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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2017年03月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第80回2017/3/23

 徳次がいなければ、喜久雄の新年会の踊りはできなかった。徳次がいなければ、喜久雄が半二郎の家に馴染めなかった。喜久雄が、半二郎にその資質を認められたのは、徳次の存在抜きには語れない。
 
 立花組の若頭に拾われなければ、徳次は喜久雄とは会えなかった。番頭の源吉がいなければ、徳次がこんな風に半二郎の家に溶け込めなかった。
 
 人と人との関わりが、人の行く末を定めていく。『国宝』の軸の一つは、ここにありそうだ。

51~60回
 ドスに手応えはあった。が、それと同時に体育教師尾崎の体当たりを食らって、喜久雄は弾き飛ばされた。宮地の傷は浅いものだった。
 傷の手当てに、医務室へ行った宮地の大親分に、尾崎が次のように、話を持ち掛けた。
 「今回の刃傷沙汰を公けにすると、失敗はしたが敵討ちになり、宮地の親分は敵役になってしまう。それを避けるために、喜久雄の今朝の刃傷沙汰を許して、逆に宮地の大親分の美談にする方が得策ではないか。」 
 尾崎のこの話に乗った宮地は、朝礼の場に戻ると、他の教師に押さえられている喜久雄に、
「親の敵を取ろうする行為はえらいが、敵は宮地ではなく、日本に蔓延っている暴力だ」
と諭した。その後、宮地は何事もなかったように壇上で、演説の続きを始めた。これで、喜久雄の敵討ちは警察沙汰にならずに収まった。しかし、宮地は「立花の息子は、すぐに長崎から追い払うこと」という条件を出していた。
 今や立花組を仕切っている辻村の意見で、喜久雄は大阪の役者花井半二郎の所に行かされることになった。
 慌ただしく一人で長崎を立った喜久雄の列車に、徳次が乗り込んでいた。徳次は、喜久雄のお供で大阪に行くと言う。
 真冬の早朝、二人は大阪駅のホームに降り立った。
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61~75回
 大阪駅では、役者半二郎の家の番頭源吉が、喜久雄と徳次を出迎えた。半二郎の屋敷で、喜久雄と徳次は、先ず、女将(半二郎の後妻)の幸子に挨拶をする。そこで、半二郎の一人息子で、喜久雄と同い年の俊介に会う。
 女将の幸子に勧められて、喜久雄と徳次は、俊介の義太夫の稽古を見に行く。義太夫の師匠は、初対面の喜久雄にも俊介と一緒の稽古をつけはじめる。
 義太夫の稽古には理由があった。事前に、半二郎は、義太夫の師匠に、「今度、男の子を預かることになったが、その子を俊介のライバルにしたい。また、その子には役者の資質があると思う。そこで、俊介と一緒にその子にも稽古をつけていただきたい」と頼んでいたのだった。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第79回2017/3/22

 この小説の語り物のような調子は、どんな効果を上げているのか。今回は、語りと登場人物の会話でほとんどが構成されている。
 この「あります。」という文末は、ナレーションや作者の視点というより、物語の語り手のものだ。私は、この調子に未だに慣れない。歌舞伎や舞台を観る習慣がないから、この調子に馴染まないのであろうか。
 また、登場人物の心理や背景が描かれないで、ストーリーが進むのにも、慣れることができない。喜久雄が単独で敵討ちをした理由、役者の修行をどう受け止めたか。徳次は誰の計らいで喜久雄と一緒の列車に乗ったのか。そういう、背景や心理が書かれないで、小説の時間だけが比較的のんびりと進む。
 詳しく書かれるのは、舞台となる昭和の時代の空気だ。しかし、その昭和の雰囲気と、この文章の語りの調子が一致しているとも感じられない。
 歌舞伎のせりふの調子や独特の人物表現と、この小説の展開や文章表現が重なっているのであろうか。いずれにしても、新聞連載小説としては、相当に異色だと思う。

