2016年08月

 どんな破天荒な小説にも、現実世界を生きていくために役に立つことが含まれている。

 親子・夫婦を土台とする家族の拒否

 広岡には、父も兄弟もいる。藤原と星は結婚していた。翔吾の両親は健在で近所に住んでさえいる。
 しかし、見事なほど家族を基盤とした人間関係は出てこない。それぞれの家族のことを気にかけていたのでは、チャンプの家の物語は成立しない。
 では、昔の仲間との共同生活が夢物語かというと、そうでもないと思う。逆に、現実的に藤原、星、佐瀬のような境遇の男の老人と、親子だから夫婦だからといってどこまで一緒に暮らせるだろうか。親子、夫婦だからというだけで、一緒に暮らしていくのは難しい。
 チャンプの家の暮らしには、いくつかの仕掛けがある。生活費の分担、家事の分担、個々の独立を守る住居形態、相互に深入りをしない人間関係、そして、共同生活の技術と意識を構成員が身に付けていること。
 家族による暮らしの経験しかない者にとっては、不可能な暮らし方だ。

 現実の超高齢化社会では、親子夫婦を土台とした家族関係はもはやその機能を発揮することができなくなっている、と気づかされた。


 子育て・教育を介しない世代交代

 
佳菜子は、感覚だけで広岡を信頼した。だが、何も相談しないし、打ち明けもしない。広岡は、佳菜子へ感謝はしたが、それ以上のものはない。
 翔吾は、広岡にボクシングを教えてほしかっただけだ。広岡は、積極的に教えはしなかった。だが、翔吾の存在を無条件で受け入れることができた。それは、ボクシングという共通項があったからで、ボクシングについても年齢や経験にこだわらない関係性が見えた。
 年長で尊敬すべき人という意識は、若い二人、翔吾と佳菜子にない。
 育てたい、教えたいという意識が、老人、広岡にない。
 老人の方にあるのは、自分にできるのはただ見つづけるだけという気持ちだ。
 年長者は尊敬すべき、育ててもらった恩に報いるべきという価値観は、通用しなくなっている。

 現実の超高齢化社会の老人と若者の間では、親子、先生と生徒、師匠と弟子、先輩と後輩ということが、互いの信頼を築く要素にならなくなっていることに気づかされた。


これで、『春に散る』の感想を終わります。
ブログを訪問してくださった方々、ありがとうございました。
 

 主人公は、死ぬ。
 
 藤原、佐瀬、星は、本人たちがその気になりさえすれば共同生活を続けられる。
 翔吾と佳菜子は、アメリカに渡り、それぞれの夢の実現へ歩みだせる。
 主人公の遺書がそれを裏付けている。遺書だけでなく、令子が主人公の遺志を実現させるであろう。

 広岡の死を、佳菜子の感覚が察知している。最終回の設定だ。


 主人公は、去った。が、‥‥

 この花の道を歩きつづける自分の後ろ姿が見えたような気がした。顔を上げ、ただ歩いていく。

 最終回は、「広岡」が去る場面が描かれている。

 この小説は、想像の部分と同時に現代の現実をも描いている。
 意識を失いそうな広岡に通行人が声をかけている。声をかけた通行人の通報で病院へ搬送されれば、現代の医学では治療も可能であることを、作者は意識においているのではないか。
 心臓発作からも救われることは珍しくない。そして、現代の日本では「広岡」とその仲間の年代にはまだまだ時間が残されている。

 「広岡」は、舞台から去るが、「広岡」のさらなる先の姿が、どこかで描かれるのではないか。
 私の強引な読み方だが、最終回の設定はそれを物語っている。 

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎最終回2016/8/31

 ボクシングは、最終的には勝ちと負けしかない。勝ちに喜びを見出さなければ、勝負は成立しない。
 それは、正当な勝者の誕生には、敗者が存在することを意味している。敗者も全力で戦ったことは間違いない。
 勝者には、勝った喜びがある。しかし、勝者中の勝者、チャンピオン中のチャンピオンには、勝つ喜びを超えるものがあることを、『春に散る』は描いている。

 それは、何か。原作中の文章を引用する以外にはない。が、私の感想としては、次のようなものだと受け取った。
 何からも制約を受けす、誰からも束縛されない場を体験すること。そこには、勝ち負けを超えた勝負の世界の至上の場があった。

