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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2017年02月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第45回2017/2/16

 この教師は、厳しいけれど心配もしてくれている、と思いたい。が、尾崎という教師は、普段から喜久雄をヤクザの息子ということで毛嫌いしているだけのようだ。
 喜久雄を取り巻く大人たちと春江のことを見直すと、彼の環境は厳しい。
 父は、喜久雄のことを嫌ってはいなかっただろうが、本人の将来を真剣に考えてはいなかった。後妻のマツは、親身になって育てたが、自分の芝居好きを押し付けていた。彫師の辰は、中学生なのに金を払えば刺青を入れる。気の合う徳次は、命を落としかねない敵討ちに誘う。春江は、立花組が落ち目になっても離れないが、平気でポン引きをさせている。
 喜久雄の周囲は、とんでもない人ばかりだ。
 だが、本当にそれだけだろうか‥‥

 春江は、喜久雄より少し年上かと思っていたが、まだ中学生なのか?春江の母は、ちっぽけではあるが、スナックをやっている。それなのに、娘に身体を売らせるということはよっぽどの事情があるのだろう。
 春江と喜久雄が今の関係になったのには、何かが隠されているのか?
 
 喜久雄を殴ったのは、立花組に敵対するヤクザや中学生のワルではなく、喜久雄の先生だった。これが、喜久雄のこれからへのきっかけになりそうだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第44回2017/2/15

 先の展開の楽しみとなる伏線が、縦横に張られ続ける。

 殴ったのは、誰か。喜久雄はどうやって反撃するか。
 そして、いくつもの知りたいことが出てくる。
①脱走してきた徳次はどうなったのか。
②喜久雄はまだ中学校を卒業していないようだが、これからどうするのか。
③喜久雄と春江が、このまま長崎に二人でいられるのだろうか。
④役者花井半二郎は、いつ再登場するのだろうか。

 任侠の世界では、葬儀、法要を一般社会よりも重要視すると聞く。まして、亡き権五郎の女房マツは、喜久雄の生みの親の千代子の葬儀を気丈に取り仕切った女だ。そのマツの気持ちがどれほど悔しかったか、想像に余りある。
 マツも喜久雄も、もう辻村の魂胆を見抜いたはずだし、このまま辻村の世話になり続けるとは思えない。

 敗戦後の混乱が落ち着き、昭和の経済発展の頃の庶民の影の部分を、どうして忘れていたのだろう。また、東京オリンピックに日本中が沸いた頃にも辛い暮らしをしていた人々は多かった。それを、どうして取り上げないのだろう。
 私の知っているものでは、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が当時の市民の貧しさも描いているように感じる。だが、この映画も美化され過ぎているという批判もある。一部しか読んでいないが、漫画『三丁目の夕日』の方が当時の暮らしの辛さを忠実に描いていると思う。
 国宝で描かれている時代には、次のような変化があった。
 高校や大学に行くことが珍しくなくなっていた。結婚は恋愛結婚が当たり前になっていた。男女平等も理念だけは常識になった。就職すれば終身雇用が普通だし、給料が毎年上がるのも驚くことではなかった。
 しかし、そんな風潮とは異なる面があった。中卒での就職者が一定数いた。高卒と大卒の間に差ができ、学歴が幅をきかせていた。恋愛結婚といっても、結婚には年齢や家柄や収入が条件とされた。男女平等といいながら、職業上の待遇の男女差は明らかだった。そして、家電や自動車や住宅を得ることが幸福の条件のようになった。
 そんな風潮に飽き足らないものを感じてはいた。それが、大学紛争や労働運動へのシンパシーとなったと思う。
 
 しかし、大学紛争や労働争議に全く縁がない人々も多かったということを、もっと知るべきだ。

 「長崎ブルース」「長崎は今日も雨だった」、三上寛の「夢は夜ひらく」の歌詞の一部を引用する。

長崎ブルース 作詞 吉川静夫
逢えば別れが こんなにつらい
逢わなきゃ 夜がやるせない
どうすりゃいいのさ 思案橋

長崎は今日も雨だった 作詞 永田貴子
さがし さがし求めて
ひとりひとりさまよえば
行けど切ない 石だたみ

夢は夜ひらく 作詞 三上寛
サルトル マルクス並べても
あしたの天気はわからねぇ
ヤクザ映画の看板に
夢は夜ひらく


 この歌詞に描かれている雰囲気は、表には出てこなかった。また、昭和の文化を語る時にはサブカルチャーの扱いを受けていると思う。
 歌詞を改めて読むと、古代の和歌や近代の短歌につながる情調が流れていると感じる。また、日常を生きる力がどこから湧いてくるかも分かる気がする。

