本屋のとなりは写真館

朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2017年03月

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感想その2

 圭太は、高校に入ってからも、一家で泉大津を応援することに特別不満を感じているわけではなかった。しかし、徐々に泉大津の監督の人選や選手の起用に不満を持つようになった。それと、同時に、試合の帰りの両親のサッカーについての話を、芯のないものだと感じるようになった。そして、泉大津より資金でも過去の戦績でも人気でも下の琵琶湖に魅力を感じるようになった。
 応援するサッカークラブのことを書いているが、視点を変えると子の自立の様子が見えてくる。
  親が大切にしている事柄に、子が疑問を感じる。さらに、親が価値を認めない事柄に、子は魅力を感じる。そうやって、子は自立していくのであろう。
 圭太の良さは、自分が応援したいと思った琵琶湖の試合を観に行くために、アルバイトを始めたことだと思う。また、そのことを親に素直に言えなかったのは、無理のないことだ。
 圭太が、このように両親のサッカーへの態度に疑問を感じ、自分なりのものを探し出すことができたのは、ここまでの若松家の子育てが、良かったことの証拠でもあると思う。

朝日新聞夕刊連載小説・津村記久子作・内巻敦子画『ディス・イズ・ザ・ディ 最終節に向かう22人』第11回2017/3/17  第2話 若松家ダービー⑥(第2話了)
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あらすじ

 長男の圭太と、両親の供子、仁志は、それぞれ別に琵琶湖トルメンタスのホームグラウンドに着いた。今日は、琵琶湖対泉大津が対戦する最終節だ。
 試合前半は琵琶湖が押し気味で、0-0に終わった。仁志は、琵琶湖の選手の良いプレーに感嘆のつぶやきを漏らすようになった。供子も、仁志の「琵琶湖いいチーム」という言葉に同意する。圭太が琵琶湖にひきつけられたのも無理がないと思った。でも、琵琶湖を応援できそうかというと、そうは思わなかった。
 後半、泉大津が得点するが、すぐに反撃され、1-1となった。試合終了間際に琵琶湖が、1点入れた。が、アディショナルタイムで、泉大津のフナがヘディングを決め、結果は引き分けに終わった。
 スタジアムを出てシャトルバス乗り場へ向かうときに、供子は圭太を見つけた。手を振ろうとしてやめた。圭太の佇まいは、とてもしっかりして見えた。

感想
 日本の今の家族の特徴は、バックボーンとなるようなものがないところにあると思う。家族は、その一人一人の成長と老化に応じて変化していくしかない。住居を取り上げても、一世代前のように一軒の家に家族全員が生活するということは少なくなっている。
 そう考えるなら、家族内の関係が固定化せずに変化し続けるようでないと、家庭は崩れると思う。つまり、昔のように、親はいつまでも親であり、子は成長しても親に従うでは今の親子関係はもたない。また、母の役目、父の役目が固定化していては、子育てに対応できない。さらに、夫婦関係も相互の老化に伴って変化しなければならない。
 この小説は、身近な家庭に感じられる若松家を取り上げ、その変化を具体的に描き出した。しかも、今の家庭の成功例と思う。サッカークラブの応援を題材にさりげなく書いているが、内容は今の家庭、家族を考えるヒントがいっぱい入っていると感じた。
※感想その2へ続く。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第77回2017/3/20

「高校に通いながら役者の稽古」
 すごくいい境遇にいる。こんなにスムーズに大阪での喜久雄の生活が始まっているなんて、予想外だ。
 半二郎は、やはり喜久雄のことに、責任を感じていたのであろう。いや、それよりも喜久雄の役者としての才能と、喜久雄をそばに置くことが自分の息子のためになると見抜いているのだと思う。
 徳次は、こういう場面ではカッコいい。このカッコのよさと、分かりやすさが人を引き付ける。
 ヤクザ映画は、仁侠の男女が主人公だ。いろいろと理由付けしても、弱きをたすけ強きをくじく気性の爽快さは、人間感情の根っこに元々ある。ヤクザ映画が生き続けるのもこの辺に理由があるのだろう。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第76回2017/3/19

