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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2017年04月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第117回2017/4/30

 稽古に打ち込む喜久雄の姿が美しく描かれている。
 喜久雄がこうやって稽古に打ち込んで過ごした陰にはマツの必死の仕送りがあった。その仕送りが無理なものになっているのを半二郎は知っていたであろう。マツの困窮ぶりを知っていながら、それを黙っていたのは、半二郎の喜久雄への心遣であったろう。
 喜久雄が南座で主役を張ることになった今、半二郎は喜久雄にマツの現状を知らせてもよいと考えたと思う。

 半二郎は、喜久雄の師匠、「旦那」であるだけでなく、喜久雄本人の知らないことをまだまだ知っているという役回りでもある。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第116回2017/4/29

 マツは、優しくて強い。
 マツが、喜久雄の生みの親千代子の生きているうちに、権五郎の妻同然になったのは、マツ自身が望んだことではない。それどころか、マツに責任はないのに、千代子に対して申し訳ないという気持ちを強く持ち続けていたと思う。
 一方、千代子の方は、女房の座を奪ったマツを恨む気持ちがあったと思う。だが、マツの世話を受けるうちにマツの本心が分かったのであろう。だから、喜久雄をヤクザにだけはしたくないという願いを、マツに伝えたのだと思う。感想 83回
 育ての子に、自分が持っていた物を、全て失っても仕送りを続けたマツ。役者修行の邪魔だけはしないようにと、取られた邸で女中をしているマツ。そこに、優しさと強さを感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第115回2017/4/28

 前回(114回)の感想で、喜久雄が大阪の半二郎の家に行くことができたのは、尾崎と辻村のおかげと書いた。
 しかし、半二郎の家にいることになっても、喜久雄が義太夫や踊りに興味を持つことができなければ、その後の役者修行に喜久雄が精進することはなかった。
 喜久雄が、歌舞伎を面白いと思ったのは、本人の持って生まれた好みもあるが、何と言っても、マツの芝居好きが源となっている。
 さらに、半二郎が喜久雄の役者としての才能を見出したのは、マツがお膳立てした新年会の余興に他ならなかった。
 ということは、喜久雄の歌舞伎役者としての現在は、育ての母のマツがいたからと言える。
 そのマツは、全てを投げ打って、喜久雄に仕送りを続けていたのか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第114回2017/4/27

 世間の大部分の同世代の者は、高校へ行き、その中の何割もが大学へ進んでいる。また、数は少なくなっていたが、中学校を卒業して都会へ出て働いている者もいた。
 そういう世相の中で、喜久雄は義太夫節や舞踊の稽古だけをしていた。高校も中途で辞めていた。
 歌舞伎役者になりたいという希望を持ち、その実現のために役者修行に取り組んでいたというのとは違う。歌舞伎役者の家へ居候することになったのは、喜久雄が考えたことでも予想したことでもない。喜久雄が単独でやった父の敵討ちのせいだ。敵討ちに失敗したせいだ。だから、長崎を追われ、大阪の半二郎の所へ行くことになったのは、喜久雄の身から出た錆とも言える。
 しかし、立派に敵討ちを果たしていたら、間違いなくまだ鑑別所なり刑務所なりに収容されていた。敵討ちに失敗して、喜久雄が一番嫌っていた教師尾崎と本当の敵辻村のおかげで、半二郎の一門に入ることができたのだ。
 喜久雄は、十六歳からの四年間を、好きで、おもしろいと感じた歌舞伎役者の稽古にだけ打ち込んだに過ぎないと思う。そこには、喜久雄自身が将来のことを考えた結果などは感じられない。
 運命のまま、そう言えば聞こえはよいが、成り行き任せで、好きなことを夢中でやっているだけなのだろう。
 喜久雄には、学問もなければ、常識もない。良識とか道徳観もはなはだ怪しい。あるのは、世話になった人へ恩義を感じる心と、信頼できる仲間を大切にする心と、好きな稽古や舞台をやり遂げる意志だけだと感じる。
※物語の時系列 102回 感想

