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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2017年08月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第237回2017/8/31

 万菊の言葉が印象に残る。

「そう……、丹波屋の半弥さん、やっぱり死ねなかったのねぇ」

 姿を消した俊介は、誰から見ても出奔するだけでなく、生きていられないと思われていたのだ。
 実の父、当時の半二郎からは芸の未熟さをあからさまに言われたも同然だった。その上、懸命に喜久雄を助けて自分も舞台を勤めたのに、誰からもそれを認められるどころか、陰口ばかりをたたかれていた。これでは生きていられないと思われて仕方がなかったのだ。
 ここで、大きな疑問が湧く。
 白虎(二代目半二郎)の言葉からは、喜久雄の芸が俊介よりも勝っているということはうかがえない。喜久雄が俊介よりも、上だとすれば舞台に立つことの熱意であろう。少なくとも女形としての才能では優劣はつかないと描かれていると思う。今となっては、白虎本人に聞きただすことはできないが、代役に喜久雄を立てた理由があったはずだ。
 梅木と竹野の頼みを聞いた万菊が、あるいは、二代目半二郎の気持ちを察しているのかもしれない。

 竹野の企画は、実現しそうな気がする。もし、そうなると、喜久雄は「完全な悪役」になるが、それもまた興味を誘う。
 さらに、俊介が舞台に復活するとなると、幸子がどう動くかが焦点の一つとなるように思う。以前の幸子なら、俊介の復活を心から喜び、同時に喜久雄への心配りもできたはずだ。だが、今の幸子は丹波屋の女将というよりも、新宗教の信者になっているのではないか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第236回2017/8/30

 小野川万菊は、名優として描かれてきた。今回でも、「稀代の立女形」と最大級の形容がされている。
 さらに、今まで物語の転換に大きく関わることがないのに、随所に顔を出している。95回感想 95回感想その2で触れたが、万菊の舞台を観た喜久雄と俊介について、語り手が謎の言葉を残している。また、梅木社長が、白虎亡き後の喜久雄を鶴若ではなく、万菊に預けるつもりだったことも印象に残っている。そして、今回は竹野と一緒の場面が描かれた。その竹野は、俊介の発見者であり、俊介の今後を握る最大の登場人物であろう。
 万菊は、自分の芸を継承させる役者を、求めなければならない気持ちになっているのではあるまいか。

 万菊と同様に、気になる登場人物がいる。それは、清田誠監督だ。清田監督は、徳次を映画の主役に抜擢したというよりも、歌舞伎の世界に戻すきっかけを作っていた。さらに、『太陽のカラヴァッジョ』を発表する以前から世界的な巨匠として描かれている。『太陽のカラヴァッジョ』が受賞したので、映画監督としての評価は、ますます揺るがぬものになっている。その監督の撮影現場での行動は、狙った演技を引き出すために、喜久雄をまるで策略に陥れたように描かれたままだ。
 清田監督が喜久雄の心を傷つけただけの登場人物で終わるようには思えない。
 喜久雄自身は、気づいていないが、『太陽のカラヴァッジョ』の喜久雄の演技は、評価されて当然の価値があり、監督の真の狙いはこれから明らかになるように思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第235回2017/8/29

 穏やかで気持ちのよい三人の会話だ。
 三人を取り巻く客観的な条件からは、先の明るさは見えてこない。だが、互いを思いやる者同士がいて、互いに心の内を素直に言葉にしている。
 幸福感とは、夢が叶った時や願っていた条件が満たされた時だけでなく、こういう場合にこそ持てるものだと思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第234回2017/8/28

 徳次は、『太陽のカラヴァッジョ』の撮影現場で、喜久雄が一番ひどい目に遭った時のことを知らないと思う。過去に遡るが、辻村の正体も知らないし、白虎が最期に「俊ぼん」と叫んだことも知らない。
 徳次の年齢は、三十歳になるかならないかだ。その年齢にしては、大部屋の役者なのか、喜久雄の付き人なのかはっきりしない。役者として、伸びていく風もないし、マネジャーとして有能というのでもない。
 それなのに、喜久雄は徳次を信じているし、傍から放そうとはしない。喜久雄だけでなく、市駒も、綾乃も、以前の春江もマツも、徳次を大切にしていた。それどころか、才能も金もない徳次のファンが芸妓の中にもいるという。
 要するに、徳次の魅力は、人柄なのだ。口は悪いし、乱暴なのに、周囲の人を大切にするし、世話になった人を裏切らない。それだけなのだ。
 理知では割り切れない人間の魅力が、徳次という人物を通して描かれていると感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第233回2017/8/27

 歌舞伎役者が、妻に求めるものは、元気な頃の幸子のような女性であろう。幸子が白虎にやったような世話を、市駒は喜久雄に対してできないであろう。喜久雄の方も、市駒に歌舞伎役者の家を仕切ってもらおうとは考えていないと思う。
 だからこそ、進むべき道を見失っている今の喜久雄にとって、安心していられる所が市駒と綾乃のいる家だと感じる。
 ここはくつろいでいられる家ではあるが、ここの生活から喜久雄の新しい道が開けることもないだろう。

 徳次が、親子水入らずの所へわざわざ来るからには、喜久雄に何か重要な知らせを持って来たはずだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第232回2017/8/5