 春江は、いったいどんな少女(少女と呼んでいいのか迷うが、今回の文章の中は少女とある)なのか?春江だけでなく、喜久雄もその姿格好をイメージできない。今までの文章からは、二人の行動は浮かんでくるが、顔つきや性格を思い浮かべる要素が少ない。春江は、なぜ体を売っているのか?春江と喜久雄はどうやって出会ったのか?
①春江と喜久雄は、一緒に刺青を入れる約束をしていた。(20回)
②徳次は、喜久雄に、「(略)まだ、春江ば、公園に立たせとるとね?」と言っていた。それに対して喜久雄は、「立たせとるけど、毎晩、俺(おい)が見張っとるけん、ヘンな客が寄ってきても俺が追い払うし」と答えていた。(20回)
③春江には、母がいて、小さいながらスナックをやっている。
④刺青の場面では、喜久雄が春江のことを、「だって、あれは鈍感な女やもん」と言っていた。(41回)
 喜久雄も春江も、容姿や性格が描かれないのが、この作品の特徴だ。その意味で、挿絵は作者の意図に適している。

 これまでのストーリーからは、私には次のような予想しか湧いてこない。

 喜久雄は、組の年上の者から童貞であることをからかわれ、徳次に相談した。徳次は、手っ取り早いのは、買うことだと教え、公園に行けば若い娘を買えると言った。そこで、喜久雄は深夜公園に出かけ、春江に会った。喜久雄は、一度会っただけで、春江を好きになり、春江も同様だった。喜久雄は、さすがに、売春をしている少女を好きになったとは親には言えず、春江に大金をやることはできなかった。
 春江の母には、多額の借金があり、金がどうしても必要だった。春江と喜久雄は、出会いこそ特殊であったが、互いに好きになり、離れられなくなったのは十五の少年と少女の純粋な気持ちだった。

 いずれ、明かされるであろう二人の出会いと恋はどんなものであろうか。

 

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第5回2017/3/18

 何かを好きになっていくというのは、理由がつくようでつかない。興味を持ったことでも、やってみると、自分には合わないと手を引いてしまうことも多い。逆に、人から強いられてやってみたことでも、その面白さにやめられなくなることもある。
 長崎にいた頃の喜久雄の踊りの稽古は、マツに勧められて渋々やっていた節があった。だが、新年会の出し物とはいえ、その舞台が観客の喝采をあびた時にはうれしかったであろうし、得意だったとも思う。
 喜久雄は、元々義太夫は好きだった。そして、その稽古の様子を初めて体験した。
(略)喜久雄はこの日から、すっかり鶴太夫直伝の義太夫節の虜(とりこ)となっていくのでありますが、(略)
 喜久雄の年齢と境遇を思うと、打ち込めることを発見すれば、どれほど真剣になるか、想像できる。

まず一つ目が、一人息子の俊介にはどうも甘えがあって、ライバルでもいなければ稽古に身が入らないので、その相手にしたい旨。そしてもう一つが、まだ海のものとも山のものとも分からないが、どうもその子には生来の役者の資質があるように思える(略) 
 半二郎が喜久雄のことを、このように思っていたことがわかり、読者として安堵した。しかし、半二郎は、このように思っていることを喜久雄に伝えるであろうか?