 喜久雄がこういう体験をどう生かしていくのか、楽しみだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第43回2017/2/14

 「長崎ブルース」「長崎は今日も雨だった」どちらも好きだ。でも、この曲が好きだったとは人前では言わない。ベンチャーズやローリングストーンズの曲を好きな曲としてあげる。
 青江三奈、クールファイブは、ひっそりと一人で聴く。

 この私でも、当時は給料が毎年上がった。ボーナスも出た。映画もテレビもアメリカのものが圧倒的に面白かった。それでいながら、夜は身銭をきって安酒場に行った。酒場の外れは、まさに、春江と喜久雄の世界だった。
 今、思うと、成長発展していたとされる世相の中で、夜は飲まずにいられないような何かを感じていたのかもしれない。
 東京オリンピック、バブルの頃には、明るい未来があったなんていうのは、あまりに皮相のことだと今改めて思う。
 
 喜久雄と春江は、一生を契り合うような刺青を入れた。
 春江は相変わらず夜の街に立っている。喜久雄は、そんな春江のヒモになっているかのようだ。
 徳次の姿は見えないし、喜久雄は親の敵討ちをしていない。
 喜久雄も春江も長崎を離れず、賑わいを増す繁華街の隅っこで生きている。

朝日新聞記事「生き方」より「在り方」 沢木耕太郎さん「春に散る」に加筆し書籍化2017/1/26

 この記事に紹介されている沢木耕太郎の言葉が、気になっていた。
 『国宝』に、「彫師の辰」のことが出て来て、再び思い出した。『春に散る』と『国宝』が描いている昭和生まれの男のことが気になるのだと思う。
 この記事から引用する。

 心臓を病み、40年ぶりに帰国すると、かつて同じ寮で過ごした3人のボクサーを訪ね歩く。彼らが家族もなく孤立していることを知り、再び共に暮らすことを思いつくが、仲間の1人から「昔をなぞっても仕方がない」と言われてしまう。

 
「仲間の1人」は、「星」だったと思う。「星」は、サーフィンに夢中になり、サーフィンだけに生きようとして挫折した。その後、ボクシングに目覚め、「広岡」と同じボクシングジムに入った。また、主人公の「広岡」がボクサーになるきっかけを与えたのが「星」だった。チャンピオンにはなれなかった「星」は、結婚して、女房と小料理屋を開いた。しかし、それは安定したものではなかったらしいし、女房に先立たれてしまった。
 仲間の他の2人も、老いて孤立した生活を送っていた。
 この元ボクサー3人のことが、連載が終わっても心に残り続けている。
 「広岡」は、経済的には成功をしている。仲間の3人は、成功者には程遠い老後を迎えている。これは、3人が元ボクサーだからか。違うと思う。
 中小企業の元会社員でも、自営業の元経営者でも、この3人との共通項は多いと感じる。
 また、元公務員や大企業の元会社員であり、家族と共に暮らしていても、精神的にはこの3人に近い男は多い。 
 その意味で、『春に散る』は現実社会を反映している。
 今新聞紙上を賑している退職したとたんに有名私大の大学教授になることの方が、庶民にとってはよっぽど夢物語だ。
 「広岡」にとっても、仲間の3人にとっても、『春に散る』のその後は、それぞれがより年を取ることだから、老人の「生き方」はより難しくなるだろう。
  
 『春に散る』の終末を思い出してみると、いくつもの疑問が湧く。
 4人の共同生活は今後どうなるか。「真拳ジム」は今後どうなるか。「翔吾」と「佳菜子」はアメリカに渡るのか。
 
 「広岡」は、そんな事柄に煩わされていない。考えようとさえしない。
 求められたことに応じているだけだ。「翔吾」にも「佳菜子」にも、何かを教えたり伝えようとはしなかった。仲間の3人を援助したという気持ちもなかった。求められたことに、自分ができる範囲で応えていた。
 そこがなんともいえない魅力だった。
 「翔吾」も「佳菜子」も去って行くだろう。仲間の3人も去って行くかもしれない。
 それとは違って、「令子」に頼まれて、「真拳ジム」でボクシングを教えるかもしれない。自分のボクシングを見失っている「中西」が「広岡」にトレナーになってほしいと頼むかもしれない。
 その時にどうするか、「広岡」は、その時に自分ができることを、自分がいちばん正しいと思うことをするのであろう。

