がいる。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第164回2015/9/16

 昔の仲間が困っていて、助けてほしいと思っている。だが、その気持ちを素直に言葉にすることができない。こちらは、相手のその気持ちが分かってしまう。そんな時どうするか。「広岡」のように、相手の気持ちの中までは深入りしないという選択もある。

もしかしたら、言葉とは裏腹の、異なる思いがあるのかもしれなかった。だがそれを斟酌しすぎるのはやめようと広岡は思った。

 一方では、相手の言葉の裏を読み取り、積極的に助ける選択もある。その方が、困った状況に具体的な手を差し伸べることになる。そういう場合もあるだろう。 
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第163回2015/9/15

またあの昔のような生活に戻るなんて願い下げだね

 「星」のこの言葉の真意はまだ分からない。
 「あの昔のような生活」とは、ジムでの四人の共同生活のことだ。そして、それは40年前のことだ。

 この小説の舞台は、今とずれてはいないと考えられるので、日本の現在と40年前を比較してみた。私の場合は住んでいる所も家族も年月の経過があるだけで、大きな変化はない。
 しかし、衣食住をはじめ生活の中身の変化は激しい。何よりも生活感覚が40年前とは大きく変化した。特にここ10年間ほどは、人口の年齢構成の違いが大きく、それが、生活全般に影響を及ぼしている。
○働き方が違う。
○結婚と家族の実態と意識が違う。
○人の晩年の過ごし方が違う。

 主人公「広岡」の日本での生活感覚は、次のような40年前のものであるはずだ。
○老人は少なく、働き盛りの人と子供が多い。
○会社などに就職すれば、終身雇用が当たり前で、一度仕事に就いたら転職はしない方がよい。
○結婚をするのが当たり前で独身のまま過ごす人は珍しい。結婚は一生に一度のものであり、離婚はしない方がよい。
 日常生活では、娯楽は映画が王者でテレビがその座を奪おうとしていた。自家用車、シャワー付きのフロ、エアコンは贅沢品だった。給料は、現金で支給され、ガソリンの値段は今の半分以下で、パソコンや携帯は想像すらできなかった。
 そして、普通の家庭では老人は家族と一緒に住み、亡くなる直前までは自宅にいた。「介護」という言葉は聞いたことがなかったし、老人が寝たきりやボケてもその期間は今よりは短いものだった。
 そんな「広岡」の意識は、現代の感覚との差をどうつかんでいるのだろうか。
 

wowow 映画 モーターサイクル・ダイアリーズ 監督ウォルター・サレス

 その場所へ行って、そこの空気の中に入って、そこの景色を見なければ、外の世界を知ることはできないと改めて思った。
 出かけるのが最近は億劫だ。でも旅に出るのが、新しい事に触れる一番いい方法だ。商品化された旅行はだめなので、自分で行き先を選んで、自分の道順で行かなくては意味がない。
 この作品からは、未熟さと無謀さを、そして、それを上回る好奇心と行動力の魅力を感じた。


朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第162回2015/9/13

 「広岡」は、思い付きで、言っているのではないだろう。「元ボクサーのための老人ホーム」のような構想があるのかもしれない。

 もし、私が一人暮らしで、その上に住んでいる所を立ち退かなければならないとしたらどうするだろうか。
 賃貸アパートを探すしかない。年齢だけでなく、身体面からも仕事をするのは無理だから、収入は限られる。肉親と知り合いがいるが、そういう人の所で一緒に住むということは考えられない。
 賃貸アパートだと、ある程度の設備が整っていても、防音や広さは不十分だ。隣室のことを考えると、まるで入院中のようにテレビの音にも気を遣うことになりそうだ。話し相手もなく、終日その部屋にいるかと思うと、今とはずいぶんと世界が変わりそうだ。
 一軒家で夫婦で暮らせることの幸せを改めて感じる。同時に、今の暮らし方がいずれはできなくなるので、そのための準備をしなければ、とも思った。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第161回2015/9/12

