本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2016年04月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第385回2016/4/30

「そうだな。まず来週からはサセケンの三段打ちだ」

 案外、そのままの流れでの発言だった。
 でも、四人のボクサーのいいとこどりをして、本当にバランスのいい強いボクサーになれるのだろうか??

夏目漱石『吾輩は猫である』第19回朝日新聞連載小説2016/4/29

 雑煮にひどい目に遭わされたが、黒君にもだいぶ苦労している。ポンポンとまくし立てられ、口では負けない吾輩が閉口している。
 吾輩は、黒君のようにたいして意味のない罵詈雑言を吐かれるのに滅法弱いと見える。
 漱石も、あまり意味もなく延々と言葉のやり取りだけを楽しむような世間話は苦手なのだろう。しかし、漱石は、罵詈雑言や世間話の類を避けてばかりいるかというと、そうでもない気がする。これだけ、テンポよく表現できるということは、注意深く聞いて覚えているということなのだろう。
 漱石は、下品で荒っぽくはあるが、歯切れよく威勢があるとされていた江戸弁にも深く通じていると感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第384回2016/4/29

「そんなのが、簡単に見られるのか

 藤原の言葉は、私にも当てはまる。
 パソコンは使うが、スマホを持つ気になれない。ネット検索はするが、ユーチューブの便利さが分からない。SNSには拒否反応がある。
 世代の特徴なのか?新しい物を取り入れるのに、時間がかかるのは間違いない。ゆっくりではあるが、まだ新しい物の便利さは手に入れたい気持ちだけが強い。
 遅れながら世の中の流れに追従するのを、いっそのことやめた方がカッコイイとも思うが、まだそこまでの踏ん切りもつかない。


「こいつの足なら、翔吾は打たれない」

 山越との試合では、翔吾は負けないということだろう。負けないで試合を終える戦法もあるだろうし、さらに確実に勝つ戦法をあるのだろう。星が何か言いそうな予感がする。

夏目漱石『吾輩は猫である』第18回朝日新聞連載小説2016/4/28

 漱石の権威嫌いは徹底している。係累の肩書を自慢する人を批判するだけでなく、揶揄していると感じる。これは、批判よりももっと強い嫌悪感だと感じる。

 
吾輩も先生といわれて満更悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。

 ところが、他者の権威好きを揶揄しただけでは終わらない。自己の中にも、潜んでいる権威に弱いところをちゃんと描いている。「先生」という敬意の言葉には、人は弱いのである。
 
 何歳になっても、どんなことでも、自分が褒められるとうれしくなる。最も、安直に褒められ、尊敬される方法は自分にはこんな立派な肩書があると示すことだろう。
 入院している患者同士が、自分はこんなに困難な手術を受けたと、聞かれもしないのに長々としゃべるのもそれに当たるかもしれない。私もやりがちだった。
 自分のことで、もうひとつ感じる。褒められるとうれしくなるのはまだ許せるとしても、貶されると腹が立つのは困ったものだと思う。貶される場合は、たいていは真実をついているだけになお始末が悪いのだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第383回2016/4/28

 翔吾は、試合をする気がありそうだ。他の三人ももちろん乗り気だ。星は、相手の戦いぶりから相手の欠点を見つけるつもりだろう。
 広岡は、トレーニングの意味を翔吾に教えた。だが、他にも教えることがあると思う。それが、試合に関わって出てくるような気がする。

 どんなスポーツでも技術は進化する。今までのトレーニングの段階では、四人の昔のままの技術が今でも通用するとして描かれていた。スパーリングや試合でも、そう描くのだろうか。もし、そうだとすると疑問を感じる。

夏目漱石『吾輩は猫である』第17回朝日新聞連載小説2016/4/27

女性の影響というものは実に莫大なものだ。

 「吾輩」の考えだ。これは、漱石自身の思考でもあると思う。
 餅の苦しみの中で、次々に人生の真理を発見する様が、面白おかしく描かれている。これも、漱石の思考の一端であろう。
 人生の苦しみの中から、日常の大切さを感じ取っているのが、『門』だと思う。一人の女性への愛を貫くために、今までの安心な生活を捨てて、苦しみに自ら飛び込むのが『それから』だと思う。この二作品は、苦しみの中から新たに生きようとする主人公が描かれていると感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第382回2016/4/27

広岡は、思いがけないほど早くチャンスが訪れたことを翔吾のためというより、藤原たち三人のために喜んだ。

 翔吾本人よりも、広岡自身よりも、三人の喜びの方を考えている。こういう感覚があったから、今までの翔吾へのトレーニングでも積極的になっているという感じがしなかったのだ。
 しかし、「翔吾本人のため」よりも「三人のため」というのは、順序が逆ではないか、それともこの感覚に何かわけがあるのか。

「それでは、翔吾に話してみます。(略)

 この辺もおもしろい。翔吾がもしもこの対戦相手に乗り気にならなかったら断るつもりなのだ。
 これが当たり前のようで、私なぞにはできない。面倒を見ている若い人にとってこれ以上ないというほどのチャンスが来たら、ついつい自分のことのように舞い上がって、勝手に返事をしてしまうだろう。年寄りにはそういう傾向が強い。

夏目漱石『吾輩は猫である』第16回朝日新聞連載小説2016/4/26

 一瞬のことが、詳細でありながらたるみなく描かれている。
 気持ちと行動が交互に描かれ、視覚、聴覚、触覚、思考が次々と表現されている。それでいながら、混乱は一切は感じられない。
 文章とは不思議なものだ。文章の名手の技量には驚く。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第381回2016/4/26

