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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2017年04月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第107回2017/4/20

 役者修行の前から、喜久雄は歌舞伎好きだった。そのことが、何となく腑に落ちなかった。私は、喜久雄と同年代だ。私が育った所は、東京や大阪からは遠く離れているが、それにしても周囲で歌舞伎に興味があるという話をするのは、ずっと上の年代の人たちだった。私の周囲の娯楽は、テレビ、映画が全盛の時代だった。
 今回の語り手が言うように、「当時の歌舞伎巡業というのはやはり厳しいもの」で、観客が、どんどん減っていったことが分かる。
 歌舞伎役者のスターといっても、映画やテレビの出演を通しての人気であって、歌舞伎で主役を務める役者の中のほんの一部だけが、世間一般に知られたのであろうし、それは現在も変わらないと思う。
 もしも、東一郎と半弥が芸能人として人気が出て、スターになるとしたら、歌舞伎以外の場所での活躍が必要になるのではないか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第106回2017/4/19
 
 半二郎の心の内が分かるような気がする。
 できれば、辻村とはきっぱりと縁を切りたい。が、喜久雄のことを頼まれれば、断るわけにはいかなかった。自分の下に喜久雄を預かってみれば、その芸の才能もあって、なんとか一人前の役者にしてやりたいと思う。だが、喜久雄の陰には、辻村の存在が見え隠れする。その辻村が今度は、息子の俊介のことにも口を出すようになってきた。
 辻村の権五郎への裏切りを暴くことが正義なのだが、それは半二郎と半二郎の家族の破滅になりかねない。半二郎にとって、辻村はまさに避けたいのだが避けられない障害だ。そして、喜久雄は最も可愛い弟子であると同時に最大の悩みの種でもあるのだろう。


 東一郎と半弥、いかにもこれから人気が出そうな美しさのようだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第105回2017/4/18

 急に辻村が登場し、徳次の脱走の件がないものになり、次に尾崎が登場したので、また何か思わぬ展開があるかと期待した。最大の逆転劇が準備されていた!
 知らされてみると、一番ありそうな結末だった。
 高校も辞め、芸道一筋の喜久雄だが、歌舞伎役者を取り巻く環境は厳しい。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第104回2017/4/17

 もう登場しないのでないかと思っていた尾崎が登場した。「喜久雄の恩師」で「田舎教師」の尾崎は、ひょっとすると、裏の脇役となるのではないか。もちろん、裏の主役は、辻村だ。
 喜久雄排斥運動には、何か逆転劇が準備されているように思う。尾崎が奇策を出すか。辻村がまた登場するか。それとも、尾崎と言えば大親分の登場か。どう展開するか、楽しみ。

 役者にとって、きれいな顔は武器になる。ましてや、女形であれば、きれいな顔はそれだけで人気の源にもなろう。だが、女形の名優小野川万菊は、言う。

「でも、あれですよ。役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね。」(94回)

 
顔の美しさは、喜久雄にとって諸刃の剣になるのだろうか?
 
 同じように、喜久雄の初舞台の経験はプラスともマイナスともとれる。
 初舞台で、「幸福とでも言うのでありましょうか」というほどの感覚を味わえたのは、役者に適している証であろう。こういう感覚をもっているのは、喜久雄が役者になることを運命づけられたと、感じた。
 しかし、「人目を憚るほどの恍惚感」というのは、役者にとってどうなのか。舞台から得られる「恍惚感」は、観客にこそあってほしいものなのではないか?

 愛甲会の辻村は、まさにこの小説の狂言回しだ。
 喜久雄と半二郎の関わりの全てに辻村が顔を出している。徳次が喜久雄のお供として、大阪へ行くことになったのも、辻村の手配だ。さらに、徳次の鑑別所脱走の件をなかったことのようにしたのも辻村だ。
 その辻村が、俊介を絡めとってしまったようだ。この狂言回し役辻村は、花井親子にがっちりと食い込んでいる。 
 ということは、喜久雄が役者として成長していく過程へも、大きな力を出し続けることができるということだろう。 
 また、徳次が北海道で、成功しようが失敗しようが、辻村には逆らえないということだ。

第四章 大阪二段目
76~87回 
 舞台は、長崎から1965(昭和40)年の大阪へ移った。喜久雄と徳次が、大阪の歌舞伎役者花井半二郎の下で暮らすようになり、ほぼ一年が過ぎた。
 その大阪へ、喜久雄を追うように春江も出て来ていた。春江は、喜久雄と徳次が準備した安アパートに住み、大阪のスナックで働き始める。
 喜久雄は、半二郎の一人息子俊介と一緒に、厳しい役者の稽古に打ち込んでいる。喜久雄と俊介は、同じ高校に通い、すっかり仲良くなっている。
 半二郎は、俊介と喜久雄に女形としての才能を見出していた。そこで、喜久雄を「部屋子(へやご)」にしたいと、長崎の母マツへ手紙を出した。手紙を受け取り、喜久雄に会いに大阪に来たマツは、役者修行に打ち込んでいる息子を見て喜ぶ。しかし、マツが借金までして大阪へ仕送りをしていることは、喜久雄には話せなかった。
※「部屋子」になれば、歌舞伎役者の幹部俳優「名題(なだい)」と同等の扱いを受ける。