 喜久雄は、本当に高校に通い、役者の稽古をもしているようだ。抵抗なく、半二郎の家の環境に馴染んでしまったのか?また、疑問が増える。

感想その3
 圭太が母に秘密を持つようになって、供子はすごく心配した。心配し過ぎ、干渉し過ぎると、母と息子の関係は壊れただろう。圭太と供子は、そうならなかった。その原因は、父仁志の動きにもあった。また、母が息子のことを信頼していたことが大切だったと思う。
 もう一つ注目できることがあった。供子は、自分の子どもの心配よりも泉大津の選手フナのことをもっと心配していた。これは、母といえども自分の子どものことだけにかまけていてはいけないということだ。供子は、家族以外に関心を持てる対象をもっていた。それが、スムーズな子離れにつながったと感じた。
 供子は、圭太が家族でのサッカー観戦から離れていったことが分かっても、それほど悲しまなかった。また、圭太が応援するクラブへ乗り換えようとも思わなかった。そして、圭太とは距離を置きながら、琵琶湖トルメンタスに感謝していた。
 母の息子離れが、すごくよいタイミングでできている。圭太はまだまだ親元にいるであろう。だが、応援するクラブは別々ということを通して、成長していく息子を、母が受け入れている。
 供子には、夫とも息子とも違うサッカーの応援への思いがあった。これが、役に立ったと思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第78回2017/3/21
 
 徳次が鑑別所から逃げて来て、春江の母の店にいた喜久雄を訪ねて来たときも、春江は、徳次に優しい言葉をかけていた。
「徳ちゃんって、上においでよ。年越しそば温めてやるけん」(34回)
 
今回では、弁天の面倒まで見ている。
気にかけてやる義理はないのですが、情け深いと言いましょうか、おせっかいと言いましょうか、結局、同じようにその鼻血をハンカチで拭きとってやる春江でございます。(78回)
 
 
春江は、情け深い、気立てのよい娘だと感じる。外見も、いかにも地方から出て来た娘という姿格好のようだ。

 前回の感想では、喜久雄は高校へ行かせてもらい、歌舞伎役者になるための稽古をさせてもらっていると思った。でも、それは春江の言葉でしかない。喜久雄は、本当に高校へ行っているのか?また、俊介と同じような扱いで稽古をさせてもらっているのか?心配になってきた。

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感想その2

 圭太は、高校に入ってからも、一家で泉大津を応援することに特別不満を感じているわけではなかった。しかし、徐々に泉大津の監督の人選や選手の起用に不満を持つようになった。それと、同時に、試合の帰りの両親のサッカーについての話を、芯のないものだと感じるようになった。そして、泉大津より資金でも過去の戦績でも人気でも下の琵琶湖に魅力を感じるようになった。
 応援するサッカークラブのことを書いているが、視点を変えると子の自立の様子が見えてくる。
  親が大切にしている事柄に、子が疑問を感じる。さらに、親が価値を認めない事柄に、子は魅力を感じる。そうやって、子は自立していくのであろう。
 圭太の良さは、自分が応援したいと思った琵琶湖の試合を観に行くために、アルバイトを始めたことだと思う。また、そのことを親に素直に言えなかったのは、無理のないことだ。
 圭太が、このように両親のサッカーへの態度に疑問を感じ、自分なりのものを探し出すことができたのは、ここまでの若松家の子育てが、良かったことの証拠でもあると思う。

朝日新聞夕刊連載小説・津村記久子作・内巻敦子画『ディス・イズ・ザ・ディ 最終節に向かう22人』第11回2017/3/17  第2話 若松家ダービー⑥(第2話了)
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あらすじ

 長男の圭太と、両親の供子、仁志は、それぞれ別に琵琶湖トルメンタスのホームグラウンドに着いた。今日は、琵琶湖対泉大津が対戦する最終節だ。
 試合前半は琵琶湖が押し気味で、0-0に終わった。仁志は、琵琶湖の選手の良いプレーに感嘆のつぶやきを漏らすようになった。供子も、仁志の「琵琶湖いいチーム」という言葉に同意する。圭太が琵琶湖にひきつけられたのも無理がないと思った。でも、琵琶湖を応援できそうかというと、そうは思わなかった。
 後半、泉大津が得点するが、すぐに反撃され、1-1となった。試合終了間際に琵琶湖が、1点入れた。が、アディショナルタイムで、泉大津のフナがヘディングを決め、結果は引き分けに終わった。
 スタジアムを出てシャトルバス乗り場へ向かうときに、供子は圭太を見つけた。手を振ろうとしてやめた。圭太の佇まいは、とてもしっかりして見えた。