 記事は、沢木耕太郎の講演会の言葉を引用している。

「一瞬一瞬をどう在るか。自分の在り方を意識することが、生き方より大事なのではないか」
 
 
 「
彫師の辰」は、「広岡」の精神的な父であった「真田会長」と同世代になるだろう。二人は、徴収され、復員し、敗戦後の時代を生きた。
 「広岡」と「喜久雄」は、ほぼ同世代であろう。いずれも、昭和時代を生きる。
 小説の時代背景をも考えながら、『春に散る』を思い出し、『国宝』を読み進めている。

朝日新聞夕刊連載小説・津村記久子作・『ディス・イズ・ザ・ディ 最終節に向かう22人』第6回2017/2/10
第2話 若松家ダービー①

あらすじ
登場人物
若松家 供子(母)  仁志(父)  圭太(長男 高一)  真貴(圭太の妹 小五)
フナこと舟井倫明(泉大津ディアブロのDF)
 
 若松家は、休日には家族そろって泉大津ディアブロの応援に行くことが習慣のようになっていた。ところが、圭太が半年ほど前から試合に足を運ばなくなった。供子は、圭太がボードゲームの仲間とでも遊んでいるのだろうと思っていた。供子と仁志は真貴を連れて、相変わらずサッカー観戦に出かけていた。だが、圭太は休みの日に遊びに行っているのでなくて、アルバイトをしていることが分かった。
 供子は、息子のことも気にしていたが、ディアブロの舟井選手の不振ぶりもすごく心配だった。
 ある日、事件が起こった。圭太のハーフパンツのポケットから、関西有数の歓楽街雄琴のコンビニのレシートが出てきたのだ。圭太は、今まで親に心配をかけるような子ではなかった。供子は、この事を夫仁志に相談するが、思い当たることもどうしてよいかも浮かばない。

感想
 
家族揃って、休日にサッカー観戦というのはよいことだと思う。そういう習慣なり、家族のイベントなりを始めたのは、親だ。子どもがある年齢になると、親の好みを押し付けられているように感じるだろう。子どももサッカー好きであれば、押し付けられていると感じていても断れないかもしれない。
 圭太は、試合に一緒に行かなくなる以前からこの家族揃っての行動が厭だったのかもしれない。

 「子育て」「反抗期」「子の親離れ」「親の子離れ」などの言葉が一般的に使われる。でも、振り返ってみると、心理学上の用語だったり、新しい造語だったりする。
 親が子どもを育て、子どもは親兄弟の中で育っていくのは自然なことだ。子どもが自立できるようになると、独り立ちし、親の方も子どもから離れるのが自然なことだ。ところが、昨今はそれがスムーズにいかないことが多い。
 その理由をとらえることは難しい。でも、もう一度考えてみたい。「子育ての方法」や「親の子離れの仕方」などをハウツーとして、把握しようとするのが役に立たないことだけははっきりしている。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第42回20172/12

 鳶職だった男は、一兵卒として戦場に送られた。男は、サイパン島で、組織的な戦闘が終わってもなおゲリラ戦を行わされた。男は、ジャングルの中で無数の蟻にたかられた。男は、爆弾で片足を失った。男は、米軍の捕虜となった。男は、戦後復員し、彫師になった。それが、彫師の辰だ。
 マツと千代子は、長崎で原爆を被爆した。
 辰は、戦前も賭場に出入りくらいはしていたであろう。でも、堅気の仕事をしていて、刺青はその魅力に憑かれていたのであろう。
 マツは、貧しくても素直で情のある娘であったろう。千代子は、子のためにも必死に病気と闘っていたであろう。二人の女は、戦闘員ではなく、ただ長崎で育ち、原爆投下の時にその地にいただけであった。
 
 日本が国家として昭和の時代に何をして、庶民が、とりわけ表面に出てこないような圧倒的多数の庶民がどんな影響を受けたかを、知ることができる。フィクションではあるが、ノンフィクションを支えるイメージを持つことができる。ここには、昭和の戦時下と敗戦後の日本の人々が描かれていて、誇張はないと感じる。
 喜久雄の思い描いていることは、敗戦後の日本の現状と、さらに東京オリンピックに沸き立つ復興日本の別の一面を象徴しているように思う。戦後の日本には、成長著しい表の面と、戦争の影響が残り続ける影の面があったことを思い知らされる。
 作者は、喜久雄を、鋭い感性をもった男として描いている。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第41回2017/2/11

