2015年10月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第202回2015/10/25

 進藤という登場人物のことはまだよく分からない。しかし、佳菜子の話からは、妻子がいて元気に仕事をしていて表面的には安定した生活を送っている。それどころか、妻との仲はよさそうだ。仕事の不動産業の方も小規模ではあるが、困っている様子は見えない。
 少なくとも、広岡の昔の仲間の元ボクサーと比べれば、幸福な生活をしているように見える。だが、商売だからというだけでなく、「大人のシェアハウス」なるものに憧れをもっている。
 この気持ちも分からなくもない。家族がいて、住む家があって、老後の生活が送れるほどの貯えもあるからといって、それで満足するかというと、そうとも限らないのだろう。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第22回2015/10/23

 宗助にしてみれば、弟から激しく責任を追及されたのと同じであろう。普通なら、兄として弟を心配しているのに、その自分を差し置いて、安之助に頼み込むなぞはもってのほかと怒るところだ。
 ところが、これだけ弟の小六から自分が軽く見られているのに、腹を立てるどころか、弟の心意気に感心している。
 面子などに拘らない人でも、あからさまに実の弟から、兄はあてにならないと思われれば、腹を立てる。実際に弟のために、何もしてやることができなくとも、こういう行動を弟にとられれば、やはり怒ると思う。それをしない宗助に、私は感心した。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第201回2015/10/24

 シェアハウスが英語だと思っていたら、和製英語だった。だから、広岡にはピンとこなかった。今や下宿は、死語になり、シェアハウスは私でも知っている語になった。でも、間借りや下宿と、シェアハウスなるもののどこが違うのかはよく分からない。根本的には変わっていないような気もするが、どんなものか。
 
 私は、昔の仲間と共同生活することに魅力を感じない。進藤はなぜそんなに魅力を感じるのだろうか。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第21回2015/10/22

 宗助は、頼りない人だ。
 叔父に任せて、父の遺産を食いつぶされてしまった。遺産の中からの弟の学資を守ってやることもできなかった。さらに、学資がなくなった弟を援助しようという強い気持ちも、その力もなかった。
 もし、宗助が世慣れたしっかり者だったら、父の遺産の処分を抜け目なくやり、なるべく多額の金を相続しただろう。また、父の遺産の一部を弟小六の学資に充てる算段もしただろう。
 そういう人は頼りがいがあるとされる。ただし、それだけのことだ。損得勘定に長けていて、存命中は意見の合わなかった父の遺産で、弟の面倒をみたというだけだ。
 そういう人が、人としてどうなのか。

 一方、頼りない宗助は、子どももいないのに、おもちゃを買って来て、それで遊んでいる。自分が損をして、弟にも迷惑をかけているのに、妻と鉢物を買って来て、安らかに眠る。
 こういう人は、人としてどうなのか。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第20回2015/10/21

 御米はずいぶんと淡白な性格だと感じた。
 明治時代であっても、夫の財産にはもっと関心があっても当然だろう。ましてや、小六の学資のことは、夫婦の家計に響くことになりそうなのに、夫を問い詰めるようなことを、御米は一切しない。
 宗助は、遺産のことを諦めるにしても、御米のようにさっぱりとはしていない。どこか、未練がましい。
 だが、この夫婦は苦労や心配を抱えても、互いを責めることなく、ますます寄り添っていくことはよく伝わってくる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第199回2015/10/22

広岡には、この部屋にいても、特にしなければならないことはなかった。

 引退後の生活は、これに尽きるなあ。趣味とか引退後の人とのつながりとかいうが、それは「しなければならないこと」にはならない。「しなければならないこと」とは、それをしないと生活費を稼げない仕事のことだ。仕事場でなく自分の部屋にいても、職に就いているときは、いつも仕事のことが頭のどこかにある。逆に、自分や家族を養うための「しなければならないこと」があり続ける人は、引退した人とはいえない。
 現役の間は、稼ぐためにあくせくすることから逃れたいと思い続ける。引退後は、やりがいのあることを見つけようといつも思う。そういうものなのだろう。
 そして、引退後は、「特にしなければならないことはなかった」という生活をするのは、幸せだと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第198回2015/10/21

テーブルの上に置いてある携帯電話が振動している音が聞こえた。

 広岡の生活ぶりは、興味深い。
 ベランダに来るネコの様子がよく見えるのは、ベランダに余計な物を置いていないからだ。昼間だし、広さもある部屋なのに、携帯電話をバイブにしている。
 映画の描写で、一人暮らしの中年女性の部屋のベランダの床がビールの空き缶で埋まっているのを見た。どこでも携帯電話の呼び出し音を鳴らし、大きな声で応答しているのは老年の男が多い。
 自分の部屋を掃除、整頓する。隣室などに電話やテレビの音で迷惑をかけない。
 これらは、マナーの問題というよりは、日常生活の能力だ。広岡は、自立して暮らす能力が高いと感じる。

 現実の社会では、広岡のような能力を持たない人を、多く見る。金がないのは困るが、こういう日常生活の技術に欠けるのも困りものだ。
 広岡のように暮らしたいと思う。


何か暗い影のような過去があるのだろうか…。

 佳菜子の過去については、以前の回(143・148)でも気になっていた。 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第19回2015/10/20

 宗助が継ぐべき遺産は、実際に受け取った額の何倍もあったであろう。また、小六の学資についても潤沢と言えないまでも卒業までの額はあったに違いない。
 全て、叔父夫婦の身勝手な処置のせいで、正当な遺産を食いつぶされたといってよい。
 だが、叔父夫婦のことばかりも責められない。宗助には、父の考えに背いた過去があるようだ。当時は、父の方針に真っ向から背くことは、家業と一家の財産を継ぐことの拒否になったのであろう。
 そういう、経緯があったとしても、父の没後に実家に戻り、財産の処分を、全て宗助自身が行うことは可能だったようだ。
 宗助が、自分で財産の整理を行うとすると、今の役所勤めを続けるのは無理であったろう。そうなると、職を失うことになる。職を失っても宗助夫婦と小六の生計が成り立つほどの金額があったかというと、借金もあったということから怪しくなる。
 そう考えてくると、叔父を強く責める立場にない宗助の姿が浮かび上がってくる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第197回2015/10/20

 広岡はやはりこまめに自炊していた。
 男の一人暮らしで、自炊を本格的にやるというのは珍しい。広岡は、今や完全に仕事をしていない引退した男だ。その広岡が、家事をこなし、食事を調理する際には喜びさえ感じている気配を感じる。そういう境遇にある男の暮らし方として、広岡の自炊に興味を感じる。
 一般的には、老いた男の一人暮らしは、飯は外だし、掃除洗濯などはごくたまにしかしないとなるだろう。だが、それでは、あまりに情けない。しっかりと取り組んでみると、家事は奥が深くおもしろい。

 味をつける前の肉や魚をネコの餌とするところなぞは、私と同じ感覚を感じる。私も、ネコにもイヌにもペットフードが最高の餌だとは未だに思えない。だいたいが、ネコにやる食べ物のことを、ゴハンというのさえ、抵抗がある。餌という明確な語があるのだから、それでよいと思っている。
 ただし、家のネコは、療法食のペットフードだし、それを注文した動物病院からは、「○○ちゃんのお食事が届きましよ。」と電話がかかってくる。それを、あえて「餌を受け取りに行きます。」などとは言わない。


 

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