2016年04月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第368回2016/4/13

 佐瀬以外の三人が、一気に加わった。これなら、四人がそれぞれに教えられる。それに、週一回程度なら老人四人の体力もいつもの共同生活も維持できそうだ。
 うまいこと設定するもんだ。

朝日新聞連載小説・夏目漱石・吾輩は猫である・第7回・2016/4/12

 猫の眼で、人間の行動を観察している。
 猫の眼で、人間の心理を観察している。
 猫の眼で、人間が自己について書いている文章(日記)を観察している。
 複雑だ。
 そして、漱石の視点の多様さに驚く。

 「吾輩」は、「主人」の教師という職業と趣味を尊敬していないし、冷やかしや笑いの対象にしている。だが、「主人」の教養とあくせくしない暮らしぶりを軽蔑しているのでもない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第367回2016/4/12

 広岡は、翔吾にボクシングを教えるかどうかを迷ったときに、自分に残された時間を意識した。また、教えるべきことは何かをつかんでいなかった。
 その二つへの答えは、両方ともまだ出ていない。それなのに、トレーニングが始まったようだ。

ラジオ NHK第一 AM マイ朝ラジオ 全国の天気予報

 天気予報を知りたい時は、テレビのデータ放送が詳しい。最近は、知りたい地域が狭くなり、予報時間帯は細かくなっている。
 天気予報を知りたいと思ったのでなく、番組を聴いている中に全国の天気予報のコーナーがある。対象地域は広いし、時間帯も一日単位だ。だから、天気予報としては聞き流していた。
 フッと気づいた。「今日の全国のお天気を西からお伝えします」とのアナウンスの後に、沖縄地方から予報が始まる。そうすると、日本地図を思い描きながら聞いている。また、「北日本を前線が横切るので」と言われると、ぼんやりしたものだが、天気図を想像しながら聞いている。
 「道南の日本海側は」と言われると、北海道の地図を思い浮かべ、そこに天気図をかぶせている。
 もちろん、地図も天気図も正確なものにはならない。

 テレビやインターネットの、○○市○○区の1時間ごとの予報を知ることに比べると、とんでもなく大まかだ。だが、天気の動きを覚えているのは、大まかなラジオの方だ。
 どちらにしても、私の生活に予報は当たっても当たらなくても、大きな影響はない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第366回2016/4/10

この一週間、どこかで練習を続けていたのかもしれない、と広岡は思った。
(略)どこで練習をしているのだろう‥‥。

 この広岡の疑問に答える中で、新しい何かが見えてきそうだ。


広岡の眼にはこのミット打ちが新鮮に映った。

 ここにも伏線がありそうだ。
 ボクシングは、どんなに優れたトレナーが付いても、力が接近した練習相手や試合相手がいなくてはその選手は強くはなれない。
 
 翔吾がトレーニングに来るようになってから、広岡はまだ何も教えていない。

 特に好きなラジオ番組は、NHK FMの「世界の快適音楽セレクション」と「ウィークエンドサンシャイン」だ。二つの番組が続いて放送されるので、そのまま聴くのは無理がある。
 そこで、録音する。ポータブルラジオレコーダーICZ-R51と、パーソナルオーディオシステムCFD-RS501を使っている。両方とも操作が、慣れるまでは厄介だが、性能はよい。
 ICZ-R51の方が持ち運びが楽だし、録音をしたい時間と録音を聴きたい時間が重なることがあるので、両方あると便利だ。
 録音をしたら、パソコンでメモリーカードにコピーする。これで、車でも部屋のオーディオでも番組を聴ける。

 長い番組なので、何回にも分けて、何回も繰り返し聴いている。

 今は、この二つの番組が私の好きなアルバムのようになっている。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第365回2016/4/9

 佳菜子が、たまにチャンプの家にカレーを食べにくるだけの存在で終始するわけがない。

 広岡の気持ちに久しぶりに令子が登場した。

 翔吾の人物描写に面白味がない。彼のボクシングを育て上げた彼の父に触れられていないからだ。また、翔吾が、佐瀬一人からのコーチに素直に従っているように描かれているせいだ。