 「この眼は、あの試合で、見たいものを見ましたから」
 その言葉を耳にした瞬間、広岡に、体の芯を何か得体の知れないもので刺し貫かれたような戦慄が走った。
 翔吾は、あの試合で、見たいものを見たという、たぶん、あのような場で、あのような試合をした者にしか見えないものを、翔吾は確かに見たのだ。
 「いつだ」
 「十一か、十二ラウンドのときでした」
 「何が見えた」
 「誰もいないリングです、レフェリーも、バイエフも、俺も、誰もいない‥‥」

 
この体験が成り立つには、前段があった。

 翔吾がチャンプを見ながら言った。
 「俺も、チャンプみたいにリングの上で自由になれるでしょうか」
 「なれるさ」
 すると、翔吾が月に眼を向けて言った。
 「自由の向こうには何があるんでしょう」
 それは、たぶん月の裏側のように自分が見られなかったものだ、と広岡は思った。リングの上で本当に自由になった者には、いったい何が見えるのだろう‥‥(494回)

 月明かりの下でのマス・ボクシングの後の翔吾と広岡のやりとりだった。二人は、この時から「自由の向こうに」ある「何」かを求めていた。

 『春に散る』は、今までに幾度か、勝者が敗者になることを描いている。
 真田が読ませたヘミングウェイの短編小説では、勝ちと負けの紙一重さが描かれている。劇的な逆転勝利をした中西は、その勝利によって自分のスタイルを失った。バイエフは、予想外の勝ちで世界チャンピオンになったがゆえに翔吾に敗れた。
 また、敗者が勝者になることも描いている。藤原も佐瀬も星も敗者だ。だが、今は負け続ける敗者ではない。
 広岡こそ、野球で、ボクシングで敗者であった。

 広岡は敗者ではなかったと、私は考えたかった。だが、最終回で描いているものは、そうではなさそうだ。
 『春に散る』は、翔吾が見たものを描いている。広岡は、それを見ていない‥‥。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第504回2016/8/30その2

 広岡が、日本を出た理由がわかったような気がする。
 広岡への不公正な判定が、日本を離れた真の理由ではなかった。広岡は、日本にいては、真田と周囲の人たちの願いを叶えることができないのを悟ったのだ。だから、令子の愛を受け入ることができなかった。
 過去のこの思いは、令子に伝わったのではないか。二人が歩いたあの「花の道」で。
 だが、四十年後の今、真田と仲間の願いであった真拳ジムから世界チャンピオンを出すことを叶えることができた。それは、父の遺志を実現したいという令子の今の願いでもあった。
 広岡は、令子の愛を受け入れることができなくて、その後の人生で自分と他の人との間に常に距離をとって生きてきた。ところが、自分の若いころを思わせる翔吾に出あい、ボクシングを通して、翔吾を心から受け入れることができた。

そのとき広岡は、自分が他者に対して、その存在のすべてを無条件に受け入れたのは初めてのことだったのではないかと思った。(第469回)

 
 翔吾は、視力を回復しても、二度とボクシングはできないと思う。だが、翔吾本人も佳菜子も、それで落胆はしないと思う。なぜなら、翔吾はどんな逆境をも自分で乗り切っていける力を得たから。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第504回2016/8/30 

 勝利は、次のことを意味すると感じた。

 広岡は、真田会長の願いを実現させた。真拳ジムから世界チャンピオンを出したのだ。
 しかも、その勝ち方は、インサイド・アッパーでもクロス・カウンターでもなかった。僅差の判定に持ち込めたのは、第九ラウンドの広岡の叫び
「踊れ!」(501回)
だった。
 大塚のスピードとテクニックは、真田会長が理想としてボクシングだった。大塚の完璧なアウト・ボクシングを身に付けていなければ、翔吾が判定で勝つことはできなかった。

 広岡は、藤原と星と佐瀬の生き方へ決して口を出さなかった。ただ、家を準備し、彼らと昔と同じように暮らしただけだ。可能であれば、これからもそうするだろう。
 広岡は、佳菜子に対しても、何かを教えたり世話をしたりはしなかった。佳菜子の生い立ちを知っても、今までと同じように、彼女の生き方を見つづけている。 
 広岡は、トレーニング中も翔吾のボクシングを、見つづけた。教えているのは短い期間に過ぎなかった。

