2015年11月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第223回2015/11/16

 いろいろな小説を読むのは、おもしろい。
 一時期、ジョナサン・ケラーマンの作品で、手に入るもの全て(翻訳)を読んだ。ベストセラー作家だったが、私が読み始めた頃は、ブームが去っていたようで、文庫でも絶版になっているものが多かった。
 その頃は、臨床心理学に興味を感じていたので、非常におもしろかった。

 『春に散る』では、ボクシングをテレビで久しぶりに見るようになった。また、家作り、部屋作りで、同じ考え方に出合うとは思わなかった。

そこに収容できない持ち物は一階の納戸に入れ、決して床に物を置かない。

 我が家は、部屋数とほぼ同じ数の大小の納戸を作ってもらった。床に物を置かない、は妻の口癖だ。

その万能テーブルは極めて便利なものだった。

 居間には、ベンチ式のソファーを置いたり、いろいろとやってみた。結局は、大きめの食卓テーブルを居間の中央に置き、椅子を六脚入れている。食事も物を読むのも来客と話すのも、ここになった。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第222回2015/11/15

固めのベッド

バーカウンターのような長い机を作りつけ

 私も家を建てたときに、固めのベッドを探したが、なかなか見つからなかった。寝るための機能だけで、しっかりした作りで、固いものとなるとかなり限られたものしかなかった。
 机も同じだった。部屋の寸法いっぱいを使いたいと思ったら、作りつけしかなかった。
 家を考えるのはおもしろい。
 広岡と、家の改造ではどこにポイントを絞るか、一遍話してみたい。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第221回2015/11/14

 私の祖父母の世代は、医師から自分の命の限界を知らされることはめったになかった。命の限界の数日前に家族が、それを知らされることはあったが、本人が知らされるのは特別な場合だったと聞いている。
 親の世代では、命の限界を本人に医師が知らせることもあるようになった。そして、最近では、治療の困難な病気の場合に、余命を本人にも知らせることが当たり前になりつつあると感じる。
 私の世代では、命の限界を、医師から知らされることが多くなるだろう。さらに、その予測の精度も高くなるだろう。だが、それを知ったときに、自分がどう考えるか、残された時間をどう生きるか、その前例や指針は見えてこない。

だが、これまで、自分の命の限界をはっきりとした長さで意識したことはなかった。

 これは、広岡が、自分に残された時間をはっきりと意識したということだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第220回2015/11/13

あの家を見てまわりながら、かつてロサンゼルスで小さなホテルの再生を企てていたときに似た興奮が、体の奥底から静かに湧き上がってくるのを覚えていたからだ。

 老人には、老人の楽しみがあるはずだ。引退した人には、それまでの仕事以外のやりがいのあることが見つかるはずだ。
 だが、引退後の趣味三昧の生活、余生を楽しむ悠々自適の生活、といわれてもしっくりとこない。
 広岡が感じている「興奮」は、趣味や道楽というものとは、別のものだと思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第35回2015/11/13

 やはり何かが、家の方へ転がり落ちたようだ。人かもしれない。夜中に家に忍び込もうとした人がいたとしたら、相当に怪しい。

 夜明けの様子が細密に描かれている。眠れぬ夜を過ごした人の感じ方だと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第219回2015/11/12

広岡は、ひとりだけ残ってしまったことに気がついたときの、その男の悲しさを思った。

 事件の犯人の気持ちを、このように思う人は、めったにいない。
 この家にいた婿養子の立場と、広岡の過去の立場と重なるところがあるのかもしれない。そして、佳菜子も、広岡のその思いを共有しているようだ。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第34回2015/11/12

 ランプの明るさを頼りに家中を見て回る御米の様子と気持ちが、見事に伝わってくる。
 これは、何かあったに違いない。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第33回2015/11/11

 本多夫婦の生活は、老夫婦だけで子どもとは同居していない。現代では、多くある家族構成だ。静かで落ち着いた暮らしぶりだが、活気はない。
 坂井の家は、夫婦と息子夫婦とその子の三世代の家族で、収入も多く、大変に賑やかだ。
 宗助は、坂井の暮らしぶりを、なんとなく嫌っているように感じる。だからといって、本多の暮らしぶりを、よいともいっていない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第218回2015/11/11

自分なら安心?それがどういう意味なのかわからなかったが、ことさら訊ね返すようなことはしなかった。

 家の方が、住む人を選ぶという意味にとれる。人が、住むのにふさわしい家を選ぶという見方に間違いはない。
 しかし、家の方が、そこで暮らす人を選ぶという側面もある。古く傷んだ家が、住む人の手入れと工夫で立派になる場合がある。そういう場合は、家が住むべき人を選び、人と家の双方が豊かになったということであろう。

 広岡の目から見ると、この家は素晴らしい。家の方も、広岡を住むべき人と迎えている。それを、佳菜子のセンサーがとらえているのだ。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第32回2015/11/10

ただ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計を足ると諦めている癖がついているので

 靴もコートも新しくしなければならないほど使い込んでいる。だが、我慢をすれば、まだ使えることは使える。
 現代の感覚でいえば、穴の開いた靴は捨てるしかないが、時代が違う。

 私が今経験している使い捨ての時代が、特異なのだと思う。少しでも傷めば新しい物に取りかえる。傷んでいなくても、旧型になれば、それだけで買いかえる。結果として、どん「どん新しい物を買い込み、物が増える。そして、使い切れない物はゴミとなり、その処理に大きなエネルギーを割くことになる。
 自分の家からゴミを出しても、巡り巡ってまた自分のところに戻ってくる実感がある。土壌の汚れ、空気の汚れ、海の汚れ、それらは結局私たちが出したゴミが巡ってきているのだと思う。

 宗助の「諦めている」態度は、節約を美徳とするのに似ているが、根本が違う。強い主張はないが、現代の物を持たない生活と通じる部分がある態度だと感じた。

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