 市駒がいなければ、喜久雄は塞ぎこんだまま、役者としても潰れていただろう。娘の綾乃がいなければ、市駒の所にいても、もっと長い間閉じこもっていただろう。
 長崎にいた頃の喜久雄は、春江がいなければ、もっと荒んだ気持ちだったろう。
 権五郎とマツも、白虎と幸子の両夫婦も妻がいなければ、夫は成り立っていかなかっただろう。
 最近私が出あった小説や映画やドラマでは、こういう互いを無条件で受け入れ合う男と女の関係を見たことがない。小説やドラマよりも、現実の生活ではもっと見聞きしなくなった。不思議と言えば、不思議なことだ。

 それにしても、喜久雄はかなり長い間、市駒の所にいるようだ。市駒の所にいて、綾乃の相手をしているということは、舞台には立っていないのだろう。
 俊介が見つかり、俊介は再び表に出るのか、そして、喜久雄にどんな動きを起こさせるか?また、期待が膨らむ。

 金沢のクラブで、地元の名士から踊れと言われて、喜久雄はその名士を殴りそうになり、徳次に止められた。(207、208回)
 その騒動の後、喜久雄は、俊介ならあの場で踊るふりでもして、なんなく乗り切ったのではないか、と言っていた。喜久雄は、自分は三代目を継いだところで「一本の木」だが、俊介は生まれた時から丹波屋を背負っているので、「山」だと考えていた。(209回)
 
 喜久雄は、今までに美しい娘や遊女役を演じることはできた。しかし、狂女や化け猫を見事に演じることができるであろうか?
 もしも、今の俊介が『太陽のカラヴァッジョ』で歌舞伎の女形だった兵士を演じろと言われたら、どうであったろうか?喜久雄とは、違う反応をするように思う。
 その辺りに、温泉街の舞台に姿を現した俊介と東京の舞台への意欲を失っている喜久雄の役者としての違いが出て来るように感じる。

 それにしても、俊介登場の段取りは圧巻のおもしろさだ。228回感想で触れたが、丹波屋の状況はこれ以上悪くなりようがなかったのである。
 仮に出奔中の俊介が莫大な借金を背負わされていたとしても、幸子も喜久雄もそれを肩代わりできる状況にはない。ある意味、俊介が迷惑をかける気遣いはないのだろう。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第231回2017/8/25

 俊介の再登場が、直截に書かれた。

 竹野は、俊介の素顔を知っている。それを、ダメ押しする「俊ちゃん」の声。
 化け猫の正体が俊介であったことは、伏線に調和する。物語の伏線に調和しないのは、次の表現だ。

竹野の体にブルブルッと武者震いが起こったのはそのときで、たった今、自分がここで見つけたものが、とてつもないものであることを肌で感じたのでございます。

 これはテレビの素人番組に出すような下等なもんじゃない。

 
私は、竹野を今までの歌舞伎を変える興行主、プロデューサーになっていくであろう、と予想していた。そして、竹野は喜久雄を革新的な歌舞伎の主役として育て上げていくだろう、と思わせられていた。
 竹野が、眼をつけたのは、喜久雄、三代目半二郎ではなかった。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第230回2017/8/24

 凄い。
 この舞台、化け猫の演技に引き込まれた。

 これだけの迫力ある表現には、いくつかの要素がある。
①独特の語り。
(略)見るからにおどろおどろしく化け猫へと変身したのでございます。
②擬音語の効果。
テケテン、テケテン、テケテン。
③ここに辿り着き、次を期待させる筋立て。
 化け猫を演じているのは誰か、を予想させる筋の運びが、読者を魅了する。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第229回2017/8/23

 この回のストーリーに直接の関係はないが、第十章 怪猫に入ってから、演技への喜久雄の反応を考えさせられる。

その一
 95回で、『隅田川』の舞台で我が子を探し狂女となった小野川万菊を観ている喜久雄と、俊介の反応が描かれていた。

「こんなもの、ただの化け物やで」
何かから逃れるように、笑い飛ばした喜久雄の言葉に、このとき俊介は次のように応えます。
「たしかに化け物や。そやけど、美しい化け物やで」と。(95回)


 結局、この時の喜久雄は、万菊の名演を理解できていなかった。

その二
 『太陽のカラヴァッジョ』で清田監督は、喜久雄以外にはプロの俳優をキャスティングしていない。喜久雄も含めて、この映画の全ての出演者から、いわば既成の演技を排除する考えなのだ。過去に徳次が、主役に起用されたことにも、清田監督のその考えが表れていた。
 喜久雄は、そのことに気が付いていない。

喜久雄演じる中野上等兵の見せ場でもあり、また試練の場。行き場を失った兵士たちの苛立ちと不安が喜久雄演じる女の仕草の抜けない兵士に向かうのでございます。「踊れ、踊れ」と皆に囲まれ、褌一つにされた自分が、その後、凄惨を極める暴行を受けるのでございます。(220回)

 結果として、喜久雄は、このシーンを監督の狙い通りに演じたのであった。映画の状況に極めて近い現実の状況に追い込まれ、そこから引き出された演技であったのだろう。そこから引き出されたものは、ドキュメンタリーではなく、清田監督が求めた演技であり、世界的に評価された演技だった。
 しかし、喜久雄本人にはそれが演技であったという自覚がないと感じる。
 喜久雄は、『太陽のカラヴァッジョ』の自己の演技を嫌悪し、拒否している。※223回感想と関連する。

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