本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2015年12月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第266回2015/12/30

 ネコのことは、残念だ。このネコが、広岡を頼りにしていたことがわかるし、広岡はかわいがっていた。
 ネコをかわいがるにもいろいろな仕方がある。話しかけ、部屋に入れ、毎日触れる仕方もある。一方、ネコの気が向いたときだけ、近づけ、ネコが食べたがるときだけ食べさせ、ネコが入ってこなければ部屋に入れることもしない仕方もある。
 広岡のように、ネコの好きなようにさせる飼い方、かわいがり方は、現実にはむずかしい。だが、ネコにとっては、どちらが生きやすかったのか、わからない。
 今の私の家での飼い方のように、家からは一歩も出さず、トイレも餌も完全に管理する方法は、ネコにとっては生きづらそうだ。そして、現代の都市部での飼いネコは、他の選択肢はないと思う。


自分はいつもこうやって関わりのあるものたちを切り捨て、切り捨てしながら生きてきてしまったのだなと。

 胸が痛むことには違いない。だが、そうしなければ前へは進めなかった。
 むしろ、きれいに切り捨てられないことの方が、より胸が痛むことにつながると思う。
 関わりのあるものたちをいつまでも大事にするか、それとも切り捨てるかは、その人自身が選択すべき生き方だと思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第63回2015/12/29

 御米の思いは、宗助に伝わていなかった。
 なぜ、御米はそれを口に出さなかったのであろう。なぜ、宗助は、御米の心情を察することができなかったのであろう。
 この二人にとっても、年月が経てば、話すことができ、察することができるかもしれない。だが、そのときの二人には、亡くした子への思いを互いに理解することは不可能だったと思う。御米と宗助にとってだけではなく、どんな夫婦にとっても、無理なことだったと思う。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第265回2015/12/29

 現在の世の中で困ることが実に的確に描かれている。
 引っ越しの際の荷物の多さには自分の持ち物であるのに、辟易する。どんな要望にでも応じてくれる引っ越し専門業者がいても、やはり自分の家財道具は自分で始末せねばならない。
 その点、広岡は見事な暮らし方だった。だが、その広岡でも、電化製品や家具はある。広岡は、うまく処理できたが、これがなかなかに難しい。断捨離とか、終活が話題になるだけの悩みが多くあるということだ。


さらに、残していくことになっている掃除機で部屋の中を簡単に掃除した。

 前に出てきた八つの言葉もそうだが、広岡のこういう所が人を惹きつけるのだと思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第62回2015/12/28

罪は産婆にもあった。けれども半以上は御米の落度に違いなかった。

 「罪」と呼ぶのは無理な気がする。
 「落度」とは言うのは残酷だ。
 だが、産婆にもっと経験と技量があれば、助かったのかもしれない。御米がもっと慎重に動いていれば、この事態を招かったのかもしれない。

 人生にはこういうことがある。結果論だ、と割り切るべきなのか。
 どう考えたらいいのだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第264回2015/12/28

 共同生活の準備がどんどん進む。今まで、はっきりと意識しなかったが、安住の家がない仲間のためだけでなく、広岡自身もこの家に住むことを決めていたのだ。
 この家に、住むということは、アメリカにはもう戻らない。また、日本で別の場所にも行かないことを決めたのだ。それは、広岡がこの家で仲間と共にこれからの時間を過ごすことを意味している。

 自分がこの世にいる限り、自分が暮らしたい家に居る。このことが、今の世の中では難しいことに改めて気づく。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第263回2015/12/27

 星の気持ちを察している藤原の見方が当たっているように思う。星の言葉には、最初から本心と逆のことが含まれていたと思う。
 広岡がアメリカに行ってからの残された三人の様子は、広岡の知らないことだったろう。
 真田会長は、指導者であり、精神的な支柱であった。だが、四人の若者の中での中心は、広岡だったのだろう。広岡は、それを意識していなかったろうが、他の三人は、はっきりと意識していたようだ。

 この四人が集まり共に住むのは、昔を懐かしみ、過去を追うだけの共同生活にはならないと感じる。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第262回2015/12/26

 この家にとって、佳菜子の存在はますます大きくなっている。家の準備だけでなくて、これからの生活に彼女が欠かせない人になるのではないか。
 藤原が、すんなりとこの家での生活を始めようとしているのは予想外だった。
 元ボクサーのための老人ホームとはいえ、世間一般の老人ホームとは異なるものになるに違いない。いったいどんな共同生活が始まるのか、心配であり、楽しみだ。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第61回2015/2/25

 なんとも切ない回想だ。御米は、もちろんのこと、宗助にも非難されるようなことはない。
 この夫婦の運命としか言いようがない気がする。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第261回2015/12/25

 世間にははた目も羨むような人の集まりがある。家族であったり、友人同士であったり、恋人同士であったりする。人の集まりに、喜びを感じるととしたらどんな場合だろう。
 仲のよい人、楽しい人、若くて健康な人、年齢は様々だが目的が同じ人、たとえば、そういう人の集まりは喜びを感じるに違いない。
 逆に、人の集まりで、楽しくないとしたら、どんな場合だろう。先に挙げた条件を裏返せばそうなるかもしれない。