 ラジオで歌舞伎役者の対談を聴いた。

NHKFM邦楽ジョッキー 隼人‘sカフェ 坂東亀三郎さん 

 いつ頃から歌舞伎役者になることを意識しましたか?という質問に、坂東亀三郎が次のように答えていた。
 歌舞伎の家に育っているので、歌舞伎役者になるのは当たり前のことで、役者になることを意識したことはない。他の職業は、子供の頃に野球選手になりたいと思ったくらいで、真剣に役者以外を考えたことはない。役者修行の辛さと言っても、父親や先輩から小言を言われないように、必死でやることしかなかった。
 歌舞伎役者の家に生まれ、役者として育てられることの実際はこういうことなのか、と興味深く聴いた。
 国宝の俊介もこういう環境に描かれるのであろうか。
 これも、ラジオで以前聴いたもので、記憶が曖昧だが、落語で中村仲蔵を覚えている。中村仲蔵の話は、講談や浪曲にもあるようだ。こちらは、歌舞伎役者の家に生まれなかった仲蔵が辛い思いをしつつ、名優となる話であった。
 国宝の喜久雄が役者への道を歩むとなれば、この中村仲蔵のような苦労をすることになるのであろうか。
 
 俊介は、同じ年齢に仲間と呼べる者はいないであろう。また、いたとしても、歌舞伎に関係する人ばかりだろう。そうなると、同年齢で全く違う世界の喜久雄と徳次に、興味を持たざるを得ないだろう。幸子が予言した通り、この三人は、互いに近づき合うような気がする。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第74回2017/3/17

 義太夫と人形浄瑠璃の兼ね合いがほんの少しだけ分かってくる。こうやって、読んでいくと、世の中には知らないことが多い。知らないことが多いというよりも、知っていることがない、と言った方が早い。
 喜久雄と徳次が属しているヤクザという集団についても、わからないことが多い。ヤクザは、一度組員になると抜けるのが大変だと聞いている。喜久雄の育ての親のマツは、生みの親の千代子の言葉通り「喜久雄をヤクザにだけはさせたくない」と言っていた。そうなると、喜久雄はまだヤクザ、組員ではないということだろう。徳次の方は、今でも立花組の組員ということになるのだろう。この小説のストーリーには関係ないだろうが、そんなことも気になる。



「触るな」

 と、払いますが、その腕に力はございません。

 俊介のこの態度は、力尽きているのか、それとも、徳次のしたことを嫌がっていないからか?

「そやろ。あんたは完全に声変わり終わってるわ。でも、この二人はまだやねん。ほんまはな、喉休ませたほうがええねんけど、使わんと鈍るしな。この時期が役者には一番やっかいやわ」

 鶴太夫は、喜久雄と徳次を、役者の子か、役者の弟子と勘違いしているようだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第73回2017/3/16

 今回は、ほとんどが会話と語りで構成されている。まるで、ラジオドラマの脚本のようだ。

 喜久雄、俊介、徳次、それぞれに思っていることは違う。それぞれに今までの生い立ちが違う。そして、三人共に温かい普通の家庭とは無縁な環境で育ってきた。
 人気役者の親を持ったからには仕方がないのだろうが、俊介はどんな気持ちで義太夫の稽古に通っているのだろうか。喜久雄は芝居好きというだけで、この鶴太夫の話に感心しているようだが、「あんたらもちょっとやってみ」とでも言われたら、どうするつもりなのだろうか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第72回2017/3/15

まるで吠(ほ)え合う闘犬のようで、見ている喜久雄たちまで息が詰まります。

 伝統芸能の稽古が厳しいものだというのは、どこかで聞いていた。しかし、これほど激しいものとは知らなかった。一言一言と言えばよいのか、一節一節なのか、とにかくやることなすこと全てを叱られ、直されている。

 歌舞伎を観たことがないし、観ようと思ったこともない。歌舞伎と浄瑠璃の関係もわからない。義太夫に至っては本物を聞かされても、それが何であるかわからない。歌舞伎役者については、テレビドラマに出演している場面で知るだけだ。
 こうやって、振り返ってみると、あまりにも関心がなかったと思う。興味がないどころか、歌舞伎や筝曲を嫌っていたと思う。
 なぜ、嫌っていたのだろう。芝居や舞台を観る文化に縁遠い環境だったことが大きい。また、伝統的な芸能は古臭いと決め込んでいたせいだろう。
 ラジオでごくたまに浪曲が放送されることがある。最近は、ちょっとおもしろいと思う。数日前に、NHK Eテレの「趣味どきっ! 獅童のいざ歌舞伎へ 歌舞伎の新たなアプローチ」を観たら、これもおもしろかった。
 国宝を読んで、歌舞伎の楽しみに少しでも触れられれば、儲けものだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第71回2017/3/14

