本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2016年04月

夏目漱石『吾輩は猫である』第13回朝日新聞連載小説2016/4/21

人間の心理ほど解しがたいものはない。

 この辺りに漱石の本質が出ているように思う。漱石は、社会から超然としていて、世俗的な交流を求めないようなイメージを与える。しかし、「吾輩」の眼を借りながら、常に人間を多角的にとらえるし、描いている。

夏目漱石『吾輩は猫である』第12回朝日新聞連載小説2016/4/21

 漱石は、情熱的か冷淡かというと、冷淡に違いない。冷淡に、社会と人間を見つめているのは、『それから』『門』にも表れている。
 ところが、子供に対しては、その動きや言葉の特徴を見事に描写している。これは、いわゆる子供好きというのにふさわしいだろう。そして、「かわいい、かわいい」と表現するのではなく、「かわいい」が故にじっと観察するのだと思う。
 猫についても同じだ。猫がそんな批評をするはずがないと分かっていても、猫の顔や動作を見ていると、いかにもと思わされる。それだけ、漱石は猫好きだと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第376回2016/4/21

 翔吾と彼の父の間には、令子も知らない何かがあるようだ。

 これで、先の展開がまた読めなくなった。
 大塚と翔吾は、同階級でライバルとしては申し分ない。だが、そう簡単にはジムの移籍はできないだろう。移籍ができたとしても、同じジムで同じ階級では‥‥  いや、翔吾はウェルター級で、大塚はスーパーライト級だった。
 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第375回2016/4/20

 令子から知らされた。こういうことも知らずに、翔吾へのトレーニングを続けていたなんて、迂闊すぎないか。ボクシングの関係者なら誰でも知っていることなんだろう。
 だが、ボクシング界の現在に浦島太郎みたいな四人であるからこそ、翔吾は飛び込めたのかもしれない。四人は、翔吾の経歴や事情を詮索せずに、トレーニングをする今の姿しか見ていない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第374回2016/4/19

 広岡は、令子にはものが言いづらそうだ。若い頃好きだったに違いない。若い頃だけでなく、今も。
 でも、以前も今も、それを伝えたり、二人で時を過ごしたりしようとはしないだろう。
 佳菜子に対しては、恋愛関係と呼べるようなものを期待はしていないだろう。でも、年齢が離れていても、好きになるという感情はあるに違いない。
 相手に好きだと伝える、二人で過ごす時間を増やす、そういう欲求とは異なる気持ちがうまく表現されていると思う。

 真拳ジムは、翔吾にとってよい機会を与えるように思う。アメリカで逆転勝利したあの日本人ボクサー、そのボクサーと戦う可能性があり、広岡がコーチを断った真拳ジムのボクサー、この二人も関わってきそうだ。

夏目漱石『吾輩は猫である』第11回朝日新聞連載小説2016/4/19

 「吾輩」は、人間について見聞きしたそのままを表現している。猫だから、どの人間に対しても損得を度外視している。あるとすれば、自分に害をするかしないかだけだ。そして、猫だからどう思おうと、思ったことについて褒められたり貶されたりはしない。
 そういう立場を、この小説が評判になったことで、漱石は獲得したのだろう。

 世間の常識にとらわれないで、人間を観察することの面白さを多くの読者が感じた。既存の常識と価値観にとらわれない人間観察の痛快さは、時代を超えて多くの読者の共感を呼んだ。そのような人間観察ができる作家は、稀なのだ。

 人を外側から判断することに、私は慣らされている。だから、教師と聞けば、金儲けに縁はないが、勉強が好きな人となんとなく思う。地味で枯れたような生活を送っている男は、女性への興味が少ないだろうと思う。それが、人間をただ見ているだけで、観察できていない証拠なのだろう。


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さけは、前夜に焼いたものを朝も続けて。
ほうれん草は、茹でておいて何回にも分けて。
左上の皿は、かぼちゃと紫のいもの煮物、これも何回にも分けて。
かぶの漬物も何週も食べる。
みそ汁も前夜と同じもの。

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ブロッコリーも茹でておいて数回に分けて。
マグカップは、みそ汁、前夜・朝飯と続けて。朝残ったのをカップに入れて冷蔵して、チンして。
なっとうでたんぱく質。

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ほっけは、自宅冷凍を、電気ロースターで。
サラダの赤いのは、有機野菜の宅配の赤い大根。
かんぴょうの煮物と、おからは、この後数日食べ続ける。

三食毎日家で食べる。その度に手の込んだものを作るわけにはいかない。だいたい鍋やフライパンを洗うのがめんどうだ。
前夜のみそ汁をカップで冷蔵し、電子レンジで温めて飲むのは便利。インスタント食品のみそ汁よりは、具が立派。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第373回2016/4/18

それが翔吾にとっていいことかどうかはわからなかったが(略)

