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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2015年12月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第257回2015/12/21

「広岡さん以外は」

 普段は余分なことは言わない佳菜子が「小さな声で付け加えた。」これは、佳菜子が不満に思っているのではないと感じる。逆に、広岡の気持ちの表れとして受け取っていると思う。

 相手をどう呼ぶかに、人の気持ちが表れる。さらに、呼ばれた人の気持ちへも大きな影響を与える。それに気づく人でありたい。


「やっぱり、土井さんかい」

 この一言が気にかかる。

 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第256回2015/12/20

 楽しいことがある。やっていてうれしい気持ちになれる。これがいい。
 広岡も藤原も佳菜子も、進藤でさえ、うれしそうだ。
 コロッケを買う藤原は、やりたいと思うことをやれる気持ちを味わっていると思う。
 これがいい。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第255回2015/12/19

 言葉は、おもしろい。そして、人と人をつなぐ力を持つ。

 四十年以上前に言われた「ガキ」の一言を思い出して、藤原は腹を立てた。

「いえ、すごくさっぱりした気持ちのいい奴だからって」

 藤原の出所祝いには、これが一番だ。広岡本人から同じことを言われるよりも、藤原にとっては、うれしかったに違いない。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第57回2015/12/18

宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なく捲き込まれて、やむをえず年を越さなければならない人の如くに感じた。

 この感覚に共感する。
 古くからある世間の行事や慣習にはどうも積極的に取り組むことができない。古くからの行事だけでなく、新しい行事やイベント、たとえばクリスマスなどにも、全くおもしろみを感じない。世間が一斉にやる行事だけでなく、個人的な行事、たとえば自分や家族の誕生日なども、私にとってはあまり重大事ではない。
 これは、世間的に大きな顔では言いづらい個人の嗜好だ。
 別に、お正月が嫌いだとか、行事の意味を認めないというわけではない。一年の終わりと始まりは、気分を変えたり、いろいろなことに切れ目をつけるにはよい時期だと思う。そういう気持ちは私にもあるし、宗助と同じように、それなりに年越しのためにすることをすると、正月には気分も改まる。
 だが、年末だから大掃除をどうしてもしなければならないとか、元日だから初詣に行こうという気にはなれない。
 要するに、世間の行事に熱心には取り組まないのだ。
 だから、宗助のような感じ方をする人を知るとなんとなくホッとする。なぜなら、世間では、すべき行事は盛大におもしろおかしくやろうというのが、当たり前とされていると思うからだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第254回2015/12/18

 広岡が望み、そのために動いていたことが、実現に近づいている。
 若いころの夢の実現に近づくときとは違う喜びを、感じていると思う。具体的には老人ホームを作り、そこに初の入居者が来たということだから、バラ色の夢というわけにはいかない。だが、それが、広岡の夢であることは確かだ。

 少年には少年の望みがあり、青年には青年の望みがある。老年にも望み、夢があり、それを実現させることは生きる喜びになる。少年や青年の望みには、その個人の発達段階と生育環境と時代性に影響された特徴があるだろう。
 老年の望みには、少年や青年にはない特徴があると思う。それは、広岡の置かれている状態によく表れていると感じる。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第56回2015/12/17

 御米の病状が心配のあまり、小六の普段の行状まで神経に触る。医者の動作、言葉を細大漏らさず見つめ聞いている。心配がいらないことを、医者に言われ、御米の様子も変わりないことに、ようやく安心する。
 全く無駄がなく、そのときの宗助の心情が伝わってくる文章としか言いようがない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第253回2015/12/17

 いくら仮住まいのアパートであっても、広岡の部屋は藤原が驚くほど殺風景だったことがわかる。殺風景というよりは、余分な物を持たない暮らし方なのだろう。なにしろ、刑務所から戻ったばかりの藤原が、そう言うのだから。
 なんとなくだが、藤原も佐瀬も新しい家、つまりは元ボクサーのための老人ホームを素直には受け入れないような気がしていたが、藤原はそうでもないようだ。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第55回2015/12/16

 役所を休まなかった宗助を、冷たいように感じるが、当時の慣習からは仕方のないことだろう。
 それよりは、宗助が御米のことを気にかけて、大切に思っていることが切々と伝わってくる。夫婦の真の関係は、こういうところによく表れる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第54回2015/12/15

 この時の宗助に取って、医者の来るのを今か今か待ち受ける心ほど苛いものはなかった

 これ以上にこういう場合の気持ちが伝わってくる文章表現は、ないのではないか。


 やがて小六は自分の部屋へ這入る、宗助は御米の傍へ床を延べて何時もの如く寝た。

 病人を心配し、医者に来てもらい、医者の治療も終わり、その後どうしたか、が伝わる。まるで事実をそのままに書いているようだ。
 だが、記録とは違う。恐らく、「何時もの如く」などが効果を上げているのだろう。どんなに心配しても、これ以上はどうすることもできない。寝ずに看病と思っても、もはやすべきことはない。だが、病人のことはまだまだ心配だ。そういう気持ちと行動が、ドキュメンタリーとは全く異なる表現で迫ってくる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第251回2015/12/15