 周囲のお屋敷の立派さに目を奪われるのかと思いきや、山が見えないことに驚くとは。たらふくメシを食わせてもらえば、不安も心配もどこ吹く風といった喜久雄と徳次だ。バカなのか、どこまでも前向きなのか。
 羨ましいと感じる。若いというのはこういうものだと改めて思う。
 この小説の時代でも、喜久雄の年齢なら、高校受験のことばかり考えて、実際はちっともしていないのに、勉強に努力しなければならないと思い込んでいるのが普通だった。学校のことに無縁でも、徳次の立場なら、捕まらないかといつも警戒していそうなものだ。だが、この二人の関心は、新しい土地の風景であり、自転車とバイクのことだ。
 そして、現実の多くの同年齢の者の興味は、表面的にはどうであっても、この二人と大差なかったと思う。
 暴力はどんな場合も憎むべきであり、たとえ映画でもヤクザものなどは決して見ない。どんな理由があろうとも法と道徳に従い、もしそれを逸脱したら、自分から進んで罰を受ける。もしも、こういう若者を描いたとしたら、そこにリアリティを感じるであろうか。
 だが、昭和の時代であれ、平成の今であれ、喜久雄と徳次のような若者像の行動は非難され、否定される。喜久雄と徳次にはリアリティを感じるし、親近感をもつのに。
 つくづく、この小説の登場人物がおもしろい。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第70回2017/3/13

 立花の家は、その稼業からしても世間の家とは全くの別物であろうことは想像に難くない。
 それに、負けず劣らず花井の家も一般の家とは桁外れの違いだ。だいたい、徳次が喜んで食っているご飯は、遅い朝飯なのか昼飯なのか。俊介がすすっていた肉うどんは、普通なら昼飯のような気がするが、そうでもなさそうだ。それに、俊介はお稽古には行くが、学校に行く気配はない。家の中には、半二郎の家族以外に、番頭の源吉と女中頭のお勢がいて、他にも若い女中や男衆がいる。役者の弟子もいるのであろうか。
 幸子は、よく喋り、喜久雄をスッと受け入れている。しかし、「坊ちゃん2号」が極道の坊ちゃんということは知らないだろうに。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第69回2017/3/12

 喜久雄の人物像は、短い会話を通して伝わってくる。
①新年会の舞台後の徳次との会話。ヤクザの親分の一人息子が背伸びをしている姿を感じた。
②鑑別所から逃げて来た徳次との会話。それまで見せなかった意地の強さを持っているのかもしれないと感じさせる。
③大晦日の夜、春江の母にかけた言葉。母という存在への優しさを感じさせる。
 そして、今回は半二郎の妻幸子との会話。他のどんなことよりも、稽古と義太夫に興味をもっていることを感じさせる。

 改めて訊かれますと返事に窮しますが、もちろん嫌いではありません。

 思わずそんな言葉が口をついて出てくるあたり、やはり好きか嫌いかといえば、義太夫節が好きなのでありましょう。

 喜久雄の義太夫節好きがずいぶんと慎重な書き方で示されている。

朝日新聞夕刊連載小説・津村記久子作・『ディス・イズ・ザ・ディ 最終節に向かう22人』第10回2017/3/10
第2話 若松家ダービー⑤

あらすじ
 琵琶湖と泉大津が対戦する最終節、圭太は琵琶湖のホームスタジアムで試合前のグッズ売り場と屋台村で買い物をしたり、食べたりしている。そうしながら、泉大津のマスコットを見ると、懐かしいような気がした。
 圭太の両親は、圭太とは別に琵琶湖のホームスタジアムに来ていた。今日は、圭太の妹の真貴も一緒に来るとは言わなかったので、二人(供子と仁志)だけの応援だった。仁志は、圭太のことを気にする様子もなく、久し振りのアウェイを楽しんでいる。供子は、相手チームの応援をする圭太と、家で留守番をしている真貴のことが心配になってきた。

