2017年08月

あらすじ 201~225回 第九章 伽羅枕

 白虎の借金を背負った喜久雄は、スケジュールに空きさえあれば、地方営業に向かわされている。地方営業では、土地の金持ちにも付き合わねばならないし、宴席のクラブで、踊れとまで言われる。
 一方、肝心の江戸歌舞伎の舞台では、後見人の鶴若からますます邪険にされ、腰元のような端役をやることが、まるで当たり前のようになっている。
 そんな八方塞がりの喜久雄を見かねていた徳次の所へ弁天から、喜久雄の映画出演の話が舞い込む。その映画『太陽のカラヴァッジョ』は、今や世界的な巨匠となっている清田誠監督の作品である。徳次は、以前に清田監督の映画で主役を演じたことがあった。
 この時期、喜久雄の周辺では、喜久雄が東京に出て来たばかりのころを共に楽しく過ごした荒風の引退と赤城洋子の自殺未遂事件が起こっていた。この二つの出来事もあり、喜久雄は徳次の勧めに応じて気の乗らない映画出演を決心する。
 その役は、歌舞伎の女形だった兵士というものだった。はじめは、歌舞伎役者を使うのを渋っていた清田監督だったが、ふと奸策をめぐらすような表情をして、喜久雄の起用を決めた。

 撮影ロケ地は、沖縄の小島という過酷な現場だった。撮影で、喜久雄の演技は清田監督から徹底的に否定される。何度やり直しても、喜久雄には「カット」がかけられ、挙句の果てに、喜久雄のせいで、撮影中止となる日が続く。清田監督の集中攻撃を受ける喜久雄に、誰もが同情する。しかし、それが連日続くと、喜久雄の失敗のせいで撮影が進まないと、キャストやスタッフも思い込むようになる。喜久雄も、自分の演技がどうしようもないのかもしれないと思い、監督に謝ることさえできなくなる。
 撮影現場全体が、喜久雄のせいでうまくいかないのだという雰囲気に支配される。そんな状況に追いつめられたある夜、喜久雄は何人もの男たちに部屋に踏み込まれ、暴行を受ける。喜久雄は、自分が大した役者じゃないから、こんな目に遭うのだと、抵抗さえしない。
 撮影が終わり、東京に戻った喜久雄は、連夜クラブで飲み潰れている。そんな喜久雄のもとに、『太陽のカラヴァッジョ』が、カンヌ映画祭で最高賞を受賞し、喜久雄の演技も高く評価されたとの知らせが入る。しかし、喜久雄はその知らせに「アホくさ」と応じただけだった。
 受賞のお祭り騒ぎに一切関わらないだけでなく、喜久雄はそれ以来体調を崩し、都内の病院へ入院してしまった。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第228回2017/8/22

 106回で、俊介の口から辻村の名前が唐突に出た。110回で、喜久雄と俊介の所に、梅木社長と一緒に竹野が現れた。だから、竹野が再登場すると、俊介、辻村の名が連想されるのだろう。

仮定
①俊介は、二度と世間に出て来れないような事情にある。
②俊介が二度と表の世間に出て来れないようなことをしたなら、死んでもおかしくない。
③春江は、俊介がどんな境遇にいても生き抜く力を与えている。
 どんな境遇にいても俊介を生かすため(163回)の人物が、春江なのではないか。

 現れるのは、どんな「怪猫」か?

 白虎は死に、幸子は我を失っており、喜久雄は舞台に立つ気力さえを失っている。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第227回2017/8/21

 竹野は、三友の社員でありながら現代の歌舞伎の在り方を、徹底的に批判していた。そして、今は担当者でありながら、テレビの素人参加番組の低俗さに、ほとほと嫌気がさしている。
 竹野は、興業サイドから、芸能に何を求めているのだろうか?


 「気色の悪い劇団」の「化け猫」? 演じている人物は??

