2016年07月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第466回2016/7/23

 第四ラウンド、いよいよ中盤だ。

(略)広岡は、ひやりとするような思いで認めざるを得なかった。

 広岡がこう認めるということは、このままでは翔吾に勝ち目はない。佐瀬もアドバイスすべき手がないのだ。
 大塚は体力を温存している。ポイントも確実に上げている。さらに、ストレートのカウンターを当てた。
 翔吾は徐々に体力を奪われていく。ポイントは上げられない。ジャブやストレートを打たれ続けている。翔吾が勝つには、踏み込んで打つアッパーは使えないので、キッドのキドニーか、クロスカウンターしか残っていない。
 しかし、そのいずれも危険を伴うものだ。

 もう一つ思い出す。中西は、過去の試合で圧倒的な不利を逆転していた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第465回2016/7/22

 大塚は、確実にポイントをあげていく。翔吾は、軽いパンチを当てられ続け、徐々にダメージも増してくる。
 大塚の方は、判定勝ちに持ち込むだけでなく、チャンスがあればノックアウトをねらう。
 ダメージを受けて足の止まった翔吾を、大塚が追い詰める。翔吾にとっては、大塚が接近してくるその時しかチャンスは残されていない。
 ロープ際に追い詰められた翔吾が、踏み込む。大塚は、翔吾が踏み込んでアッパーを打ってくることを計算済みだ。ところが、翔吾は踏み込んだだけでなく、体を沈めた。「キッドのキドニー」を打つ気だ。
 
 想像する楽しみだ。

 佐瀬と星は、翔吾に何か策を与えているはずだ。
 
 翔吾は、中西とのスパーリングで何かつかんでいるはずだ。

 ノックアウトや判定ではなく、翔吾のけがで試合が終わるかもしれない。

 中西は、スパーリングの相手というだけの存在ではないはずだ。


 さあ、明日朝刊ではどうなるか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第464回2016/7/21

 翔吾が大塚に勝つことを望むとすると、不安な要素が多すぎる。佳菜子の心配は的中するはずだ。
 だが、待てよ、佳菜子は翔吾の負けを予感しているのではなく、翔吾の「眼の下やまわりの疵」を心配しているのだ。
 佳菜子の心配だけでも、十分に不安なのに、広岡までも何かを予感している。

広岡には、しかしそのやりとりが、なぜか不安なものに聞こえた‥‥。


 この先、翔吾か大塚のどちらかが世界チャンピオンになるかもしれない。しかし、世界チャンピオンになるボクサーが『春に散る』という小説にとって、重要なのではないと感じる。
 チャンプの家の四人の元ボクサーにとって、翔吾にボクシングを教えたことは大切なことであった。だからといって、四人が世界チャンピオンを育てることを目指しているかというと、それは違うと思う。


 昨日、実際に日本人ボクサーの世界戦が二試合行われた。
 二人の日本人ボクサーは敗者も勝者もすばらしい戦いを見せてくれた。
 それに、対戦相手も強かった。
 最終的には、スピード、力、技術の差が勝敗を決めた。差はあったが、わずかであり、敗者も高いレベルに達していることがわかる。
 敗者は精神力が弱くトレーニングが不足しているとは言えないとつくづく感じた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第463回2016/7/20

 たちまち試合の前日になってしまった。
 スパーリングは、接近戦のままだったのか?
 広岡は、翔吾と中西へのアドバイスをしなかったのか?


 膝をたたくと、膝の上に乗る。薬をつけるときに我慢をさせる。こういうことは、犬はやるが猫はやらないと思っていた。
 猫と暮らすのも四匹めとなった。今の猫は五歳を超えた。そうすると、こういう猫の行為が珍しいものでなくなる。猫は、一緒に生活している人に対してこのくらいのことはする。
 それにしても、佳菜子の力は相変わらずのようだ。そして、チャンプの家の住人は佳菜子の力を受け入れているだけで、利用しようとはしない。だからこそ、彼女の力が発揮されているのだ。
 試合の結果を、前のように言い当てはしないだろうが、佳菜子の予知する力はなにかの形で出てくるだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第462回2016/7/18

 翔吾の考え方は間違っている。ボクサータイプをいかに打ち合いに持ち込むかを練習するのに、両者がファイタータイプのような打ち合いをしている。
 中西が最初から打ち合ってくるとしたら、翔吾はむしろ大塚のような戦い方をしながら、大塚の弱点を捜さなければならない。
 一番の近道は、中西に過去のスタイルで戦ってもらうことだ。中西が徹底して足を使い、翔吾はそのボクサータイプの中西を打ち合いに持ち込むための戦術を考えることだ。

