2017年01月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第15回2017/1/16

 舞台の全部が権五郎の妻マツの準備だっとは、予想できなかった。いわれてみれば、芝居好き病膏肓となれば、芝居関係すべてのことに、とことんのめり込むのはそれほど珍しくはない。権五郎も、マツにせがまれて、自分もまんざら嫌いではないのだから、金に糸目をつけずにやらせたのであろう。
 だが、いくら凝った趣向であっても、しょせんは素人の集まりの芸であれば、前回14回の舞台と舞の描写は大袈裟だと思う。まして、相手役が全くの素人であったのだから、なおさらそう思える。ここは、作者の筆力にしてやられた。
 二代目花井半二郎の思わせぶりの登場は、権五郎に何か頼み事でもあるのかと予想していた。だが、半二郎が、墨染役の息子の喜久雄に、役者としての才能を見出す、という展開なのかもしれない。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第14回2017/1/15

 長崎の親分衆の集まる新年会、料亭の大広間の舞台で、宴会の余興としては破格としかいいようのない歌舞伎の名場面が繰り広げられた。
 私は本物の歌舞伎の舞台を観たこともないし、舞台中継などにも興味を持ったことがなかった。それでも、この文章から歌舞伎の一場面を味わうことができる。

 この墨染と関兵衛、実は仮の姿でございます。といいますのも、墨染、これ実は桜の精。そして関兵衛はといえば、天下を狙う大悪党、大伴黒主(おおとものくろぬし)なのであります。

 この独特の語り口は、このためにあったのかとさえ思われる。まるで、舞台を観ながら、練達の解説者の話を聞かされているようだ。

響き合う鳴物に、鳴り止まぬ拍手。そんな舞台と客席を裂くように、定式幕が引かれます。

 
観客がどれほど見とれていたかが伝わってくる。しかも、観客は酔って刺青も露わな若い組員も多いというのだから、この舞台が華やかで墨染がいかに艶やかであったかが分かる。

 

 これだけ、見事な舞台を読者に描いてみせただけに、作者はここからどういう話の運びをするのか。先ずは次のような疑問が湧く。  
①権五郎の息子がいかに舞踊の才能に恵まれていたとしても、専門家による稽古がなければならないはずだ。
②権五郎がいかに歌舞伎好きだとしても、自分の息子にここまでさせるには何か訳があるはずだ。
 
 愚連隊上がりで、犯罪にも手を染めている権五郎がいつどのように歌舞伎に魅せられていったのか。
 そして、この中学生の一人息子(13回)は、どんな気持ちで舞台に立っているのか。
 次回以降に興味をそそられる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第13回2017/1/14


「こりゃ、見事な墨染(すみぞめ)でんなあ。こんな達者な芸妓さんが、長崎にはおりますねんなあ」

 思わず呟(つぶや)く半二郎に、

 本物の歌舞伎役者にこう言わせるのだから、素人芸の域を超えているのは確かだ。
 舞台の墨染は、歌舞伎役者が芸妓と見誤るほどの身のこなしを見せ、その場の皆を舞台に釘付けにした。それを舞っているのが、ヤクザの親分の一人息子だとは。これだけでも、十分に驚くべきことだ。
 それに加えて、父親は、この息子に歌舞伎の女形の舞いを喜んでさせ、自らも楽しんでいる。権五郎の稼業を考えれば、一人息子に、遊女の舞など断じてさせないだろうに。

 権五郎のこの一人息子、美貌と才能に恵まれているに違いない。そして、なんと数奇な運命を背負っているのか!

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第12回2017/1/13

 権五郎の趣向なのであろうか。このような新年会にしては、ずいぶんと本格的な舞台が準備されていた。
 花井半二郎が、権五郎を喜ばせるために用意したものかと思ったが、そうではなかった。
 抜き身の日本刀がいかにも似つかわしい権五郎だが、歌舞伎への思い入れは本物のようだ。愚連隊上がりで、抗争に明け暮れた彼が、いつどこで歌舞伎好きになったのだろうか?
 そして、遊女墨染を舞うのは誰なのだろうか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第11回2017/1/12

 権五郎は、ここまでの来歴を見ると命を恐れない武闘派だ。愚連隊上がりで、日本刀を持ち仲間の仇討ちに向かおうとする。だが、むやみに突っ走るだけではない。拳銃や薬物の密輸に手を染め、台湾のヤクザとも交流がある。宮地組の親分と手打ちをしたのも、義理人情だけでなく、損得勘定の上であろう。
 それに何と言っても、己を抑えることができる。

大親分が虚勢を張れば張るほどに、当の権五郎は恭しく拝聴し、(略)(3回)

