2016年05月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第415回2016/5/31

 翔吾の父親が、翔吾のジム移籍をすんなりと許し、それだけでなく頭まで下げたのを読んだときは、なんだか拍子抜けした気分だった。ストーリーを進める上であっさりと創ったのかと思っていた。翔吾の父と広岡の関係は予想できなかった。だが、これで、納得がいく。
 この二人のボクサーがどんな試合をしたか、対戦した後の二人が互いのことをどう思っていたか、想像がつく。

 小説がここまで進んだのに、主人公について読者のまだ知らなかったことが次々に明かされて、驚かされる。

 広岡とはなんとクレバーな男なんだ!

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第414回2016/5/30

 挿絵の広岡の表情がいつになく険しい。
 それはそうだろう。翔吾のノックアウト勝利の記事に、広岡たちのことが興味本位で書かれでもしたら、とんでもないことになりそうだ。
 例え、その記事に好意的な反応が多くとも、広岡はアメリカでの成功や、今の四人の暮らしを必要以上には知られたくないと考えていると思う。


 やっと、勝利を喜ぶ描写が出てきた。
 記者と広岡とのやり取りをまだ知らない佳菜子は、翔吾の勝利を控えめながら心から喜んでいる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第413回2016/5/29

 ハラハラしながら読み始めた。
 すんなりと勝ちが決まるだろうか、心配だった。
 すんなりと翔吾のノックアウト勝ちだった。セコンドの三人がどれほどうれしかったか想像がつく。
 さらに、勝者の翔吾ははしゃがず余計なことを言わず、落ちついた態度だ。
 しかし、今回は佐瀬たち三人と佳菜子の喜びはまだ描かれない。果たして、この勝ち方でよかったのだろうか?

やはり、わかる人がいたのだ。隠しても仕方がない。

 広岡のこの気持ちには何が含まれているのだろう?

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第36回2016/5/27

 珍しく、「吾輩」が「主人」を褒めている。

(略)その活眼に対して敬服の意を表するに躊躇しないつもりである。

 私も、苦紗弥を優れた人物だと思うようになった。どんな点でそう思うかと尋ねられると、まだうまく答えられないが、その静かな生き方と他人の称賛を浴びようとしない所は好きになってきた。まさに、「活眼」の人物であると感じる。


 三毛子の家の主人と下女のやり取りを読むと、実に人の実相を描いていると思う。
 人は、誰かを悪者にしないと安心して生きていけない所がある。私の場合も、周囲に誰か「悪人」を発見すると途端に、思考が活気づく。その「悪人」を非難する意見に同調する人が現れると、会話が盛り上がる。周囲に非難すべき「悪人」を発見できないときは、報道されるニュースの中から「悪人」を見つけ、関係もないのに怒る。
 一方では、何かのきっかけで、自分が「悪人」役にされると、非常に落ち込む。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第412回2016/5/28

 これで、佳菜子が感じ取ったことが現実になる。



 今までは試合を中継する客観的な描写だったのに、今回の後半は違っている。

もう山越が立ち上がってくることはないと確信したかのような静かな顔つきだった。

 
これは、翔吾を描写している表現でしかない。


 いくつもの疑問が湧き、興味が増す。
○ 広岡がセコンドの三人に任せないで、自分で「大きくうなずいた。」こと。
○ 山越の倒れ方を、「後頭部をキャンパスに激しくぶつける」と描写したこと。
○ 「終わったのだの主語がないこと。

BROTHER 監督 北野武

 前回観た時は、新手のバイオレンス映画という印象で、特に好きにはならなかった。
 今回は、その印象が大きく変わった。
 バイオレンスには違いがないが、監督の主張を感じた。映画の主題と言ってもよい。
 ○暴力の末路。
 ○現金の価値の重みとむなしさ。
 それを、描いている。

 また、面白い視点からの描写もあった。
 ○バイオレンスのヒーローにも戦い以外での日常がある。
 ○バイオレンスにも日本とアメリカの文化の違いがある。

 好きな映画ではないが、印象には残る作品だった。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第411回2016/5/27

 どう考えても佐瀬の指示は正しい。このまま行けば、よほどの不公平なジャッジでない限りは、判定勝ちだ。復帰第一戦をノックアウト勝ちなどというのは、派手なだけで上を目指すボクサーには大きな意味はない。それよりは、最後のラウンドまで、足が止まらないスタミナを試す方が大切だと思う。

 ――何かの許可を求めている‥‥。
 広岡は、翔吾の眼を見つづけ、そうか、と理解した。

 広岡の判断が間違うはずがない。
 だが、インサイド・アッパーを使いたいなら、なぜセコンドにいる藤原に許可を求めないのだろう?

 
 なんのために?

 広岡の判断は間違っていないと思うが、この後の推測は二つとも納得がいかない。
 「リングの上で完全に自由であること」とは、この試合の場合は、相手を倒すことではなくて、むしろアウトボクシングで、自在に相手のパンチを封じ込めることではないか。
 「勇気というもの」は、劣勢になり追い込まれたときに発揮するものだと思うが、今はそういう状況にないはずだ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第35回2016/5/26

人間というものは時間を潰すために強いて口を運動させて、可笑しくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりする外に能のない者だと思った。

 ここまでは、「吾輩」の人間全般に対する批評だ。この後に、「主人」苦紗弥と迷亭、寒月への批評が続く。その内容は次のようなものだ。
 苦紗弥は、表面では世の中のことに超然としているように見える。だが、彼にも欲があり、、迷亭や寒月に競争心をもっている。
 苦紗弥も迷亭も寒月も中身は俗物だ。だが、その言語動作が、世間一般の物知りぶる人々と違って、型にはまったものでない所が救いになっている。
 このような「吾輩」の批評を読むと、この三人、特に苦紗弥という人物に関心が湧き、親近感を感じてくる。
 以前にこの小説を読んだときは、この三人に共感したことなどなかったのに不思議だ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第410回2016/5/26

 このまま進めば、ノックアウトできなくても、判定で勝てる流れだ。
 
 広岡は、過去に理不尽な判定を受けたことがあった。
 そして、翔吾がヒット・アンド・アウェイに徹して判定で勝つと、佳菜子は本当のことを言わなかったことになる。


 映像、音声のないボクシングの試合中継。挿絵も動きが判然としない描写だ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第34回2016/5/25

 苦紗弥の話は、迷亭と寒月のものとは違っていた。話の落ちがない。
 それだけに、二人の嘘の話ではなく、人間の本質を描いている逸話と受け取れる。
 
 妻が楽しみにしていることを実現させるのは、全く妥当なことだ。大切に思っている妻のたまの希望を叶えてやりたいと頭では理解している。
 しかし、なんとなく気が進まない。気の進まない外出を妻から催促されると、ますます行きたくなってしまう。それでは遺憾と、無理矢理に行こうとすると、今度は体がいうことを聞かない。
 苦紗弥は、そういう経験を話していると思う。

人は、わがままな存在だ。人のわがままを、理屈で正そうとしても抑え込むことはできない。道徳と理性で、自己のわがままな感情を抑えれば、身体が不調を訴え始める。それを、描いていると思う。
 現代では、過剰なストレスがかかると精神面だけにとどまらず、身体的な不調をきたすことは一般にも知られている。しかし、そう考えられるようになったのは、最近であろう。
 精神的なストレスが身体的な不調を起こす仕組みは複雑な要素が絡み合っていて、現代でもまだ解明されていないことが多いようだ。
 明治時代の漱石が、精神と身体の関係にも注目していると思う。

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