2016年03月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第356回2016/3/31

(略)連打のしつこさには、相手をうんざりさせるほどのものがあったのだ。

 佐瀬には「あった」が、それが翔吾に最も欠けているものとは、広岡は思っていない。

あの若者、黒木翔吾にはその勇気が欠けているだろうか‥‥‥。

 藤原の言ったことも、広岡は肯定している。しかし、それが翔吾に欠けているかは、疑問に思っている。
 では、星の言ったことに同意するだろうか。
 広岡は、三人の言ったことはどれも的を射ていると思っている。だが、それ以外の何かを見つけていると、私には思える。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第355回2016/3/30

 藤原の頭の中では、星が話す小さな浜辺の少年と翔吾とが重なったのだろう。だから、言ったのだ。

「教えてやろう」

 私には、小さな浜辺の少年と、アメリカで教えてもらいたかったトレーナーに断られた広岡の若い日の姿が重なる。
 だが、広岡は、日本では真田という最高の指導者を得た若者でもあった。指導者に救われた体験と、望んでも指導を断られた体験、この両面がどうはたらくのだろう。

30
楽浪の 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
ささなみの しがのからさき さきくあれど おおみやびとの ふねまちかねつ


志賀の唐崎は、今も穏やかに水をたたえている。
ここに都があった時代には、宮廷の人々の船が行き交い、それは華やかだった。
今はもうそのにぎわいはない。
ただこの地が、宮廷の人たちの再びの訪れを、ひたすらに待ちわびているかのようだ。


31
楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも 
ささなみの しがのおおわだ よどむとも むかしのひとに またもあわめやも

志賀の入り江は、今も変わらず波は静かで、その水も昔のままだ。
都があったころここで遊んだ高貴な方々が、今にも現れそうではないか。
いやいや、それも私の妄想。
ささなみのしがはそのままだが、過去の栄光はもう戻らない。

 長歌29の反歌である。 
 滅んだもの、廃墟となった地に引きつけられる人麻呂の心を感じる。枕詞は、現代では理解しづらい表現技法だと思うが、31では「ささなみのしが」という音から、穏やかで明るい雰囲気を感じたので、そのまま表記した。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第354回2016/3/29

 駅のホームで、ボクシングを始める前の広岡をノックアウトしたのは、ボクサーとしてのトレーニングを積んだ男だと思い込んでいたが、こんないきさつがあったのだ。
 星の過去が明らかになってくる。


ストーリーから離れた感想。
 年寄りになってよいこともある。その一つは、過去の経歴が必要なくなることだ。現役の頃は、履歴を更新したり提出しなければならないことがあった。
 今はもう、なんの仕事に就いていたかも、どこの学校を卒業したかも必要事項ではない。
 これは、大変に身軽で気分がよい。たまに、聞かれるのは、最近の病歴くらいのもんだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第353回2016/3/28

 前回で広岡は、星が言ったことに納得して同意した。

「自分たちに、誰かを教えるなんていうことができるんだろうか‥‥」
 広岡が独り言のようにつぶやくと、星が言った。
「仁、おまえはもう教えているよ」
「‥‥‥‥?」

 広岡自身が気づいていなかったことを、星が見抜いていた。
 星のことがだんだんに明らかになってきた。サーフィン、ボクシング、サーフィン、妻に養ってもらう、そして、共同生活、星の人生についてもっと知りたい。

 ボクシングを教えるとなると、それはチャンプの家がどういう方向に進むかにつながる。その場合に、女性二人、佳菜子と令子が、かかわってくる気がする。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第352回2016/3/27

 星に注目した。
 彼は、この家に住むことが嫌だった。昔の共同生活に戻ることを拒否していた。そして、ここに住むようになっても昼間一人で何をしているのかは謎だ。
 その星だが、料理では欠かせない存在になっている。そして、この生活を嫌がる様子を見せることはない。それどころか、翔吾に対しては、いつも一番肝心なことを訊いている。