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第113回2017/4/26

 どんな仕事にも、他の人には知られていない陰の部分があるものだ。歌舞伎役者と聞けば、それなりに華やかな面を想像する。だが、限られた人数での地方巡業となれば、看板役者と言えども、裏方や興行担当と変わらぬ動きをしなければならないことが分かる。
 だから、半二郎も辻村などの地方の顔役のご機嫌取りもしなければならないのであろう。また、このように地方でも名前を売ることが、全国的な人気の土台にもなるのだろう。

 喜久雄が、帰省するとしたら、立花の家は大きく変わっていると思う。三年前も、母マツは金に困っていたはずだが、その時はそういう事情には気づかなかったようだ。久しぶりに帰る立花組と家の様子、そして、マツの暮らしぶりの変化を見せつけられるのではないか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第112回2017/4/25

 喜久雄は、歌舞伎をバカにされたことに腹を立てたわけではなかった。竹野の「悔しい思いで人生を終える」の一言に腹を立てたのだった。

 そう、父権五郎の最期が呼び覚まされたのでございます。

 権五郎が亡くなる六時間前の様子だった。意識の戻らない権五郎だったが、その大きな体は病院のベッドからはみ出すようだった。その大きな体が急に萎んだように見えた。
 喜久雄は、まじまじと権五郎の顔を見つめました。自分の父親が死ぬことが全く悲しくありませんでした。ただ、自分の父親が何かに負けて人生を終えることが悔しくて、涙があふれてまいります。(38回)38回感想

 この思いが呼び覚まされたに違いない。
 この時の喜久雄の心情は、彼の一生を左右すると感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第111回2017/4/24

 竹野の言葉に注目した。

「歌舞伎なんて、ただの世襲だろ? 今は一緒に並べてもらってても、最後に悔しい思いして人生終わるのアンタだぞ」
 

 歌舞伎に門外漢の私にしてみれば、この言葉が正しいと思える。喜久雄は、俊介と自分との違いに無頓着過ぎる。

 徳次と弁天は、殴り合うことで仲間になった。さて、竹野と喜久雄は?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第110回2017/4/23

 劇評家の藤川教授は、「自分が江戸時代にいるのかと錯覚したくらい」と言っていた。ということは、二人の舞踊は伝統通りの芸だったのだろう。半二郎が、骨に覚えさせると教えた踊りは、伝統を忠実に伝えるものだったと思われる。
 しかし、そのままでは喜久雄と俊介の芸は、歌舞伎愛好家の間だけに通じるもので終わるのではないか。時代は、昭和の40年代、伝統的な歌舞伎が興行として発展する見込みは薄くなっている。梅木社長は、そこに既に気づいているのと思う。だから、竹野を側に置いているのではないか。
 伝統的な芸の基本を身につけた東一郎と半弥を、歌舞伎を退屈過ぎるという竹野なる新入社員が、もしもプロデュースしたら、いったいどうなるのか?

 竹野についての次の表現にも注目した。

 相手に噛みつくような物言いは、腹を立てたときの喜久雄にどことなく似たところもございますが、(略)

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第109回2017/4/22
 
 喜久雄と俊介の『道成寺』でのきれいさに評判が立っているのかと予想していた。二人の舞台での美しさが素人受けしていたのではなかった。大学教授の劇評家に「激賞」されるとは、東一郎と半弥の舞踊の芸そのものが評価されたことになる。
 この小説は、出来事や主人公の心情の変化によって筋が展開するというよりも、登場人物の動きで場が変わり、舞台が進行している気がする。
 挿絵にもある、鏡に映る「いかにも新入社員という若い男」、重要な登場人物になる予感を持たせる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第108回2017/4/21