 女形の舞にふさわしい体型だということが、描かれていて、気になった。

(略)少年の背中が華奢なせいか(略)

 喜久雄のことを「少年」と書いたのも初めてではないか。
 春江という女がいて、殴り込みの時には自分も駆けつけようとするし、刺青を入れている。一方では、見事に歌舞伎舞踊をこなし、親の敵討ちをする気がなく、華奢な背中をして刺青の痛みに弱音を吐く。喜久雄の二面性が表現されている。

 徳次が脱走してきた夜には、春江は白い背中を見せていた。(26回)二人が刺青を入れているのは、あの夜から時間が経っているのか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第40回2017/2/10

喜久雄を育て上げましたマツは、権五郎の後妻でありまして、実母というのは喜久雄が二つのころに亡くなっております。(39回)

(略)幼子ながらも、そこで寝ている実の母を魔物か何かのように恐れていた記憶もございます。(39回)

 ここから、喜久雄には実母についての記憶がほとんどないものと思わされた。

 二歳の幼子の記憶など頼りないものですが、喜久雄はこの二人が裏の長屋で話している姿をなぜか覚えております。(40回)

(略)その記憶のなか、苦しそうな千代子の背中を摩りながら、マツはこう話しかけているのであります。
「千代子さん、頑張らんば、せっかく原爆にも負けずに生き残ったとよ。病気なんかに負けてどうするね」と。(40回)


 喜久雄の記憶には、実母と育ての母の会話がしっかりと残っていることが描かれている。
 もうひとつ予想が覆された。
 
 このころすでに権五郎はのちに後妻となるマツを家へ引っ張り込んでおりました。(39回)

 ここから、後妻のマツは、情婦として権五郎の家に入ったと予想させられた。

 元々、マツは、権五郎が若いころから身の回りの世話をさせていた近所の婆さんの孫娘で、(略)根が素直といいますか、(略)(40回)

 
マツは、幼い喜久雄を育て、病床の千代子の面倒を見て、その葬儀の時には「誰よりも気丈に葬儀を取り仕切った」と書かれている。
 マツは、働き者で情の深い女であったことが描かれている。

 作者吉田修一は、連載という形式を操り、読者を巧みに誘導し、物語を楽しませてくれると感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第回2017/2/9 

 喜久雄が二歳のころというのだから、実母の思い出はほとんどないであろう。また、病気の母がいるのに、父が新しい女マツを家に入れていたことについても、幼過ぎて特別な考えは持たなかったであろう。だが、父が死んだ今は、実母についての思いは何かあるに違いない。
 実母は、どんな来歴の女性であったのか、喜久雄は聞いているのであろうか。

 喜久雄と徳次が出会ったときは、親分の坊ちゃんと組に拾われたガキと差があった。しかし、互いに幼い頃に母と死別していることと父がいない(徳次の父は生きていそうだが、いないも同然)ことで、今は似た境遇と言える。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第38回2017/2/8
 
 親分の一人息子なのに、撃ち殺された親の敵討ちをしようとしない。それどころか、ガキ同士の喧嘩で負ける。おまけに、大晦日の夜なのに女の所でくすぶっている。喜久雄のよい所と言えば、歌舞伎舞踊が見事だったことだけだ。
 それなのに、喜久雄がただの腑抜けとは思えない。春江の母に対して喜久雄が感じたこと、そして、父権五郎の死に際を見て、喜久雄が思ったこと、この二つのことが喜久雄の何かを表している。この男、何かとてつもなく大きくなるものをその身に潜めている、という予感を抱く。

 権五郎の一回忌は元旦かと思っていたが、命日は三日か四日になるのだろう。一回忌まで、まだ日にちがある。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第37回2017/2/7

 徳次の真剣さが、春江の言葉に顔も上げない描写から伝わる。
 一方の、喜久雄もまたいい加減な考えでないことが分かる。
 煙草の空き箱の傘のことを、どうして詳しく書くのかと思った。徳治がいくら力を込めて、敵討ちの計画を話しても、喜久雄はもう別のことを決心していたのであろう。だから、徳治の話を聴きながら、傘をもてあそんでいた。そして、話の区切りがついたところで、バラバラにした傘を掬い上げた。ここから、喜久雄には何か別の決心がある、と感じる。それが、次の文につながるのか。