「見事ですね」

 こういう言葉を言う機会は滅多にない。しかも、世辞や大げさに言おうという気持ちはない。心からの言葉だ。こう感じられる家具を傍に置けるのは、気持ちのよい暮らしにつながる。

「素人にこんなものを作られちゃあ、職人の立つ瀬がありませんからね」

 この言葉から、このテーブルのできが伝わってくる。職人が売るために作ろうとしても、こんなに武骨なものはでき上らない。かと言って、素人にはこんな素材を扱えない。氷見だからこそ、作ることができた逸品だ。そして、広岡という注文主がいなければ、氷見も作ることはなかった。


 この作品の中で、広岡が初めて笑っている。
 テーブルの金はいらないと言った氷見の気持ちが分かる。氷見はこのテーブルを作るのが楽しかったに違いない。そして、それが使われるにふさわしい場所に収めることができたのに、満足しているに違いない。
 広岡は、このテーブルに心を奪われ、これを使えることを喜んでいる。

 広岡にとっても、氷見にとっても、心が通じ合った瞬間だ。こういう経験をすると、生きている実感を味わえると思った。
 二人の人物の会話から、読者として、幸福を味わえた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第250回2015/12/13

 世の中の流れに任せていると、ちょっと考えれば分かることに気づかなくなっていることがある。それを、鈍感になったというのだろう。
 木の板で家具を造れば、重くなるし、原材料の値段も高くなる。そういう家具を探すのが難しくなっている。安くて軽いものは、表面は木のように見えても、切り出した板そのものを使っていない。だから、軽いし、狂いがないし、安価に売れるのだ。
 
 また、木材を使っているテーブルで、表面は一枚板のように見えても、テーブルに使えるほどの板がそう簡単に手に入るはずがない。テーブルの表が合成の木材でないとするなら、接いでいなければならないはずだ。だが、家具として売られている製品は、その接いだ跡が残らないように加工されている。

 今の住宅は、どこもかしこもきれいに覆われて処理されている。しかし、壁材を一枚剥いでみると、壁の中にはコード類が這いまわっているし、天井には、パイプが突き抜けている。そういう部材がなければ、家は機能しない。家具も同じだ。機能のために必要なものを、見た目のために隠してしまうことに価値を置き過ぎてはいけないと思った。

 氷見が造ってくれたテーブルは、よっぽど特別な注文をしないかぎりは、手に入らないだろう。
 いや、注文しても無理だろう。接がれたのが見えて、それでいながら貴重な板を使っている家具を、専門の家具職人が売り物として出すことはない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第249回2015/12/12

なにより、印象を一変させていたのは庭だった。

 庭師は入れてなかったはずだ。それに、広岡は、室内の調度品と家具には個性的な注文を出していたが、庭には何も触れていなかった。
 庭、というか、家の外回りは盲点になりがちだが、その家の全体像には欠かせないものだと思っている。
 たとえば、外観も室内も申し分なく考え抜かれた家の外回りが、むき出しの土だけだったらどうであろうか。また、外回り全部が石畳やアスファルト舗装されていたら、どうであろうか。そんな無造作ではなく、手の込んだ庭園であったらどうだろうか。
 庭師によってきれいに造りこまれた庭園は、普通の人には維持ができない。もちろん、土のままでは味気ない。手入れに手間と時間を取られず、雑草の対策ができ、季節の変化を見越した庭と外回りは、めったに見かけることさえない。
 我が家でも、数本の樹木と小さな庭に囲まれた家をイメージしているが、そのわずか数本の木の剪定で、この晩秋もヘトヘトになった。

雑草が刈り取られ、塀までの広さがよく分かるようになっている。

 これなら、広岡と居住者でこれからも手入れができるだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第248回2015/12/11

氷見の言葉には語調と裏腹の嬉しさがにじんでいた。

 氷見という人物は、広岡や他の3人とは年齢的には似通っているが、境遇が違う。家族がいて、息子からも、元弟子からも大切にされていることが分かる。現在は分からないが、家族で一緒に暮らしていたことが話の一部に出てきていた。 
 しかも今でも、自分が気に入った仕事だけは、生活のためではなくてやっている。

「息子に作らせてもいいんだが、あいつにも仕事の段取りというものがあるんだろうから、俺が作らせてもらうよ。そんなテーブル作ってみたかったしな」

 息子との距離感、作りたいものだけを作る、氷見の境遇がよく分かる。そして、羨ましい暮らしぶりだ。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第53回2015/12/11

 特別な問題もなく日常を送っている家族であれば、家族の一員が急病になった時はできるだけのことをして看病すると思っていた。だが、世の中をよく見てみると、そうでもない。
 家族の急病に、慌ててしまって、見当はずれのことを言ったり、急病人を救うための最善の行動ができないことがある。また、一時的な見舞いの気持ちを持つことと口出しはするが、実際に自分のことを犠牲にしてでも、病人のために動くことをしない人もいる。
 急病になった者の心配をするだけでなく、自分のことを後回しにして実際に看病できるかどうかというと、看病する側の冷静さや知識や行動力が問われる。それゆえ、緊急の際の冷静さと行動の速さを両立できる人というのは、それほど多くはない。

 宗助と小六は、最善の行動をしているかというと、そこまでは言い切れない。だが、少なくとも、できるだけのことをしているのは、確かだと感じた。

 

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