感想
 日本の今の家族の特徴は、バックボーンとなるようなものがないところにあると思う。家族は、その一人一人の成長と老化に応じて変化していくしかない。住居を取り上げても、一世代前のように一軒の家に家族全員が生活するということは少なくなっている。
 そう考えるなら、家族内の関係が固定化せずに変化し続けるようでないと、家庭は崩れると思う。つまり、昔のように、親はいつまでも親であり、子は成長しても親に従うでは今の親子関係はもたない。また、母の役目、父の役目が固定化していては、子育てに対応できない。さらに、夫婦関係も相互の老化に伴って変化しなければならない。
 この小説は、身近な家庭に感じられる若松家を取り上げ、その変化を具体的に描き出した。しかも、今の家庭の成功例と思う。サッカークラブの応援を題材にさりげなく書いているが、内容は今の家庭、家族を考えるヒントがいっぱい入っていると感じた。
※感想その2へ続く。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第77回2017/3/20

「高校に通いながら役者の稽古」
 すごくいい境遇にいる。こんなにスムーズに大阪での喜久雄の生活が始まっているなんて、予想外だ。
 半二郎は、やはり喜久雄のことに、責任を感じていたのであろう。いや、それよりも喜久雄の役者としての才能と、喜久雄をそばに置くことが自分の息子のためになると見抜いているのだと思う。
 徳次は、こういう場面ではカッコいい。このカッコのよさと、分かりやすさが人を引き付ける。
 ヤクザ映画は、仁侠の男女が主人公だ。いろいろと理由付けしても、弱きをたすけ強きをくじく気性の爽快さは、人間感情の根っこに元々ある。ヤクザ映画が生き続けるのもこの辺に理由があるのだろう。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第76回2017/3/19

 春江は、いったいどんな少女(少女と呼んでいいのか迷うが、今回の文章の中は少女とある)なのか?春江だけでなく、喜久雄もその姿格好をイメージできない。今までの文章からは、二人の行動は浮かんでくるが、顔つきや性格を思い浮かべる要素が少ない。春江は、なぜ体を売っているのか?春江と喜久雄はどうやって出会ったのか?
①春江と喜久雄は、一緒に刺青を入れる約束をしていた。(20回)
②徳次は、喜久雄に、「(略)まだ、春江ば、公園に立たせとるとね?」と言っていた。それに対して喜久雄は、「立たせとるけど、毎晩、俺(おい)が見張っとるけん、ヘンな客が寄ってきても俺が追い払うし」と答えていた。(20回)
③春江には、母がいて、小さいながらスナックをやっている。
④刺青の場面では、喜久雄が春江のことを、「だって、あれは鈍感な女やもん」と言っていた。(41回)
 喜久雄も春江も、容姿や性格が描かれないのが、この作品の特徴だ。その意味で、挿絵は作者の意図に適している。

 これまでのストーリーからは、私には次のような予想しか湧いてこない。

 喜久雄は、組の年上の者から童貞であることをからかわれ、徳次に相談した。徳次は、手っ取り早いのは、買うことだと教え、公園に行けば若い娘を買えると言った。そこで、喜久雄は深夜公園に出かけ、春江に会った。喜久雄は、一度会っただけで、春江を好きになり、春江も同様だった。喜久雄は、さすがに、売春をしている少女を好きになったとは親には言えず、春江に大金をやることはできなかった。
 春江の母には、多額の借金があり、金がどうしても必要だった。春江と喜久雄は、出会いこそ特殊であったが、互いに好きになり、離れられなくなったのは十五の少年と少女の純粋な気持ちだった。

 いずれ、明かされるであろう二人の出会いと恋はどんなものであろうか。

 

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第5回2017/3/18

 何かを好きになっていくというのは、理由がつくようでつかない。興味を持ったことでも、やってみると、自分には合わないと手を引いてしまうことも多い。逆に、人から強いられてやってみたことでも、その面白さにやめられなくなることもある。
 長崎にいた頃の喜久雄の踊りの稽古は、マツに勧められて渋々やっていた節があった。だが、新年会の出し物とはいえ、その舞台が観客の喝采をあびた時にはうれしかったであろうし、得意だったとも思う。
 喜久雄は、元々義太夫は好きだった。そして、その稽古の様子を初めて体験した。
(略)喜久雄はこの日から、すっかり鶴太夫直伝の義太夫節の虜(とりこ)となっていくのでありますが、(略)
 喜久雄の年齢と境遇を思うと、打ち込めることを発見すれば、どれほど真剣になるか、想像できる。

まず一つ目が、一人息子の俊介にはどうも甘えがあって、ライバルでもいなければ稽古に身が入らないので、その相手にしたい旨。そしてもう一つが、まだ海のものとも山のものとも分からないが、どうもその子には生来の役者の資質があるように思える(略) 
 半二郎が喜久雄のことを、このように思っていたことがわかり、読者として安堵した。しかし、半二郎は、このように思っていることを喜久雄に伝えるであろうか?

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