 一方、中西も間違っている。「いい試合を組んでもらえない」のではどうしようもないが、今のままのファイタータイプでは、世界は取れない。ファイタータイプだとしても、何か変えなければならないだろう。

 翔吾も中西も今のままの接近戦を続けているのでは、「階段」を昇れない。
 それを打開するのは、広岡だ。広岡の言葉が二人を同時に変えると思う。先ずは、中西の戦い方を直すのではないか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第461回2016/7/17

 スパーリングでの中西は、広岡がアメリカで観た中西とは違うボクシングをした。翔吾も今までの戦い方とは違う動きを見せている。
 アウトボクシングが得意であっても、世界を狙おうというボクサーなら、国内チャンピオンレベルのファイタータイプよりも強いパンチを持っているということだ。

広岡はその中西に近づいて話しかけた。

 広岡は普段こういう行動をとらない。中西のボクシングの変化がよほど気になったのだ。
 「意外そう」な顔をした中西は、何を言うだろう?今のスタイルは、アメリカで注目を浴びるようになり、人気をより得るためには必要なものだったと、言いそうだ。

 このスパーリングの場面は、今までと違う。佐瀬たちの姿がない。佐瀬が来ていないわけはないが、描かれていない。
 これは今まで以上に、広岡が中西と翔吾のボクシングに関わっていくということだ。

gontii スーパーベスト 2001-2006 GONTII

 NHK FMの「世界の快適音楽セレクション」を聴いているので、GONTIIのアルバムを聴いてみたくなった。
 イージーリスニングというカテゴリーがあるが、私にとってはまさにこれだ。BGMとして聴いてもよし、一曲一曲を味わってもよしだ。
 ベストアルバムだけに、統一感がないのが難点といえば難点だが、安心して楽しめる。それに、ギターテクニックだけを誇示するようなところがないのもよい。

 こんなにシンプルに演奏される「Danny Boy」は珍しい。ストリングスの部分がしっかりしているのも感心した。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第460回2016/7/16

 ストーリーに沿って、時々見え隠れする登場人物の一人は佳菜子で、もう一人はテレビの中で逆転勝利した日本人ボクサーだった。
 謎に包まれていた佳菜子のことはかなり明らかになった。
 日本人ボクサーは、中西という名前で大塚と試合をすることになるかもしれないことが、以前の回で令子から話されていた。だが、その後は出てきていなかった。

 中西利夫、彼は重要な登場人物になると思う。なぜなら、まったくボクシングから離れていた主人公の心を久しぶりにボクシングに向けさせた張本人だったから。
 そして、現在の中西は、本物のトレーナーを心から欲しているボクサーだから。

 広岡には、あのときの真摯でクレバーな雰囲気が消え去り、どこか荒んでいるような気配が感じられた。

 もしも、「あのとき」がなければ、広岡がチャンプの家を作ることも翔吾にトレーニングすることもなかったはずだ。


 チャンプはどうなったのかなあ?

 宇佐見の来訪以後の佳菜子の様子はどうなのかなあ?

 広岡は、アメリカの知り合いの女性に、佳菜子のことを相談したのかなあ?

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第459回2016/7/15

 佳菜子が戻って来て、翔吾と一緒にチャンプを捜し見つけるという展開にはならなかった。
 しかし、佳菜子のことは出てきた。翔吾と佳菜子は何でも打ち明けあう仲になっていた。

 広岡は、チャンプを可能な限り捜して、見つからなかったので、それ以上の深追いはしなかった。翔吾は、無駄とわかっていても、チャンプを捜し続けた。
 広岡は、この違いを深く感じている。この二人の感覚は猫についてのことだけではない。ボクシングについても、好きになった女性についても同じなのかもしれない。

 試合の前にスパーリングの相手のことが出てきた。ここでは、単にスパーリングの相手というだけでなく、翔吾と大塚の試合にも影響するボクサーが登場するような気がする。


 広岡の言動には、翔吾を大塚に勝たせ、チャンピオンにも勝利させて世界チャンピオンにするという強い願いが感じられない。なぜだろうか?

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第458回2016/7/14

 心臓の発作に襲われ、それが原因でボクシングをやめたと思っていた。読者がそう思うように描かれていた。
 やめた理由を、広岡自身が語るのは、それが翔吾にも当てはまるからか。
 もしも、翔吾が「すべてにおいて及ばない」相手と対戦することがあれば、そのときはボクシングから身を退けということか。
 広岡の「自分が遠く及ばない人物がいる。それがわかっていながらその世界に止まるわけにはいかない」という思いを、この回だけでは理解できない気がする。


 そろそろ佳菜子が帰宅するだろう。彼女ならチャンプの居場所を察すると思う。

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