 藤原、広岡、佳菜子、この三人の会話は互いに気持ちのよいものだ。この三人の乾杯は、一人一人が喜びを感じている乾杯だ。こんな楽しそうな集まりに、私も加わりたいと思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第60回2015/12/24

 宗助と御米は、互いを他の誰よりも大切な人と思っている。二人は結婚のためにあらゆることを犠牲にしたと思われる。そして、夫婦になった今も、その気持ちは変わらない。夫婦は、気持ちの上ではこの世に二人きりで生きているような感じすらする。
 それなのに、お互いのすべてを分かりあっているかというと、そうはいかないようだ。
 夫婦とは、そういうものなのだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第260回2015/12/24

 感謝の気持ちと幸福を感じることに相関関係があるという心理学の説を聞いた。感謝の気持ちを持っている度合いの高い人が、幸福感を感じる度合いが最も高いという実験結果がある、ということだった。才能や、財産や、学歴や、家族構成よりも、感謝の気持ちを持っているかどうかの方が、その人の幸福感に影響するということだ。
 納得のいく話だ。
 
 心の問題ではあるが、感謝の気持ちを常に持ちなさいと諭されても、わかりました、としか答えようがない。
 精神論だけでなく、「ありがとう」と「ごめんなさい」を言う習慣を身につけなさい、と言われれば、行動化できる。

「きちんと礼を言う。きちんと謝る」

 この言葉は、私自身のためにあると思う。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第59回2015/12/3

 宗助は、日々の暮らしに追い立てられて、家と職場の他にはほとんどどこへも行かない。また、新聞を読むが、世間の動きに強い興味を持っているとも見えない。
 だが、それは見かけだけのようだ。織屋の外見や言葉づかいを子細に観察し、その商売の様子、さらにはその暮らしぶりに非常に興味を持っている。それは、この織屋の男から当時の社会構造を洞察しているのではないかと思う。

宗助はつくづくこの織屋の容貌やら態度やら言葉使いやらを観察して、一種気の毒な思いをなした。

 ただ、おもしろがって終わるのではない。また、感情的に同情しているわけでもないのだろう。「一種気の毒な思い」には、宗助がなにかを見通しているように感じられる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第259回2015/12/23

 この八つの言葉の大切さは、私も身に沁みている。
 それなのに、真田会長のように年下の人たちに教えたことはない。なぜなんだろう。当たり前のことすぎると思ったのだろうか。それとも、こんなことを言うと説教じみた話になると思ったからだろうか。
 その両方があったと思うが、ひょっとすると、この八つの言葉を、常に口にするだけでは、集団生活は円滑にいかないと考えていたからかもしれない。
 言葉だけではなく、気持ちの問題だと今でも考える。だが、若いころよりは今の方が、この八つの言葉の効用が信じられる。逆説でいえば、どんなに仲間を大切に思っていても、この言葉を口にしなければ、集団生活は円滑にいかないことが、経験上よく分かるようになった。

「おはよう、おやすみ。いただきます、ごちそうさま。行ってきます、だたいま。ありがとう、ごめんなさい。この八つの言葉が言えれば、集団生活は円滑にいきます。これだけは常に口にしてください」

 書き写して、気がついた。八つの言葉は、二つずつのセットになっていたのだ。特に、ありがとう と ごめんなさい をこうやって、「、」と「。」で表わされると、その意味合いがよくわかる。作者の細かい表現にまた感心した。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第58回2015/12/22

 明治時代の東京での給料取りの生活と意識が、現代と共通することの多さに驚かされる。
 しかし、当時の東京以外、特に農山村、漁村地域の人々の生活と意識は、現代とは相当に違う。そのことが、
反物行商の男を通して描かれている。
 現代の大都市以外の地域の人の生活と意識は、交通網やマスコミの発達によって、大都市の住民とそれほどかけ離れていない。
 だが、大都市の経済事情と、地方の経済事情は、現代でも格差は大きい。国内であっても、地域によって、職業によって、生活と意識が違うことを、見落としてはならないと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第258回2015/12/22

 かつて広岡たち四人は、毎朝、ロードワークのためにジムから多摩川に架かるこの橋まで走ってきていた。

 思い出は、美しく懐かしい。この時の四人と今の四人の隔たりは大きい。
 だが、過去の四人は輝かしくて、今の四人はくすんでいるのだろうか。
 過去の四人は、チャンピオンを目指して、ひたむきに生きていた。今の四人は、目指すものがなく、惰性で生きているのだろうか。
 若さは素晴らしく、老いは悲しい。そうだとも言えるし、そう単純なものではないとも言える。
 ひとつだけはっきりとしているのは、広岡と藤原はこれから始まる生活に期待し、若いころと変わらぬ気持ちを持っていることだ。

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