 だが、広岡は黙って試合を見つづけた。
 見つづけること。たぶん、自分にできるのはそれだけのはずだ‥‥。(501回)


 視力を失うかもしれないが、翔吾の戦いたいという思いを否定せずにただ見つづけたのだ。これは、戦いをやめさせるよりも苦しい選択だ。
 そして、その選択の結果が勝利としてもたらされた。
 なぜ、そうできたのか。それは、大塚に勝利した翔吾を、次のように見ていたからだと思う。

絶望的な状況の中でひとり危険な海に乗り出し、ひとりで航路を見つけ、ひとりで嵐を乗り切ったからだ。(470回)
 

 
広岡の今までの人生と今の生き方が、この勝利に結びついている。



 翔吾に付き添ったのが佳菜子でないのは、若い二人の広岡への信頼からだろうか。
 不安なのは、広岡自身の検査と治療が手遅れにならないかだ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第503回2016/8/29

 予想しない結果だ。

 作者が、判定についてこれだけ詳しく書いているのは、この判定が正しいものであることを伝えたかったのだろう。
 だから、この勝利は僅差とはいえ、間違いなく翔吾の勝利なのだ。
 この勝利が伝えていることは多い。
 
 だが、広岡が抱えた翔吾は、どんな状態なのか、何を言うのか。まだ続きがある。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第502回2016/8/28
 
 クロス・カウンターでも決着がつかない。
 残るラウンドは、十一と十二ラウンドのみ。両者最後のラウンドまで倒れなければ。
 

 広岡の立場に私がたてば、次のようにしただろう。
○共同生活はごめんだ、と言う星を説得する。
○佳菜子に、家族のことや生い立ちを尋ねる。
○翔吾に、大塚との試合をさせない。それができなくとも、眼のことを知れば、世界チャンピオンへの挑戦をやめさせる。それもできなければ、第九ラウンドでタオルを入れる。
 それより前に、日本へ戻ってすぐに最新の治療が受けられる病院へいくだろう。
 広岡は、そうはしなかった。

 見つづけること。たぶん、自分にできるのはそれだけのはずだ‥‥。(501回)


 
広岡は、小説の中の架空の人物。現実の世界はこうはいかない。
 でも、私には、現実の一部しか、現実の表面しか見えていない。
 小説は、作家にしか見ることができない現実の奥底を、読者に見せてくれる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第501回2016/8/27

 主人公広岡の気持ちを読めていなかった。
 広岡は、世界チャンピオンよりも翔吾の眼を優先して、眼の状態が悪化すれば、タオルを入れると読んでいた。
 タオルと入れるとすれば、今しかない。しかし、星が言ったにもかかわらず広岡はしなかった。

 広岡がそうしないのは、『春に散る』の登場人物の気持ちを丹念に読んでいればわかったことだ。





 第九ラウンドの戦いは、翔吾と広岡二人だけのトレーニングの場面に似ている。

不意に広岡が右のパンチを放ち、翔吾が左で迎え打つ‥‥。(487回)

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第500回20168/8/26

 試合の最中だが、令子の言った言葉が私の頭から離れない。

「でも、いまは仲間がいるじゃない。黒木君や佳菜子ちゃんもあなたを慕ってる。それ以上、何が必要だと言うの?」 490回 

 広岡の今を言い当てていると思う。
 打ち込んできたボクシングでは、チャンピオンになれなかった。しかし、40年後の今、若いころのボクシング仲間と信頼し合って共同生活をしている。その共同生活とボクシングを通して、二人の若者と知り合った。広岡には、二人の若者に何かを教えたなどという気持ちはない。しかし、黒木と佳菜子の立場からいえば、広岡に人生の指針を与えられたと思っているだろう。
 ボクシングに打ち込んでいたことが、ホテルの仕事に打ち込んできたことが、その成果を見せている。人生の終盤にきて、広岡に満ち足りた時間を与えていると思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第500回20168/8/26

 意外だった。
 ここで、インサイド・アッパーが出るとは。
 ということは、広岡直伝のクロス・カウンターがまだある。

 翔吾の眼が致命的な状態になる前に試合を終えられるか。
 広岡の心臓は、試合の終わりまでもつか。

 翔吾は、相手を倒せるか。


 連載は、あと5回。

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