本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2015年10月

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第27回2015/10/30

 小六のことはどうもうまくいきそうもない。叔母と安之助は、これ以上小六の面倒をみようという気がないのだろう。そこには、亡くなった叔父が小六のための学資をも使い込んだことへの反省はちっとも感じられない。
 叔母と違って、宗助と御米の夫婦は、小六のことを助けたいと思っているが、こちらの方は気持ちはあるが、金がない。

 新しい雑誌にも、『論語』にもちっとも感心しない宗助がおもしろい。

 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第207回2015/10/30

 この条件なら、乗り気になる。
 広岡は、アメリカに戻っても、つながりのある人がいるのではないし、これから先の計画もない。だとすると、日本にこのままいるのだろう。その日本でつながりのある人と言えば、元ボクサーの3人になる。藤原と佐瀬が広岡と一緒に住むことをどう思うかは、まだ分からない。だが、広岡のしようと思っていることは、藤原と佐瀬の住む場所をなんとかしようということ以外にはない。
 そうなると、この家の条件は、広岡にとって好都合だろう。広岡の今までの行動からは、例え、金のことで心配がないとしても、質素で安上がりのものの方を選ぶだろう。

 川崎市?何かかかわりがあったか?


朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第26回2015/10/29

 明治時代のことをずいぶんと身近に感じるようになった。時代ばかりではなくて、夏目漱石を身近に感じるということなのかもしれない。
 医者にかかる際の感覚や、思うことが、主人公と同じだなあと思う。

 中央集権の国家体制を整備する、産業を盛んにして経済発展を最重点にする、西欧諸国に学び西欧に追いつこうとする、これらは、大正と昭和という時代を経ても、大筋は変化していないようだ。
 そして、このような政治経済の発展の仕方は、庶民の生活にそれまでの時代とは異なる影響を及ぼしているのだろう。

 ただ、おもしろいことに文章表現には、時代の違いを感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第206回2015/10/29

 幽霊の存在を信じるか、信じないかといわれたら、私は信じない。ただし、幽霊そのものは実態としての存在があるものとは思えない。実態としての存在がないものとしてだったら、あることもいることもあるのだろう。
 幽霊を怖いと思うかというと、幽霊よりも怖いものはいくらもあるので、それほど怖くはない。
 幽霊よりも、評判、特に悪い評判の方が始末に悪い。この家であった事件は、事実だが、その事実とその家自体はつながってはいない。他人の評判が問題なのだ。

 広岡は、そのことをどう考えるのだろうか。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第25回2015/10/28

 宗助は、どんなことなら全力で進めるのか。
 仕事は真面目に勤めている。だが、それに打ち込んではいない。打ち込むどころか、嫌々ながら諦めて働いている。
 家族のことといっても、妻と弟だけで、弟のことを心配しているが、成り行き任せの面がある。
 仕事以外に好きなことといっても、特にはない。
 要するに、今の彼は何かを、全力で進めることは一切ない。また、行動だけでなく信条としても何かある信念をもっているといったところが感じられない。

 世間の人が一生懸命になる富を得ることや、地位名声を得ることになんの価値も置いていないようだ。元々金銭や地位に縁がないかというとそうではない。父親は財産家であり、宗助自身は学歴が高く、その気になれば、今の役所勤めでも高い地位にのぼることもできたはずだ。それが、今のような生活をしているということは、自らそういうものを捨てたのであろう。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第205回2015/10/28

 不動産屋にとっては、どうにもしようのない物件に違いない。また、普通の人も、そういういわくつきの中古住宅は、いかに条件がよくても二の足を踏むだろう。
 だが、広岡のような目的にとっては、それほど問題になるものではないと思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第24回2015/10/27

 身内の自慢は見苦しい、と言われている。この回を読むと、なるほどと思う。佐伯の叔母は、息子の自慢をしているつもりはないのだろう。だが、息子の学歴、職業など自慢になっている。そして、それは虚しいものにしか聞こえてこない。
 高学歴と、先進的な技術にかかわる職業、それを子どもの教育の目標にする風潮が明治時代に始まっていたのだろう。そして、現代もそれは大きく変わってはいない。
 自分の子どもが高学歴であり、先進的な分野に就職しても、それがもたらすものは、明治時代も現代も変わりないと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第104回2015/10/27

 この家がこれから意味をもってきそうだ。
 この事件の真相解明に広岡がかかわってくるとは、さすがに思えない。事件についてはこれ以上発展はしないが、この3年間空き家になっている家と広岡が関係してきそうだ。進藤にしてみれば、この訳ありの家に買い手がつけば、これ以上のことはないだろう。
 この大きな家を、広岡が思っているような場所として使うのであろうか。展開が一段と楽しみだ。

 家には興味がある。
 どうも最近の戸建て住宅の在り様には納得がいかない。外見と新しい設備に重点がかかり過ぎている。
 外から住宅内部への出入りや大型家具などの搬入の容易さ、台所とフロとトイレの使いやすさ、収納と室内移動の合理性などに重点がいくべきだ。また、冷暖房の効率と全ての設備のメンテナンスのし易さも必須だ。
 ところが、それらのことに特徴をもつ住宅建築や販売はないように思う。

 二世帯住宅は、世帯間の独立性がなによりも必要だと思う。ところが、2軒建てるよりは安上がりだということや、別世帯間の共有部分が重視されている。2軒の家を建てるよりも、かえって経費がかかるぐらいの予算で、建築すべきだ。現代の家族構成を考えると、距離的には隣接しているが、世帯間は防音も含めて、完全に独立している造りにしなければ快適性は求められないと思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第23回2015/10/26