星が結論を先送りするように翔吾に向かって言った。
「俺たちに教えられるかどうか、おまえが帰ってからみんなで相談する。」
それがいい、と広岡も思った。

 この場面では、リーダー役は星だ。



 挿絵からも、若者の輝きを感じる。これは、年寄りにはないものだあ‥‥


 四人で、この若者にボクシングを教える、というストーリーになるとしたら、小説の今後の設定が大変になるなあ‥‥

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第351回2016/3/26

 佳菜子は日曜日ごとにチャンプの家に来て、四人と一緒に食事までしている。毎回気の利いたお土産も持ってくるのだろう。


広岡は、翔吾が佐瀬の取り越し苦労を(略)

 翔吾のカムバックに能動的に力を貸すような「取り越し苦労」をする気は、広岡にはまだないようだ。

 星は、翔吾が四人ではなくて広岡に教わりたいことを察している。

 藤原は、佐瀬と一緒に「取り越し苦労」を始めるようだ。

 世間の道徳に反して、恋によって結ばれた宗助と御米の日々が全編を通して描かれていた。
 宗助は、御米に向って「愛している」とは一言も言わない。御米を喜ばせることや家事を手伝うこともほとんどしない。
 そうでありながら宗助が真に思うのは、御米だけだ。
 御米が病気になったときの宗助の気持ちに、それが表れている。宗助は、妻の病を心配して吾を忘れ、妻の回復に心から安堵している。
 御米は、宗助以外には心を許す人がいない。
 宗助が禅寺へ行った時の御米の態度に、それが表れている。御米は、夫の悩みをあれこれと詮索せずに、夫が出かければ、戻ってくるのを信じてじっと待っている。 

 宗助と御米夫婦の家は、崖の下の日当たりの悪い場所に寂しげに建っている。一方、世間の常識に従って、当たり障りのない夫婦生活を保っている坂井の家は、日当たりがよくいつもにぎやかな様子に描かれている。

 私は、漱石が描いているものを、次のように受け取った。

 互いの意思で結ばれた二人だからといって、幸せな生活があるわけではない。それどころか、世間一般の考え方に反して一緒になった二人は、結婚後も世間から冷遇される。
 だが、その冷ややかな世間で、互いに思い合って暮らしていくことで、二人の心はより強く結ばれる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第350回2016/3/25

 シャドーボクシングも、ランニングと同じように、コーチするレベルにまでなっていないのか。
 この回は、藤原の出番がなかった。


 男四人は、朝と晩はほぼ毎日一緒に飯を食っているようだ。四人分の飯を作り、片付けをするとなると、どれほどの時間がかかるだろう。今まで出てきた献立からすると、売っている惣菜や弁当や冷凍食品の類は使っていないようだ。
 今の日本で、毎日四人分の食事をしっかりと作る人はどのくらいいるだろうか。私は、たまに三人分の食器洗いをするが、それでも多いなあと思ってしまう。
 年寄りとはいっても、この四人なら、うまいカレーのときには米も四合じゃ足りないと思う。そんな家庭は今はもうないに等しい。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第349回2016/3/24

広岡には、佐瀬だけでなく、星もまたこの若者にボクシングを教えるということに心を動かしはじめているらしいのが意外だった。

 広岡と藤原は、この時点ではボクシングを教えるという気持ちになっていないことが分かる。さらに、広岡は、星がボクシングを教えるという気持ちにはならないだろうと、予想していたことが読み取れる。

 佐瀬はチャンプの家の庭で、ボクシングを教えたいということを、他の三人の誰にも言っていなかったことも分かった。
 しかし、シャドーを始める時には、藤原も教えることに積極的になった。
 四人が一致して翔吾へのトレーニングを始めるのだろうか。それとも、四人それぞれの思いは違ってくるのだろうか。
 今までの広岡ならば、他の三人の気持ちへは深入りをしないはずだが、この場合はどうなるのか。

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