88~100回
 喜久雄と俊介は、半二郎の計らいで黒子として京都南座に呼ばれる。
 喜久雄は、京都で初めてのお座敷遊びをし、舞妓の市駒と会う。市駒は、お座敷がはねた後、初対面の喜久雄に、「喜久雄さんに芸妓人生を賭ける。人気役者になって、二号さんか三号さんを予約や。」と言う。
 喜久雄と俊介は、京都南座に出演していた名女形の小野川万菊の楽屋を訪れる。喜久雄は、万菊から「きれいなお顔だこと。でも、役者になるんだったら、その顔は邪魔。」と言われる。
 万菊の『隅田川』の演技に、喜久雄は、強烈な体験を受ける。
 徳次は、春江をきっかけに知り合った弁天とつるんで遊ぶようになっている。徳次の鑑別所脱走の件は、愛甲会の辻村が裏で動いたので、収容期間短縮になっていた。
 春江は、長崎からの出稼ぎの人をお客とするスナックで働き、その店を繁盛させている。
 徳次は、弁天がどこかから持ち込んできた儲け話に乗って、北海道へ行くと決め、喜久雄に別れを告げる。喜久雄は、誰かに騙されていると徳次を止めるが、徳次の決心は変わらない。
 
物語の年譜(第一章~第四章)
昭和39(1964)年
元旦。 喜久雄と徳次は、新年会の余興で「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」を踊る。その踊りを花井半二郎が観る。立花権五郎は、新年会に襲われ、裏切り者の辻村に拳銃で撃たれて三日後に死ぬ。
昭和40(1965)年 東京オリンピック開催
1月末。喜久雄は、学校に講話に来た宮地を襲うが、失敗する。
その後、喜久雄と徳次は、大阪の花井半二郎の家へ。更に、数か月後、春江が大阪へ。半二郎は、息子俊介と喜久雄に女形の才能を見出し、二人に厳しい稽古を付ける。
昭和41年(1966)年
喜久雄は、半二郎に連れられて京都へ。京都で、六代目小野川万菊の演目を観る。また、舞妓市駒と出会う。
徳次は、儲け話があるからと、喜久雄に別れを告げ、弁天と共に北海道へ行く。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第103回2017/4/16

 すばらしいことだと感じる。
 初舞台で、これほどの「恍惚感」を味わうのは、役者になることを運命づけられているのだ。
 次の表現に注目した。

(略)さっきまで自分がいた舞台の床の感触や、はっきりと一人一人が見えていた見物の顔、そして何よりも舞台に漂っていた香の甘い香りが蘇りまして、(略)

 
無事に舞台を終えた安堵感でも、初舞台が好評だったことでもない。舞台に立つことの喜びを純粋に感じているのだ。
 そして、ほぼ二年間の、踊りを骨で覚えるという激しい稽古と、見ているだけで気が違いそうになる繰り返しの稽古の末の初舞台の「恍惚感」なのだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第102回2017/4/15

 さて、遅ればせながら、慌ただしく始まりましたこの第五章、成功を夢見た徳次が北海道へ旅立ちました前章から、すでに四年近くの月日が流れております。

 物語の時系列を整理しておく。

昭和39(1964)年
元旦。 喜久雄と徳次は、新年会の余興で「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」を踊る。その踊りを花井半二郎が観る。立花権五郎は、新年会への殴り込みで銃弾を二発受けて、三日後に死ぬ。

昭和40(1965)年
1月末。喜久雄は、学校に講話に来た宮地を襲うが、失敗する。
その後、喜久雄と徳次は、大阪の花井半二郎の家へ。更に、数か月後、春江が大阪へ。

昭和41年(1966)年
喜久雄は、半二郎に連れられて京都へ。京都で、六代目小野川万菊の演目を観る。また、舞妓市駒と出会う。
徳次は、儲け話があるからと、喜久雄に別れを告げ、弁天と共に北海道へ行く。

昭和42(1967)年
喜久雄(17才)は、芸名花井東一郎として初舞台。

昭和45(1970)年
4月 花井半二郎一座の四国巡業で、喜久雄と俊介が「二人道成寺」の白拍子を踊る。 ※大阪万博開催が1970年3月から。

『波の音が消えるまで』 沢木耕太郎 新潮社 

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 何かを追い求める生き物が、人間だ。そんなことを思わせる小説だ。
  だからといって、主人公の思想が難しく書かれているのではない。むしろ、主人公は単純で、行動の人物だ。その面では、エンタテイメントの要素が強い。 
 主人公は、作品の最初から最後まで、バカラをやり続ける。そして、遂にバカラの必勝法を手に入れる。この必勝法は、リアルだ。バカラの勝負の場面もリアルだ。
 書かれている必勝法はリアルだが、私はそれを試してみようとは思わなかった。その勝ち方を手に入れるには、その域に達するまでがあまりに遠すぎるのだ。
 
 かえって、バカラに、溺れる過程の惨めさがよく理解できた。賭博を止められなくなる心理は、理解しているようでできていなかった。
 楽をして儲けようというだけではない。損を取り戻そうするだけではない。一度味わった勝ちを再び味わおうというだけでもない。勝負のおもしろさにのめり込むだけでもない。
 人は、賭博だけでなく、自棄(やけ)になる時がある。誰にでも、いろいろな場面で自暴自棄になることがある。ネクタイの絞め方などというどうでもよいことの場合もあり、会社を潰すような影響の大きい場合もある。とにかく負の循環に入り込むと、自棄になり、信じられないような行動を平気でとる。
 バカラで負け、文無しになり、他人のコインを掠め取り、また賭ける。どうして止められないのか、と思っていたが、この主人公の気持ちになると、そういうことを平気でするようになるのも人間だということに共感できる。

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