2016年02月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第325回2016/2/29

 チャンプの家の暮らしが落ち着き始めた。
 改めて、疑問に思う。広岡は、なぜこの家を準備したのか。

○ アメリカで孤独のまま余生を過ごしたくなかったから。
○ 病気になり、故郷と思える所が懐かしくなったから。
○ 三人の状態を知り、気の毒で見過ごしにできなかったから。
○ 真拳ジムと昔の仲間に恩返しをしたかったから。
○ プロボクサーの現役後の生活に役立つ活動をしたかったから。

 上のどれでもないような気がする。上の理由だけだったら、チャンプの家で四人の共同生活を続けなくともよいと思える。
 チャンプの家は、元ボクサー四人の終の棲家だけの存在であってほしくないという気持ちになる。 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第98回2016/2/24

 宗助は、講者から修行に対する自分の不心得を叱られたと感じている。感じているだけでなく、実際にそうなのだろう。
 座禅には相変わらず身が入らないが、講者からの話には興味を持っている。

 この寺に来てからも宗助の心が、修行で落ち着くことはなかった。しかし、寺に来る前のような居たたまれないほどの不安に脅かされてはいない。修行に真剣に取り組めないことを悩んでいるので、安井についての不安と罪の意識からは離れていられるのだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第324回2016/2/28

 令子についてのアウトラインが一気に描かれた。令子は、いずれこの小説の軸になってくるだろうと思っていたが、ここでこれほど複雑な設定になろうとは驚きだ。
 令子が離婚していたことよりも、日本にいた三人がみな不思議に思うように、彼女がジムを継いだことが、読者としても不思議だ。
 広岡が、日本に戻って来て観たボクシングの試合では、選手は彼女のことを信頼していた。そこからも、彼女が経営面や表向きだけの会長ではないことが察せられる。
 令子と亡き父との関係、そして令子とボクシングとの間には、広岡も知らない何かがありそうだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第323回2016/2/27

日中は広岡だけがチャンプの家にひとりポツンと取り残されることが少なくなかった。

 広岡は、チャンプの家を準備して、四人の共同生活が軌道に乗れば、することがないのだ。

 人にとって、やりたくもないことをしなければならないのは辛いことだ。同時に、何かをしたいのにすることがないのも辛いことだ。特に老人にとっては、後者の方がより苦しい場合もある。
 チャンプの家は、ある種の老人ホームだが、そこから出かける用事のある人がいるのは、現実の老人ホームと違う点だ。

 若い二人は、チャンプの家にいるのかいないのか、明らかになっていない。この回を読む限りは、二人の姿は見えないのだが‥‥

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第97回2016/2/23

 自分の答えを老師に退けられても、宗助は熱心に修行しようとはしていない。では、禅の修行をばかにしているかというと、そうでもない。宜道を大変に好ましい人物と感じている。が、宜道を目指して修行に励もうというのでもない。
 坐禅によって悟りを得るには、何日間かの短い期間では到底かなわないと改めて気づいたのであろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第322回2016/2/26

「それも、はよかった」

 星は言葉のニュアンスにも鋭さを見せる。

「ぼんやりしないで皿を並べろ!」
 
 藤原は、荒っぽい言葉で、若者への好感を見せている。

若い声があるというだけで

 広岡がこう感じるのは、この家にとって、若い二人の存在がプラスになるということだろう。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第96回2016/2/19

 宗助の考えは、老師によってたちまち退けられた。
 答えに自信はなかった。座り続けて得た答えでもなかった。全くわかりませんでした、というのでもない。
 座禅は続かなかったが、宗助は宗助なりに考えに考えた答えだったと思う。

 老師にははねつけられたが、これを考えていた間は、安井への罪の意識からは逃れていたのではないだろうか。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第95回2016/2/18

 公案に対する考えを述べようとする修行者たちの様子が詳しく描かれている。
 身を入れて坐ることもしなかったのに、宗助は意外に平気なようだ。真剣に座禅をして、公案に取り組んではいないのに、老師の所へ行く手順や周囲の様子へは強い興味を持っている。
 こうやって、他の修行者の様子を観察している間は、安井の影に付きまとわれる不安を一時的に忘れているようにも見える。

朝日新聞記事 シェアハウスの注意点は 2016/2/24
同新聞連載小説 春に散る

 この記事で、ハウスの管理運営をする会社の代表の方の指摘が紹介されている。

共用スペースで不機嫌な雰囲気をまき散らしたり、部屋でしゃべるスマホの声がうるさかったり、ほかの人がどう思うか、周囲への気遣いが大切です。

 こういう指摘をするということは、それができていない人が多いのだろう。
 私は、シェアハウスに行ったことも住んだこともない。だが、家族だけで住んでいる自宅でも、近隣でも、スーパーや病院などでも、この「周囲への気遣い」の不足を感じることが多い。
 なぜ、こうなったのか。
 『春に散る』の中では、共同生活であいさつすることを徹底的に教え込まれる場面がある。
 このような共同生活の仕方を学んだ経験はあるが、それを、若い人へ伝えたことはあまりない。なんとなくではあるが、あいさつや周囲への遠慮を強要するのは、ダサいと感じていたからだと思う。
 それではダメだと思う。
 ルールは、現代社会でも守ろうとする人が多い。もっと、マナーを大切にしないと気持ちのいい暮らしはできない。
 そのためには、道徳的な精神論ではなくて、あいさつのように行動化の練習をしなければならない。
 あいさつをしない、スマホの声が大きい、これは若い人ではなくて、私と同年齢のしかも男性に多いと感じるだけにそう思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第321回2016/2/25

 若者は、輝かしい可能性を持っているボクサーだった。だが、その才能と可能性を摘み取られた事情がありそうだ。

 広岡が感じていた、自分を見ているようなという感覚は当たっていた。
 この若者に対して、広岡たち四人の出番がありそうだ。真拳ジムと現会長の令子も絡んでくるのではないか。

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