感想
 子どもの成長に伴う家族の変化がうまく書かれている。
 圭太は、家族みんなで応援していたチームと自分が応援し始めたチームを比べることで、自分の成長や、将来を考えている。
 供子は、夫婦二人でサッカー観戦に来ていることから、家族の将来を考えている。夫婦二人で来たことを、「自分は意外と悲しまなかったな」としている。
 さらに、「このまましばらく夫婦二人での観戦が続き、その後もしかしたら夫もスタジアムに行くのをやめてしまうのかも、と思うと、それはやっぱり寂しいと思ったので、仁志のことは今まで通り大事にしようと決めた。」と考えている。この辺りが、今の夫婦関係を表していて、すごくおもしろい。
 現代の日本の家族では、子は、独立すれば親と一緒に暮らさない。夫婦は、最終的には二人だけになる。二人だけになった夫婦も一緒にいる必要性がなくなれば、離婚を阻むものはない。そんな世の中が映し出されている。
 そういう現代の家族の在り方を、今のままでよいとは思えない。だが、親子が一緒に暮らす過去の家族に戻るべきだとは断じて思わない。それよりは、血のつながりを基盤にする家族から、もっと別のものでつながる家族へと、変化できないか、と思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第68回2017/3/11

 あとで分かることですが、この源吉、元は半二郎付きの弟子だったのですが、芸よりもその忠義心を買われまして、俊介の養育係と言いましょうか、男ながらの乳母とでも申しましょうか、とにかくおむつのころから、人気歌舞伎役者と舞踊の家元である父母に代わり、俊介を手塩にかけて育ててきたのでございます。
 

 子どもを育てるのは親であり、子どもの教育は学校が中心という考え方は、正論に思えていた。
 そうとばかりはいえない、と思う。
 時代を昭和に限っても、家の中に三世代が住んでいて兄弟が多ければ、子育てに家中の人が手を出していた。さらに、隣近所の大人が近くの子どもをからかったり、叱ったりしていたことは、過去の美点としてよく語られる。
 家族が親子だけになり、同時に近所との関係が薄くなり、親以外の人が他人の子に口を出すようなことも当然なくなった。そうなると、子育てを担うのは親しかいなくなった。
 こういうことは、学者や評論家に指摘されなくても、実感できる。
 親だけに、子どもを育てる責任を負わせることが、社会にとってよいことが多いのか。
 学校が、子どもの教育の中心になることは、子どもにとってよいことが多いのか。
 疑ってしまう。特に最近は。

 それにしても、「男ながらの乳母」というのは、珍しい。
 また、徳次のような年上のワルがある意味の教育係になることも、今の社会では全否定される。
 その徳次だが、相変わらず、喜久雄を坊ちゃんとして守ろうとしている。二人の関係は、変化しているはずなのに。
 喜久雄が徳次を警察に通報したことを、徳次は分かったはずだ。
 喜久雄が一人で敵討ちをしようとしたことを、徳次は納得できたのか。
 半二郎の家では、二人の若者が来ることだけは知らされていたようだ。喜久雄は、徳次が同行したのが誰の差し金か、訊きただしたのか。

 ところで、俊介も喜久雄も中学校卒業直前か?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一第17回2017/3/10

 ようやく徳次が目覚めたようだ。

 肌色で、喜久雄と俊介の違いを際立たせている。
 同い年、同じ家で暮らすことになりそうな二人。しかし、育ちはまるで違う。

 家の中の喋りと、乱闘騒ぎの納め方の対比が鮮やか。
 ヤクザの家と役者の家はまるで違うはずだ。だが、どこか共通するものもあるのか。この幸子には、マツとは一味違う気風のよさがある。

 喜久雄と徳次は、下働きとして迎えられていた。それなら、源さんの扱いがよくわかる。

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