 
 「共同生活」という言葉さえ聞かなくなった。
 家族だけの家にそれぞれの個室がある。新しいアパート、マンションは、それぞれの住人がなるべく接触しなくてもいいように造られている。酒場でさえ、個室や御独り様スペースが増えている。
 TV番組で東日本大震災の被災者の方々のドキュメンタリーを観た。仮設住宅にいたが、被災者のための新築アパートに移住した方の言葉が印象に残っている。
 「仮設にいたころはまだ近所と付き合いがあった。ここは、仮設よりきれいで便利だけど、体のいい刑務所だ。」
言葉はその通りではないが、このような内容をおっしゃっていた。

 だからといって、若いうちから共同生活を経験すべきとは思わない。また、現代に適した共同生活の場を作るべきとも思わない。
 もし、孤立しつつある日本人が、共同生活を求める方向に転換するなら、孤立より共同が快いなら、意図的に何をしなくとも、そうなると思う。
 その意味でも、若者へのボクシングのトレーニングだけでなく、もっと四人の老人の共同生活の日常を描いてほしい。

朝日新聞連載小説・夏目漱石・吾輩は猫である・第6回・2016/4/8

「箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」

 「吾輩」は黒に親近感を感じている。黒は、粗暴で教養もない。しかし、住んでいる家や持ち物をえばったり、他人をだましたり、分かったような学問を振り回したりしない。それに、「吾輩」を見下したりしない。もちろん、尊敬したりもしない。

「(略)おい人間てものあ体の善い泥棒だぜ」

 猫だけでなく、地球上の全ての動植物がこう言っているは間違いない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第364回2016/4/8

 前回に感じた気がかりが少しだけ解消された。
 佐瀬は、練習を反復させるだけでなく深化させることを準備していた。佐瀬はもっと他の練習プログラムも準備しているだろう。
 だが、相変わらず他の三人の出番がまだない。

 今後の展開を予想してみる。
 藤原と星が、佐瀬とは違う視点から、翔吾にボクシングを教える。
 広岡は、ボクシング技術やファイターとしての精神を教えるだけでなく、翔吾がプロボクサーとして復帰できるための道筋を示す。

 広岡たちが、翔吾にボクシングを教えるという展開は、無理だと思っていたが、小説はその方向に進んでいる。
 翔吾がプロボクサーとして再び戦い出すためには、令子が会長をしている今の真拳ジムの力が必要になると、どうしても思える。
 今度もこの予想を覆すようなストーリーを楽しませてくれるだろうか。

 いつも心のどこかに存在し続けた不安を、乗り越えることができた。
 押しつぶされそうになっていた不安は消えてはいない。その不安から逃げる方法も見つからない。だが、宗助は、不安に悩み、不安に怯える境地から一歩を踏み出すことができた。
 この小説のどこから、上のように感じたかと問われても、私にはうまく答えられない。だが、作品全体からそう感じる。

 宗助の禅寺での行動は情けないほどのだめな修行ぶりだった。修行を終えても、それが何の成果も上げなかったことは、はっきりと描かれている。それなのに、私は、禅寺から戻った宗助に変化を感じた。
 それは、悟りや座禅の効能ではない。宗助の心には、何をやっても不安からの逃げ場はない、何に救いを求めても救ってくれるものはない、というあきらめが生じたように思う。
 不安から逃れられないとあきらめることが、不安を乗り越えることにつながる、というのは矛盾している。しかし、私はそう感じるし、あきらめに身を任せた宗助に励まされさえする。

 あきらめの心を抱えての宗助の行動は、普段通りの暮らしだった。
 宗助の普段の暮らしは、御米と二人で生きる暮らしだ。金銭や出世や世間の評判にとらわれない暮らしだ。弟小六や若い禅僧や家主の坂井とは、上下関係や損得や主義主張に関係なく付き合っていく暮らしだ。
 そして、職場を解雇されなかったこと、給料が上がったこと、弟の学費の目途が立ったことが宗助と御米夫婦の気持ちを明るくした。

 愛する人と結ばれても、それが幸福につながりはしない。
 だが、愛する人と伴に過ごす日常は何よりも価値のあるものだ。
 禅寺での日々から、日当たりの悪い崖下の家に戻った宗助の暮らしは、私にこのような感想を持たせた。

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