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第回2017/8/20
 
 気になり、再登場を心待ちにしていた(206回感想)人物が出て来た。
 竹野、テレビ、こうなるとすぐ、喜久雄のテレビ出演を予想するが、そこにはもう一段仕掛けがあるかもしれない。

 前回の感想で、市駒を取り上げたが、春江と市駒の共通点に気づく。
①出生や生い立ちについては詳しく語られていないが、貧しい子供時代を送り、中学校卒業するかしないうちから、水商売の世界に身を置いている。
②自分の境遇に悲観をしている様子がない。それどころか、春江は売春をしてでも逞しく生きて行こうとしている。
③喜久雄に直感的に惚れこんでいる。だが、喜久雄と結婚し、家庭を作るという考えはない。
 これらの感覚は、昭和時代の女性の常識的な生き方と正反対だ。

 私は、俊介とともにいなくなった春江については次のように感じている。
 春江は、喜久雄を嫌いになったり、喜久雄から俊介に気持ちが移ったのではない。出奔前後の俊介が、喜久雄よりも、春江を必要としていたから俊介と一緒に身を隠したのだ。俊介の状態が落ち着き、春江も身を隠さなくともよくなれば、気持ちは喜久雄の所へ戻る。
 そして、喜久雄には、愛し愛される女性が何人いても不自然ではないと感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第225回2017/8/19

 喜久雄は、胸の内を誰にも明かしていない。徳次も、喜久雄が男たちに襲われたことや、その翌日の撮影の様子は知らないようだ。
 あの喜久雄が、歌舞伎の舞台に立てないのは、気力を完全に失っているからだ。
 今の喜久雄が、自分の回復の場として思い浮かべているのは市駒との暮らしだ。

 市駒の今までの描かれ方がおもしろい。
①生まれは秋田の貧しい農村。十二の頃から京都の置屋に預けられていた。(80回)
②喜久雄のお茶屋遊びが初めてだと聞き、次のように言っていた。「そやから、喜久雄さんにうちの人生賭けるってことや、なんや知らん、直感や」(90回)
③喜久雄の子を生んだが、芸妓をやめる気はなく、結婚に興味を示さなかった。

 喜久雄は、市駒の所へも、春江の所へも、ある時期を過ぎると頻繫に通わなくなっていたようだ。また、市駒も春江も、そんな喜久雄を責める様子はなかった。

疑問
①娘の綾乃の男勝りぶりが描かれていたが、それは今後に関わって来るのか?
②市駒は、伽羅枕を今でも使っているのか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第224回2017/8/18

 撮影が終わっても、撮影中の出来事が悪夢となって、喜久雄にまつわりついていたのであろう。そして、連夜の乱痴気騒ぎで、悪夢から逃れようとしていたと思う。
 ところが、『太陽のカラヴァッジョ』が受賞し、大いに世間を騒がせることとなった。受賞は、喜久雄の演技を評価してのものであったが、喜久雄にとっては喜びは微塵もなく、かえってあの嫌悪すべき撮影現場を思い出させられることになった。なんとかして、忘れてしまいたいことだったのに、否応なく思い出させられ、喜久雄に逃げ場がなくなっている。

略)無粋な徳次でさえ、日に日に喜久雄のなかで何かが壊れていくような、そんな不気味な音を聞いていたのでございます。

 この文から、喜久雄が撮影現場の出来事から逃れられず、その悪夢に苛まれていることを感じる。


 極限状況での辛い経験は、トラウマになったり、PTSDと呼ばれる症状になったりすると聞いている。
 喜久雄の今は、『太陽のカラヴァッジョ』の成功によって、俳優として新しい境地に入った様子は見られない。逆に、『太陽のカラヴァッジョ』に出演したことによる精神的なストレスを、撮影終了後の今も受け続けているように感じる。

 『太陽のカラヴァッジョ』出演の悪夢のような経験が、喜久雄を役者としてさらに成長させることはあるのだろうか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第223回2017/8/17

その一
 今回を読む限りは、喜久雄は清田監督の狙い通りに動かされ、否応なしに極限状況の演技を、引き出されたようだ。もし、そうであったなら、喜久雄はその演技を演技として割り切っていないようだ。