 広岡は、いつも自分のやり方を通して来ている。
 チャンプの家の家具選びでも、自分の好みにこだわっていた。翔吾への関わり方も、他の三人の後ろから見守るような立場から踏み外さなかった。
 しかし、翔吾のプロボクサーとしての再出発については広岡も前面に立たざるをえないようだ。前面に立てば、彼独特のやり方が顔を出すと思う。
 翔吾が本心から試合をする気になり、広岡も納得できる試合とはどんなものになるのか、楽しみだ。

 今まで分からなかった翔吾の事情を聞かされて、佐瀬、藤原、星がそれぞれどう考えたかを知りたい所だ。

 これだけ、次々と新しいことが起これば、老人四人は翔吾のことで頭がいっぱいになるだろう。それに、毎日の家事をこなすとなると、忙しいに違いない。自分の過去の経験を若者に伝え、自立した生活をしている老人は、現在の日本にどれほどいるだろうか。
 少なくとも、私はそのどちらもできていない。ああ‥‥

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第380回2016/4/25

 オヤオヤ、作者は広岡に携帯なぞ持たせない設定か、と思っていたら違った。
 オヤオヤ、翔吾の父、平井ジムの会長は、もの分かりのよい人で、しかも「よろしく頼みたいくらいだと頭を下げる」なんて、思いもしなかった。
 翔吾はスムーズに真拳ジムに移籍し、大塚のスパーリング相手になるのか?
 でもそうなれば、四人の手からは離れることになるのか?
 それとも四人は、真拳ジムで教えるのか?
 そうなれば、四人は真拳ジムのトレナーの立場になるのか?
 それとも‥‥


 父親として、子どもにレベルの高い学校へ入ることや安定した収入の職に就くことを要求するのは、翔吾の父が翔吾に結果だけを求めることと、本質的に同じなんだろうな。

夏目漱石『吾輩は猫である』第15回朝日新聞連載小説2016/4/25

 我が家の一匹は、なっとう、トマト、そばを食う。もう一匹は、ヨーグルトプレーンを食う。両方が喜ぶものはない。
 キャットフードも互いに違うものを好む。しかも、キャットフードは同じものが続くと飽きる。
 「吾輩」の言っていることは、ユーモアだけを狙っているのではない。漱石は、猫の生態を知っている。

 猫を飼い続けていると、フッと気づかされる時がある。私は、人間同士も含めて他の生物の生態を観察しないし、知らない。
 猫がキーボードの前を通ることが厭で、机の上に来ると、叱って追い落としていた。それを、止めてみた。猫は、キーボードと私の前を二回行き来し、スウッと机から降りて行った。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第379回2016/4/24

 広岡は、キッチンで翔吾一人へ向かって話し、その後でワインを飲みながらみんなにジムの移籍の話をする展開になった。
 翔吾へは、いつまでもトレーナーに頼るなということを教えるのかと思っていたが、そうではなかった。トレーニングはなぜするのかについての考え方を教えている。

 次回以降に、翔吾の口から、ジムの会長である彼の父との事情が語られるだろう。そして、それに対しての佐瀬、藤原、星の反応も見えてくるのだろう。


「そう、料理もアイロンかけも、ボクシングのトレーニングと同じだ。家事が難なくできれば、日常というリングで自由に振る舞えるようになる。」

 そうか、老いた男の生きづらさの理由がここにあったのだ。現役時代は家事をすべて妻に転嫁してきた。夫婦が年を取るとその形態では日常が成り立たなくなり始める。そして、男が独りになると、たとえ経済的に不安がなくとも日常生活がきわめて不安定になる。それは、日常生活の自由度が落ちるということなのだ。
 私の場合だって、妻がいなければ冷蔵庫の冷凍室に何があるか分からない。これは、自分の家の冷蔵庫を自由に使えないということだったのだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第378回2016/4/23

「一回目はレシピを見ながら作る。二回目はわからないところだけ見て作る。三回目はできるだけレシピを見ないで作る。四回目は記憶のままに好きなように作る。それで、その料理はその人のものになる。」

 これは、料理のことだけを言っているのではないな。
 わざわざ翔吾をキッチンへ呼んだのだし。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第377回2016/4/22

 キッチンへ戻った広岡のこれからの行動は?
 翔吾に、彼の父とどうなっているのかを訊く。他の三人に令子から聞いてきた話をする。そのどちらかしか考えられない。
 でも、それは普通の人がやることだ。昔の仲間に家を提供し、おまけに飯まで作り、事情も調べずに若者にボクシングを教え、いまどき固定電話しか使わないのは、普通の人のやることじゃない。

夏目漱石『吾輩は猫である』第14回朝日新聞連載小説2016/4/22

 漱石は、いわゆる民間療法に厳しい見方をしている。「主人」がどの療法も三日坊主で投げ出してしまうことをからかっているようだが、その表現の裏には、巷で広がる情報とそれを受け取る態度のいい加減さへの批判があると思う。
 『門』の中では、専門の医者の医療行為に対して、感謝の気持ちさえ表現されている。

 学術的な医療情報と、医学的な治療が、現代では明治時代とは比較できないほど社会に浸透している。それでありながら、健康食品などの情報も氾濫している。
 今朝の新聞広告でも、「○○がひざ痛を変える」 「からだが軽いです。○粒の○○と犬の散歩が毎日の習慣になりました。」(個人の感想)などの文字が並ぶ。
 例え、広告といっても、さすがは大新聞に掲載されるだけあって、文章は明確だ。「痛みが消えた」とも「痛みが軽くなった」とも書いていない。「○○が何かに効果があった」とは書いていない。ただ、「○○を飲むことと犬の散歩が習慣になった」だけなのだ。
 民間療法と現代の健康食品などを同一視はしないが、「主人」が感じている見方は現代にも通じる。もちろん、「吾輩」が思っている世間に流布する情報の受け止め方も含めて。

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