 辻村でも出てきたかと心配したが、「福の神」が現れたようだ。この梅木社長によって、二人の役者としての今後が変わりそうだ。

 今回の冒頭で、東一郎こと喜久雄の気持ちが描かれている。

(略)舞台に立つ喜久雄にしてみれば、たとえ見物が一人であろうと、その一人を足腰立たないほど魅了してやろうという思いでおりますから(略) 

 103回感想その2
で、喜久雄は、観客のことよりも自分が舞台に立つ喜びの方が強いのではないか、と危惧を抱いた。しかし、この気持ちを読むとその危惧は的外れのようだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第107回2017/4/20

 役者修行の前から、喜久雄は歌舞伎好きだった。そのことが、何となく腑に落ちなかった。私は、喜久雄と同年代だ。私が育った所は、東京や大阪からは遠く離れているが、それにしても周囲で歌舞伎に興味があるという話をするのは、ずっと上の年代の人たちだった。私の周囲の娯楽は、テレビ、映画が全盛の時代だった。
 今回の語り手が言うように、「当時の歌舞伎巡業というのはやはり厳しいもの」で、観客が、どんどん減っていったことが分かる。
 歌舞伎役者のスターといっても、映画やテレビの出演を通しての人気であって、歌舞伎で主役を務める役者の中のほんの一部だけが、世間一般に知られたのであろうし、それは現在も変わらないと思う。
 もしも、東一郎と半弥が芸能人として人気が出て、スターになるとしたら、歌舞伎以外の場所での活躍が必要になるのではないか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第106回2017/4/19
 
 半二郎の心の内が分かるような気がする。
 できれば、辻村とはきっぱりと縁を切りたい。が、喜久雄のことを頼まれれば、断るわけにはいかなかった。自分の下に喜久雄を預かってみれば、その芸の才能もあって、なんとか一人前の役者にしてやりたいと思う。だが、喜久雄の陰には、辻村の存在が見え隠れする。その辻村が今度は、息子の俊介のことにも口を出すようになってきた。
 辻村の権五郎への裏切りを暴くことが正義なのだが、それは半二郎と半二郎の家族の破滅になりかねない。半二郎にとって、辻村はまさに避けたいのだが避けられない障害だ。そして、喜久雄は最も可愛い弟子であると同時に最大の悩みの種でもあるのだろう。


 東一郎と半弥、いかにもこれから人気が出そうな美しさのようだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第105回2017/4/18

 急に辻村が登場し、徳次の脱走の件がないものになり、次に尾崎が登場したので、また何か思わぬ展開があるかと期待した。最大の逆転劇が準備されていた!
 知らされてみると、一番ありそうな結末だった。
 高校も辞め、芸道一筋の喜久雄だが、歌舞伎役者を取り巻く環境は厳しい。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第104回2017/4/17

 もう登場しないのでないかと思っていた尾崎が登場した。「喜久雄の恩師」で「田舎教師」の尾崎は、ひょっとすると、裏の脇役となるのではないか。もちろん、裏の主役は、辻村だ。
 喜久雄排斥運動には、何か逆転劇が準備されているように思う。尾崎が奇策を出すか。辻村がまた登場するか。それとも、尾崎と言えば大親分の登場か。どう展開するか、楽しみ。

 役者にとって、きれいな顔は武器になる。ましてや、女形であれば、きれいな顔はそれだけで人気の源にもなろう。だが、女形の名優小野川万菊は、言う。

「でも、あれですよ。役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね。」(94回)

 
顔の美しさは、喜久雄にとって諸刃の剣になるのだろうか?
 
 同じように、喜久雄の初舞台の経験はプラスともマイナスともとれる。
 初舞台で、「幸福とでも言うのでありましょうか」というほどの感覚を味わえたのは、役者に適している証であろう。こういう感覚をもっているのは、喜久雄が役者になることを運命づけられたと、感じた。
 しかし、「人目を憚るほどの恍惚感」というのは、役者にとってどうなのか。舞台から得られる「恍惚感」は、観客にこそあってほしいものなのではないか?

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