 夫婦には、生活を共にする人間同士としての能力が必要だ。それは、恋愛関係に必要とされる人間同士の能力とは違うものだろう。違うというか、恋愛関係が成立した人間同士に、さらに付加されることを求められる能力だろう。
 夫婦は、衣食住にかかわる問題を共に解決していくことが必要だ。例えば、二人分の衣服を購入し、洗濯し、適宜に着替えて、快適に生活できなければならない。それを、一人でやるよりも、二人でやった方が効率的で、しかも快適なものにできる。そんな実生活上の力が必要だ。
 昭和時代の夫婦であれば、購入のための金を稼ぐのは、専ら夫で、洗濯や整理は妻という分担が一般的だった。しかし、働き方と家族の構成が変化した今は、過去の分担は通用しなくなっている。

 宗助と御米は、明治時代にもかかわらず、非常に合理的な役割分担をしていると思う。稼ぐのは夫で、家計のやりくりは、妻というのははっきりとしている。しかし、御米は、夫の気持ちをとらえ、小六の世話をできる範囲でする方法を宗助に提案している。
 宗助は、御米の話をよく聞き、御米の意見に従っている。
 弟を援助したいが、無理なことはしないというこの夫婦の生き方は、非常に近代的だし、現代でも現実的だと感じた。

 静かで地味に暮らしているこの夫婦に、なんともいえない味わいを感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第203回2015/10/26

無料の簡易ホテルのようなものかもしれない。

 広岡のイメージしていることがようやく見えてきた。
 入居と退居が自由にできる。しかも、無料の宿泊施設ということだ、そして、利用者は元ボクサーを対象に考えている。これは、老人ホームともシェアハウスとも違う。

 それにしても、住居というのは、難しいものだ。これだけ物質的に恵まれている日本でも、安心して暮らせる家を持つことや借りることができている人は多くはない。特に、高齢者ほど住む家の不安は増える。
 最近、「終の棲家」という言葉を聞くが、人生の後半から最後までの期間に住むべきところの意味で使われていることが多い。しかし、老人になって住む家というのもおかしなものだという気がする。確かに、青年期や中年や老年で住宅に求めるものも大きく違ってくる。だからといって、それぞれの時期に合う住宅に住み替えるということが一般化しているわけではない。
 要するに、現状は、どんな形態の住居に住むのが合理的で快適なのか判然としないのだろう。団地のスラム化、二世帯住宅が一時の流行に終わったこと、戸建ての家が持ち主亡き後に空き家になること、そして最近の高級といわれたマンションの問題など、よい住処を求めてみんなが模索している。
 昭和時代には、賃貸の共同住宅には独身や夫婦だけの時期に住み、子どもが生まれたら戸建て住宅に何世代かで住むという形態が一般的だった。今は、そういう家族形態がなくなりつつあるのに、それに見合った住居の形態が見つからないのだと思う。


 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第202回2015/10/25

 進藤という登場人物のことはまだよく分からない。しかし、佳菜子の話からは、妻子がいて元気に仕事をしていて表面的には安定した生活を送っている。それどころか、妻との仲はよさそうだ。仕事の不動産業の方も小規模ではあるが、困っている様子は見えない。
 少なくとも、広岡の昔の仲間の元ボクサーと比べれば、幸福な生活をしているように見える。だが、商売だからというだけでなく、「大人のシェアハウス」なるものに憧れをもっている。
 この気持ちも分からなくもない。家族がいて、住む家があって、老後の生活が送れるほどの貯えもあるからといって、それで満足するかというと、そうとも限らないのだろう。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第22回2015/10/23

 宗助にしてみれば、弟から激しく責任を追及されたのと同じであろう。普通なら、兄として弟を心配しているのに、その自分を差し置いて、安之助に頼み込むなぞはもってのほかと怒るところだ。
 ところが、これだけ弟の小六から自分が軽く見られているのに、腹を立てるどころか、弟の心意気に感心している。
 面子などに拘らない人でも、あからさまに実の弟から、兄はあてにならないと思われれば、腹を立てる。実際に弟のために、何もしてやることができなくとも、こういう行動を弟にとられれば、やはり怒ると思う。それをしない宗助に、私は感心した。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第201回2015/10/24

 シェアハウスが英語だと思っていたら、和製英語だった。だから、広岡にはピンとこなかった。今や下宿は、死語になり、シェアハウスは私でも知っている語になった。でも、間借りや下宿と、シェアハウスなるもののどこが違うのかはよく分からない。根本的には変わっていないような気もするが、どんなものか。
 
 私は、昔の仲間と共同生活することに魅力を感じない。進藤はなぜそんなに魅力を感じるのだろうか。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第21回2015/10/22

 宗助は、頼りない人だ。
 叔父に任せて、父の遺産を食いつぶされてしまった。遺産の中からの弟の学資を守ってやることもできなかった。さらに、学資がなくなった弟を援助しようという強い気持ちも、その力もなかった。
 もし、宗助が世慣れたしっかり者だったら、父の遺産の処分を抜け目なくやり、なるべく多額の金を相続しただろう。また、父の遺産の一部を弟小六の学資に充てる算段もしただろう。
 そういう人は頼りがいがあるとされる。ただし、それだけのことだ。損得勘定に長けていて、存命中は意見の合わなかった父の遺産で、弟の面倒をみたというだけだ。
 そういう人が、人としてどうなのか。

 一方、頼りない宗助は、子どももいないのに、おもちゃを買って来て、それで遊んでいる。自分が損をして、弟にも迷惑をかけているのに、妻と鉢物を買って来て、安らかに眠る。
 こういう人は、人としてどうなのか。
 

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