 「星」は、住む所をなくしそうな気配だ。
 「藤原」は、出所後に帰る場所がなさそうだった。「佐瀬」は、住む家はあるがそこは安心して住める所とは言えそうにもなかった。
 老境に入る三人共に安心して暮らせる家がない。
 老人の男四人が、共同生活できるだろうか。若いころに共同生活の経験があっても無理じゃないかと思う。他の小説やドラマでは、女性同士や男一人と女複数の共同生活は成り立っている。男同士がうまくいかないのは、男は家事ができないという固定観念があるからだろう。
 元ボクサー四人の炊事洗濯掃除の姿は想像が難しい。それとも、それぞれに得意分野でもあるのだろうか…

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石

 当時の資産家の子弟で、高等遊民と呼んでよい生活をしている人は現実の世間にいたであろう。しかし、「代助」のような精神をもつ人がいたであろうか。
 時代を問わず、支配階層や富裕層の人々が、より高い地位と権力、そして、より多い富を貪欲に求め続ける例はたくさん知られている。
 当時の資産家の子弟で、親の金で遊んでいられる人々は、より贅沢を求め、教養と実力がなくても世間的な地位や権力を欲しがる人が多かったと考えるのが自然だろう。

あらゆる神聖な労力は、みんな麵麭を離れてゐる。

 このように考え、自分が働かない根拠がここにあるとする「代助」のような高等遊民が他にいるだろうか。
 さらに、視点を変えるなら、この言葉は、金銭を得るための労働をしない人にしか言えない言葉でもある。どんなに金銭に無頓着な人であっても、仕事をして得た金で生活している人がこの言葉を言っても、それは理想論でしかない。
 したがって、金銭を目的とする労働はしないとする精神を行動に移すことができるのは、親の金を使うが贅沢を求めない高等遊民の「代助」だからこそ可能なのだと感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第160回2015/9/11

ああ… 俺は、女と一緒に暮らす資格のない男だから

 結婚して安定した生活を送ることができる「男の資格」を、考えみた。
・家族の将来を見通した収入を得ることができる職業についていること。
・妻となる女性と長い時間を共に過ごし、家庭を作っていく意志を持っていること。
 自分の結婚生活を振り返ってみて、上のように考えた。でも、これは今の年齢になっての結果であって、結婚する前はこの資格があったとは言えないし、考えたことさえなかった。仕事を引退して、家にいる時間が長くなると、上のことに、プラスして、妻の目線になることが今まで以上に必要だと思う。

 「広岡」は、上のような要素を持たずに来た男だ。そして、自分でそのことをよく知っていて、「資格のない男だから」と言っていると思う。
 この辺は、いかにも彼らしい。そして、それがこの男の魅力にもなっている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第159回2015/9/10

 「星」のボクサー後の人生は、平凡で穏やかとは逆のものであったことが分かる。それは、「広岡」を含めての四人ともがそういう人生を送ってきたのだろう。

 現実の人生は、この小説のジム仲間の人生とは違っている。おおむねの人の人生は、普通で平凡な色合いを帯びている。小説に描かれるような起伏に富んだ一生を送る人など滅多にいない。
 私の場合なら、一つの職業を定年まで続け、結婚は一度だけだ。周囲を騒がすようなことをしたことはないし、世間の記憶に残るような事件に巻き込まれたこともない。
 だが、自分の中では、うれしいこともあったし、悲しいこともあった。繰り返しの日々に見えて、同じ日は一日としてない。時間を早回しのように圧縮したり、小さな変化を誇張すれば、小説に描かれるいる人生の要素が、平凡な人生の中にもおおいに見えてくる。


失う悲しみを味わわないためには、最初から関わりを持たなければいい。

 ここに「広岡」の生き方の一端が見えてくる。「広岡」は、ボクサーを引退してからの生活で、このように思い続けて仕事だけに没頭してきたに違いない。だからと言って、「星」の今の悲しみを、「広岡」が理解しないわけでは決してない。それどころか、「星」が、愛し信頼できる女性と何年も暮らしていたということに羨望の気持ちを持ったような気がする。 

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