「いつか、春江と一緒に連れてってやるけん、京都」


 
春江は中学校を卒業して間もない年頃だろう。時代は、昭和三十九(1964)年、春江十六~十八歳、喜久雄十四歳。
 金原ひとみ作『クラウドガール』の、杏は十六歳、晴臣は十七~十八歳。小説の設定を現代とすれば、時代は、平成二十八(2016)年。
 二組の若い男女の年代差は、五十年ほどだ。そして、この二組の男女が生きた年代を、私も生きている。五十年で、大きく変化したのか、それとも、社会や生活状態の変化はあるが、人の生き方に本質的な違いはないと言えるのか。

朝日新聞夕刊連載小説・津村記久子作・『ディス・イズ・ザ・ディ 最終節に向かう22人』第回2017/2/3
第一話 えりちゃんの復活⑤

あらすじ
 試合は、両チーム得点なく、ハーフタイムに入った。えりちゃんは、富士の選手について細かい動向を話せるほどになっていた。ヨシミは、イエローカードをもらった鶚のキャプテンに自覚をうながしたいほどだった。このことから、鶚に勝って欲しいと思っている自分に気づき、愕然とする。
 試合は後半に流れが変わり、オスプレイ嵐山(鶚)が得点し、そのまま一点を守って勝利した。ヨシミは、大騒ぎする観客の中で、自分はこのチームに引き分けではなく勝って欲しかったのだと、気づいた。
 えりちゃんは、CA富士が負けても、このチームを応援し続ける気持ちに変化はなかった。そんなえりちゃんを見て、ヨシミは、学校へ行けなくなっていた彼女を、ここまでサッカーを楽しめるようにさせてくれたCA富士というクラブに感謝する気持ちになった。

感想
 応援したいと思う人ができた。外に出て、大声を出せる場所が見つかった。えりちゃんが、復活できたのは、この二つだと思う。
 えりちゃんは、以前のままだったら、大学での人間関係を変えることはできなかっただろう。えりちゃんが大学での周囲の人の考え方を変えることは、容易にはできない。そうかといって、えりちゃんが、周囲の人たちと同じような感覚になることも難しい。そうなると、孤立するか、自分の本心を徹底的に隠して生活するかしかない。
 えりちゃんは、大学以外で、他の人に関心を持つ場を見つけた。さらに、スタジアムでサッカーの応援をすることで、自分の感情を思う存分発散することができた。応援するチームがあり、時々スタジアムに行くことができれば、大学での人付き合いは、表面的なものでもかまわなくなったのだと思う。
 学校や職場で人間関係に行き詰った場合に、好きなサッカーチームをつくり、応援するのは、効果のある方法だと感じた。
 他人に関心を持ち、好きになった人を応援するのは、自然でしかも生きることを楽しくする感情だ。応援する対象が個人にとどまらず、チームとなれば、応援する方の楽しさはますます増す、と感じた。

 ヨシミは、えりちゃんの応援行動よりも、深い所を望んでいるような気がする。そのチームを好きになるというだけでなく、応援するチームの成長と勝利を望むようになっている、と感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第36回2017/2/6

 煙草の空き箱で作った傘、覚えがあるなあ。どこで、見たかは忘れた。いや、昭和の頃の居酒屋か寿司屋だった。居酒屋と言っても、チェーン店などではなく女将一人でやっているような居酒屋だった。

 徳次の無鉄砲さにもなんとなく親しみを感じる。
 変な連想だが、徳次と同年代は、現実では全共闘世代と重なりそうだ。
 刑務所での脱走は無理だが、鑑別所となると可能性があるかもしれない、と思わせられる。このような設定をされると、うまくいきそうもない徳次の敵討ちの話が、現実味を帯びて聞こえてくる。

 喜久雄が何を思っていて、どんなことを言うか、それを待たされる回が続いている。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第35回2017/2/5

 権五郎は宮地の組員に撃たれたと思っていれば、敵は、撃った組員であり、それを指図した宮地の親分だ。宮地組は解散していても、宮地の元大親分は生きている。
 徳次が敵討ちと言っているのは、権五郎を撃った組員と親分を指しているのだろう。
 喜久雄の考えは違うようだ。
 
 挿絵には、ストーブに手をかざす喜久雄と徳次の手が描かれている。そして、徳治のものだと思われる膝を別の誰かの手が抑えている。これは、何かを暗示している。

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