 主人公は自分の考えを他人に押し付けない。
 どんなに深い考えをもつ人でも、どんなに豊富な人生経験をした人でも、他人がそれをすることが「いいかどうか」判断することは不可能だと、私は思う。
 自分のことでもないのに、「これがいい。あれがわるい」と決めつけるのはどうも好きになれない。


四人はそれぞれ異なるボクシング観を持っている。

 四人でミット打ちを始めたときに感じたことがあった。佐瀬はトレーニング用具を揃え、トレーニングメニューも作ったようだった。しかし、佐瀬の目指すボクサー像が他の三人のそれと完全に一致することはないと思っていた。それなのに、四人のミット打ちはスムーズに進んだ。
 この違和感も次の表現で解消された。

翔吾はそれを受けて、まさに乾いた大地が水を吸い込むようにボクシングを吸収し、急速に「ボクサー」になりつつあった。

 この表現が好きだ。


 ある小説をおもしろいと感じるのは、作者が人間をどうとらえるかの感覚を、好きになれるかどうかにかかっている。 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第372回2016/4/17

 五人の笑い声が聞こえて来る。
 毎日ランニングをするようになった。夕立に打たれながらもトレーニングを続けた。
 体の動きに連れて、翔吾だけでなく老人たちの心も高揚している。


 星の言葉の意味は?「ボクシング」とは、何かを言おうとしているのか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第371回2016/4/16

 四人の会話がこうなるとは、意外だ。
 だが、広岡の病状とルーティン・ワークが不釣り合いだ。もっと、彼の病気と治療のことが描かれなければ、いきなりニトログリセリンで、抑えたとされてもしっくり来ない。

 四人が走るのは悪いことではないが、それが翔吾へのトレーニング内容を高めるとすれば、できずぎの話になる。

 ドキュメンタリーでないのは重々承知だ。
 病気はフィクションだが、それならそれにふさわしいフィクションとしての医師の意見や日本での治療もあるはずだ。
 翔吾と四人の出会いはいかにもフィクションで、そこは楽しめた。それだけに、トレーニングの日以外の翔吾の現在を、納得のいくものに創り上げてほしい。

夏目漱石『吾輩は猫である』第10回朝日新聞連載小説2016/4/15

何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが厭らしい。

 気の合う相手と酒を飲んだり、訪ねてくれた人と話すのが好きなときもあった。だが、年賀などという儀礼的なことで、人と会って過ごすのは好きになれない。私の場合だ。にぎやかな場所、たくさん人が集まる会合、こういう場面をできれば避けたい気持ちがある。自分をもう少し社交的な性格と思っていたが、どうもそうは言えない。

人間もこの位偏屈になれば申し分ない。

 自分でも、他人が訪ねてくれて、にぎやかに過ごすのを面白がらないのは、偏屈だと思う。それを、「吾輩」がこう思ってくれるのは、愉快だ。
 どこが、「申し分ない」のやら。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第370回2016/4/15

少なくとも広岡は、一週間が翔吾とのトレーニングのある土曜と日曜を中心に回っているような気さえするようになった。

 こういう感覚が好きだ。一日なり一週間なりが、何かを中心にして回っている。その何かが、今の広岡にはある。
 トレーニングだけでなく、週に何回かは夕食を作っているし、日曜にはカレーを作る。

 共同生活では、このように誰かのために何かをするということができるのだ。

 前回三人が残ったので、佐瀬中心のトレーニングに何かを加えるような話をするかと予想したが外れた。
 今回は四人そろっての散歩だ。四人で翔吾のこれからのことを話すか?それとも思いがけない誰かと会うか?

夏目漱石『吾輩は猫である』第9回朝日新聞連載小説2016/4/14

 「吾輩」が読者に直接語りかける視点が出てきた。妙なもので、そういう見方になると、面白みが減った。
 「吾輩」が言っていることは、今まで同様に当を射ていると感じるのだが、なんだか理屈に聞こえる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第369回2016/4/14

 若いときと同じ仲間で、同じような共同生活ができても、それで昔が戻っては来ない。過去の四人には、進むべき目標があった。今の四人には、それはない。
 元ボクサーのための最期の住まいを提供するだけではないのだろう。老人なりの老年の共同生活が描かれると思う。
 そのためには、四人以外の老人以外の何かがいるのだと感じる。


 テーブルの前には、広岡、藤原、星が残っている。

朝日新聞連載小説・夏目漱石・吾輩は猫である・第8回・2016/4/13

 美学者の話は、時代を問わずあることだと思う。特に、外国から進んだとされる方法を我が国に取り入れる際には、それが冗談や嘘の類のものでも信じ込んだことがある。
 そして、おもしろいのは、ここでも「吾輩」の観察だ。

あたかも人を欺くのは差し支えない、ただ化けの皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたものの如くである。

 この通りだな。こういう感覚からどうしても抜け出せない。でたらめを言ったり、知ったかぶりをついついしてしまう。

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