 このような表向きの顔を見せる。役者半二郎に名前のことを言われた時にも、謙遜してみせる。(7回)
 その権五郎だが、座が騒がしくなると、いつまでも表向きの顔ばかりはしていないようだ。
 また、名前の由来が歌舞伎十八番からだから、権五郎は歌舞伎好きに違いない。その彼の前に、幕が張られた。そろそろ、この小説の主人公が登場するのか?それとも、権五郎が主人公なのか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第10回2017/1/11

 任侠の世界を題材にした小説や映画では、果てることのない抗争の繰り返しが常に描かれる。
 宮地組が自滅して立花組が長崎を我が物にしていったことが分かった。だが、今度はそれに対する宮地組の恨みは収まることはない。今は、立花組に面と向かって歯向かう者はいないようだが、水面下では不満を抱き続ける輩は多いに違いない。
 ここまでは、立花組の権五郎と宮地組の親分の関係が明かされてきた。だが、熊井親分を殺された愛甲会のことはまだ分からない。新年会に、若頭の辻村が来ているので、愛甲会は継承されている。では、愛甲会の親分は誰になっているのだろうか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第9回2017/1/10
 
 愛甲会の熊井が襲われて命を落としたのが、昭和三十一年で、享年二十八歳と(8回)ある。
 そうすると、抜き身の日本刀を持った権五郎の写真も昭和三十一年のものであり、権五郎の年も熊井と似たものであったのだろう。

表へ出ようとする宮地組に追い込まれる形で、このころの権五郎は裏社会との繋(つな)がりを更に強め、台湾のヤクザと盃(さかずき)を交わしますと、拳銃、薬物の密輸に手を染めていくのであります。

 これは、その後の数年間のことで、当時の権五郎は、力で生き延び、ヤクザとしても相当に危ない橋を渡っていたと思われる。
 新年会は、昭和三十九年(1回)だから、権五郎が熊井の仇討ちのために宮地組と一触即発だったころから、八年が経っている。この間に、宮地組との睨み合い、そして手打ちがあり、さらに、権五郎が宮地組をしのぐ実力を得ていく出来事があったと推測できる。

朝日新聞朝刊2017/1/8我々はどこから来てどこへ向かうのかVol.8情報社会

1. 記事の冒頭部分と終末の一部分を引用して、要約する。
 
 ネットがつながった世界を、いまだかつてないほど膨大な量の情報が飛び交っている。いつの時代も人は、増え続ける情報と格闘してきた。現代の情報の海が大きくなろうとも、泳ぎ方はいくらでもあるだろう。

2. この記事から新しく知ったことが二つあった。
①ネット上で「虚構新聞」を発行している人が、ウソの情報を真に受ける人が増えたと話していること。
②活版印刷の登場で印刷物が爆発的に増えた時に、今のネットへの批判と似た意見が多かったこと。

3. 記事に不満を感じたこと
 過去に遡った視点は興味深かったし、文章全体も分かりやすかった。が、不満も残った。不満なことは、取材にある。この記事のための直接取材が少ないと感じた。
 記者の結論の根拠となる取材源は、おおざっぱに見て十二点ある。
二点は、記者の体験と直接取材。
二点は、外部の調査の一部分。
三点は、外国の学者識者の著書から引用と孫引き。
四点は、国内の学者識者の論文や発表等からの引用。
一点は、国内の作家の話からの引用。
 著書からの引用か、発表等からの引用かは、明示されていないので私の推測だ。しかし、海外の学者の意見の紹介と引用は、著書の一部分を取り上げていることは分かる。この取り上げ方が妥当なものであるかどうかは、読者には判断がつかない。
 少なくとも、国内の学者専門家の意見と研究成果は直接取材をした内容を読みたかった。
 また、同紙の連載小説・金原ひとみ作・『クラウドガール』がこの記事と合致するテーマを取り上げているのに、触れられていないのは、小説といえども同紙掲載のものは相互に紹介はしないという内規でもあるのだろうか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第8回2017/1/9

 役者で映画俳優の花井半二郎が、頼みもしないのに新年会に顔を出し、周りに集まった客たちに愛想を振りまいている。これは、権五郎の新年会を賑やかなものにし、結果として権五郎の手柄になるだろう。
 そして、自分にそういう効果があることを、半二郎は計算済みだと思う。ということは、半二郎には何か狙いがあるはずだ。
 今日の挿絵(束芋・画)は、権五郎の思い出を描いているだけでなく、これから半二郎に関わることをも暗示していそうだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第7回2017/1/8

 役者半二郎の周辺が、徐々に明かされてきた。半二郎を連れて来た愛甲会の辻村の親分が熊井勝利、その熊井と権五郎とは手を組んでいた。熊井が興行師なので、元々役者とは繋がりがあったのであろう。
 花井半二郎は、その辺の事情をよく知っていそうだ。この役者、手踊りや舞台に気を取られている素振りだが、実は権五郎の肚を探っているのではあるまいか。権五郎も、半二郎に役者、映画スターの男の色気だけではない何かを嗅ぎ取っている(6回)ような気がする。

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