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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2016年08月

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第499回2016/8/25

第六ラウンド

翔吾をなかなか捉えられないことにバイエフが苛立ち始めた。

 これは、大きな変化だ。相手の「苛立ち」は、翔吾のチャンスにつながるはずだ。

(略)バイエフは打たれても、それをものともしないという勢いで接近し、強引に連打を放ちはじめた。

 これも、今までのラウンドと違う。翔吾にとって危険ではあるが、翔吾はこういう場面を何回か経験している。中西とのスパーリングもこれと似た展開が多かった。

(略)顎を打ち抜かれた翔吾は、(略)

 顔面には違いないが、眼の周囲でなければ、立ち上がれるかどうかは、体力と気持ちの問題だ。もしも、翔吾が致命的なダメージを受けたり、眼の状態が悪くなれば、広岡は迷わずタオルを投げ込むと思う。広岡の判断が正しいことと、広岡の言葉が届くことを期待する。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第498回2016/8/24

それが自分の眼を守る最善の方法だと考えたに違いなかった。

 勝つことと同時に眼を守らなければならない。
 二ラウンドまでは、翔吾のジャブがバイエフの体力を消耗させ、ポイントも翔吾に有利だ。だが、‥‥

(略)一発が眉間に入り、翔吾の頭をガクッと後ろにのけぞらせた。

 ラウンドが進むにつれて、バイエフのパンチが翔吾の体力を消耗させ、翔吾の眼への負担を増す。

 
 眼へのダメージをどうやって防ぐか?
 クロス・カウンターをいつ狙うか?
 そして、今までにない戦術が出るか?

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第497回2016/8/23

 おもしろいアィデアだ。大塚の完璧なアウト・ボクシングをどうやって身につけるかは、明かされなかった。それが、出てきた。
 ただ、アウト・ボクシングと広岡のクロス・カウンターだけでは、何かが足りないような気がする。たとえ、翔吾が勝たない場合でも。

(略)バイエフは、驚いたような表情を浮かべた。

 きっと、すぐに翔吾の動きに対応して、強力に攻撃してくるだろう。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第496回2016/8/22

 挿絵が、なんともいい!

 チャンプにとっては、試合の結果はどうでもいい。
 チャンプが期待しているのは、翔吾と佳菜子と広岡たち四人みんなが無事で帰ってくることだ。そして、六人揃っての生活が昨日と変わらずに続くことだ。


 いつもなら、試合の結果がどうなるか、いろいろと予想するところだ。でも、どんな結果でもいい。チャンプの家のみんなが無事に戻れさえしたら。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第495回2016/8/21

 藤原と佐瀬と星は、食事や日常生活で広岡に頼っている面が多い。もちろん、住居の費用は広岡任せだ。それでいながら、三人それぞれにけっこう好きなように暮らしている。
 広岡の病気のことに気づきながらも、早く検査や治療を始めるように勧めなかった。それどころか、翔吾のトレーニングで広岡の体に気遣うこともしていない。
 それは、佳菜子と翔吾も似たようなものだ。
 では、チャンプの家の住人が、広岡に家賃を払うと言い出したらどうだろうか。また、広岡に早く病院へ行き検査を受けるように強引に勧めたらどうだろうか。
 世話になっている人に恩を返すこと、大切に思う人を気遣うこと、それは一様ではないと考えさせられた。

 前回では、広岡と翔吾の心の交流があった。
 今回は、広岡と藤原と佐瀬と星と翔吾の心が、神代楡のテーブルの前でつながっている。
 広岡は、今、満ち足りていると思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第494回2016/8/20

 それは、月の光を浴びながら、まるでボクシングによって語り合うかのように、長く長く続けられた‥‥。

 美しい場面だ。
 これ以上のことがあるだろうか。
 二人は、世界チャンピオンになることよりも価値のある時間を過ごしたと思う。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第493回2016/8/19

 広岡が元気なうちに世界チャンピオンになろうとしている翔吾の気持ちは、よくわかる。
 広岡は、真拳ジムから世界チャンピオンを出すことを、自分がすべきこととしていた。それは、亡くなった真田会長が望んでいたことであり、真田会長の望みにこたえようという気持ちは強い。
 翔吾は、そんな広岡の気持ちを具体的に聞かなくとも、わかっていたのであろう。
 では、広岡の方は、翔吾が世界チャンピオンになったら心から喜ぶだろうか。たとえ、世界戦が無事に終わり、しかも翔吾が勝っても、眼に不安を抱えていることに変わりはない。それでも、広岡は満足するだろうか。私には、広岡が心から喜ぶとは思えない。
 翔吾は、広岡を信頼しきっている。広岡は、翔吾を無条件で受け入れている。そんな二人だが、互いの心の奥を知るのは難しい。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第492回2016/8/18

「いまになって訊いても遅いけど」

 本当にそう思ったらこうは言わない。今になってはどうすることもできないが、訊いておきたいのだろう。
 広岡は、日本に戻って来て思いもかけない多くのことをやり、仲間からも若い二人からも慕われている。しかし、彼がそれを心から喜びすべきことをやり遂げたとは感じていないように思う。
 令子にとっても、広岡にとっても、昔の別れの理由をはっきりとさせなければならないのではないか。


 翔吾の世界戦へ向けての不安がまた増えた。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第491回2016/8/17

「中止にしてもいいのよ」

 令子のこの言葉が、冷静に翔吾のことを考えている結論だ。
 以前の藤原、佐瀬、星の間で交わされた議論「見えなくなった眼で生きていかなければならないんだぞ」にも結論は出ていない。
 スパーリングも十分にできない状態で、不安を抱えながらどうやって世界チャンピオンに挑戦しようというのか?
 でも、冷静で理に適った考えがいつも最良というわけではないのだろう。


 桜が咲き始めた土手を歩く広岡と令子の話は、過去のことか、現在と将来のことか。それとも何も言わずに、時を過ごすのか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第490回2016/8/16

 令子がなぜ真拳ジムを引き継いだのか、ずうっと疑問だった。やっと、その理由がわかった。

「(略)やっているうちに、もしかしたらこれこそ自分のやるべき仕事だったかもしれないと思うようになってね。(略)」

 これこそ、その理由であり、これ以外にはないのであろう。

 職業としての弁護士とボクシングジムの会長では、その収入の安定度や社会的な信頼度では差がある。彼女は、そういう社会一般の評価を度外視して、「自分のやるべき仕事」を選んだのだ。


 広岡が、日本に戻って来た理由も、はっきりしなかった。

「(略)未来への希望もなければ、たったいまの欲望もない。(略)わずかに残っていたのは、もし日本に帰ったら‥‥という自分でも得体の知れない胸のざわつきだけでした。(略)」

 これこそが、日本に戻って来た理由であった。
 
 広岡と令子の言葉には、共通点がある。
 周囲の期待や自分が目標としてきたこととは別のやるべきことを求めている点。そして、自分のやるべきことが、ボクシングに関わる点。


 令子の次の言葉は、当たっていると思う。

「でも、いまは仲間がいるじゃない。黒木君や佳菜子ちゃんもあなたを慕ってる。それ以上、何が必要だと言うの?」

 もしも、広岡に必要なことがあるとしたら、令子への気持ちを過去に遡って伝えることだと思う。

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