その二
 監督という存在のない伝統芸能の世界に打ち込んでいる喜久雄にとって、今回の映画出演は、同じ俳優と言っても、あまりにも違いがあったであろう。二代目半二郎も、喜久雄も映画出演はしていたが、それは、歌舞伎俳優としてのイメージを壊すようなものではなかった。
 『太陽のカラヴァッジョ』では、歌舞伎役者が「一人の人間として丸裸にされる姿」を求められた。本物の歌舞伎役者が、一兵卒となった「歌舞伎役者」を演じなければならなかった。
 喜久雄の立場で想像してみると、それがいかに困難なことであるかを察することができる。
 歌舞伎役者が、極限状態での「歌舞伎役者」を演じるためには、徹頭徹尾自分自身を客観視できる演技力が求められると思う。

その三
 『太陽のカラヴァッジョ』が大ヒットして、喜久雄が歌舞伎でも映画でも大注目される展開になっていくだろうか?
 たとえ、そうなっても喜久雄の心はまだまだ晴れないのではないか。連夜の乱痴気騒ぎは、喜久雄の心が深く傷ついていることの表れだと感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第222回2017/8/16

その一
 歌舞伎役者の血筋にない喜久雄が、三代目半二郎を襲名した。
 これは、とてつもない幸運だった。
 白虎亡き後、喜久雄は歌舞伎の舞台からはじき出された。さらに、莫大な借金を背負った。歌舞伎の舞台で役の付かなくなった喜久雄は、映画出演を決める。その撮影現場で、言うに言われぬ屈辱を味わわされる。
 これは、過酷な悲運の連続だ。
 幸運から悲運、その繰り返しの中で、喜久雄は生きてきた。
 喜久雄が役から降りることはなく、『太陽のカラヴァッジョ』の撮影が終わったのは確かだ。
 喜久雄の闇の時期が終わるのかどうかは、まだ分からない。

その二
 221回で、喜久雄が自分自身を客観視している。これは、今までなかったことだ。喜久雄が役者として新しい境地に入ったと感じる。
 しかし、それが観客に認められて人気に結びつくかどうかは、まだ分からない。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第221回2017/8/15

その一
 はじめて弱音を吐いた。しかも、他人を責めずに、自身を責めている。

その二
 予想がことごとく外れる。理由を考えてみた。 
 216回感想の予想が当たっていれば、物語は、鬼監督風ドラマか、ヤクザ映画風ストーリーになってしまう。
 219回感想の予想①が当たっていれば、物語は青春感動ドラマ風になってしまう。
 そんな展開になりはしないのは、当然だった。

その三
 161回のベッドでの赤城洋子とのやり取りを思い出す。喜久雄は、実生活で男娼のように見られることに強い嫌悪感を持っていると思う。
 過酷な運命に、不平不満や弱音を吐かないが、喧嘩を厭わない喜久雄が、よく知っている男たちの襲撃に抵抗さえしなかった。死ぬほど嫌なことだったはずなのに。

その四
 過酷な状況下、士気の消失した軍隊内では、この出来事は現実と聞く。もし、そこまでを清田監督が狙ったとしたなら、とことん非情な人物だ。
 この小説には、非情な人物は既に他にも登場していた。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第200回2017/8/14

 「明日の撮影予定のシーン」というのは、今の喜久雄の現実と酷似している。もし、今までの撮影で喜久雄の演技がよしとされていたなら、このシーンも役者として演技しただろう。
 喜久雄にとって、演技というものは舞台上で登場人物をきれいに演じることだ、と思う。それが、たとえ汚れ役だとしても、汚れ役をそれらしく演じることしか考えないと思う。
 しかし、清田監督が求めているものは違うと感じる。


 「足音」は、女のような気がする。根拠はないが‥‥女だとすると‥‥幸子、マツ、市駒、春江‥‥
 だが、状況から考えれば、徳次か弁天だろう。

 唐突に思う。なぜ、俊介は戻らないのか?
 喜久雄を憎んでいるからでも、父を恨んでいるからでもないと感じる。だとすると、自分がいない方が丹波屋にとってよいと信じているのだろう。自分がいても、父母のためにならないし、喜久雄のためにもならないと思い込んでいると感じる。
 一方では、この作者の手にかかると、そんな甘いことでは‥‥という気もする。

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