2017年10月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第296回2017/10/31

 俊介と春江の子は、一人だと思い込んでいた。ところが、一人っ子だとすると子どもの年齢が合わない。
 俊介と春江が、豊生を抱いて二代目半二郎に謝りに行ったのが、家を出てから一年半ほど経ったころだった。
 竹野が俊介を発見したのは、俊介が家を出てから十年近く経っていた。俊介とともに発見された春江は、十年ぶりに再会した喜久雄に、子の一豊がもうすぐ三歳になると言っていた。
 豊生がいるならば、九歳くらいになっていたはずだ。

 もう一度、俊介出奔後の経過を整理してみる。
①出奔から一年半後  
  俊介と春江、子の豊生を連れて、二代目半二郎に謝りに来る。
②出奔から三年後
  二代目半二郎(白虎)と喜久雄(三代目半二郎)の同時襲名。襲名披露の舞台で白虎倒れる。
③出奔から四年後 ※白虎の病室の場面で、襲名披露が昨年とある。
  白虎の死。  
④出奔から十年後 
  俊介と春江と一豊が発見される。俊介一家は実家に戻り、俊介は舞台に復帰する。

 ①で、舞いの試験に合格できなかった俊介に、二代目半二郎は、「あと一年だけ待ち、それでもダメだったら、半二郎の名を喜久雄に継がせる」と言った。その結果が②だった。ということは、俊介が再びの試験にも合格できなかったか、父の前にその後現れることがなかったかのどちらかだろう。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第296回2017/10/31

 読み誤っていた。 293回感想その2
 
俊介が父に謝りに行ったのが、出奔の一年半後、その時に豊生(とよき)は一歳になるかならないかだろう。
 俊介が発見されたのは、出奔から十年近く経っていて、その時に一豊(かずとよ)は、もうすぐ三歳だった。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第295回2017/10/30

 俊介と喜久雄の違い、差がはっきりと示された。
 喜久雄が、芸へ向かう「性根」で俊介に勝っていたのだ。それを誰よりも見抜いていたのが、二代目半二郎だった。
 
 二代目半二郎と喜久雄の特殊な縁を考えてしまうが、二代目半二郎には人の縁もよりも血縁よりも大切なものがあったのだ。それが、今回ではっきりとした。

 この君鶴という芸妓は、俊介に特別な思いを持っている。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第294回2017/10/29

その一
①春江が自己紹介しようとした。
 二代目半二郎と春江は初対面なのだろう。
②二代目半二郎と俊介が向かったのは、俊介が子どものころからよく連れて行ってもらった料亭だった。
 歌舞伎役者の子であっても、子どものころから連れていかれる料亭というにはそこに何か理由があるのだろう。
③地方(じかた)の芸者を呼んでいる。
 俊介に舞いを舞わせるつもりなのだろう。
④君鶴なる芸者が、涙声になっている。
 俊介の子どものころからを知っている芸者なのだろう。

その二
 幸子が二代目半二郎の後妻だということは、書かれていた。それなのに、俊介は幸子が生んだ子なのかどうかは書かれていない。

その三
 家出していた子が現れて詫びても、すぐに許さないのは、二代目半二郎のような男にとって、むしろ自然なのだという気がしてきた。だとすると、孫を見せられ、俊介を飲みに誘う半二郎の本心はうれしくてたまらないはずだ。
 だが、父と子のこの再会は、幸子にも喜久雄にも伝わらなかった。そして、この後、俊介は再び姿を隠し、半二郎は喜久雄との同時襲名を決意するのだ。

※10/28の記事の一部を変えました。 
 思いもかけない筋の展開に驚かされる。おもしろい。
 おもしろいのだが、筋の運びに入り込めない感じもする。
 一連の出来事を、連載としてはかなり長い間棚上げしておいて、前後関係を忘れたころに、再び語り始めるからだ。こういう運びをされると、意外というよりも、裏をかかれたと感じてしまう。
 また、この先発展するであろうと思わせる要素を見せられたのに、それがそのまま立ち消えになってしまうこともある。例えば、春江の母のこと、徳次が喜久雄と一緒に大阪に来た経緯、俊介と辻村の関係、『太陽のカラヴァッジョ』撮影のこと、などをそう思う。
 人が出合う出来事は、きっちりと収支決算のつかないことがたくさんある。そのことは、この小説からよく伝わる。
 しかし、二代目半二郎と喜久雄の物語が表で進み、その裏で俊介出奔後の出来事がこう進んでいたと語られるのは読者にとってどうなのか。
 これが、連載でなければ、一気に読めるので、違和感はないと思う。だが、次はどうなるかを予測、期待する連載小説特有の読者心理にとって、この運びは疑問だ。
 次回を待つ楽しみは増すが、なんとなく疑心暗鬼に、私はなってしまう。

朝日新聞夕刊連載小説・津村記久子作・内巻敦子画『ディス・イズ・ザ・ディ 最終節に向かう22人』第37回 第7話 権現様の弟、旅に出る⑥ 2017/9/29

あらすじ
 柳本さんが事故で入院したので、もう一年ここにいることになるのか、壮介は気になっている。壮介は、入院中の柳本さんを職場のみんなと見舞いに行く。柳本さんは、壮介に遠野のスタジアムに行けなくなったことが残念だと話す。
 最終節で、壮介たちは、遠野のスタジアムで神楽をやることになる。壮介たちが、地元で神楽を舞うのは初めてだった。神楽が終わり、今度は頭を噛んでくれというスタジアムを訪れた人の要請に応えることになる。壮介は、自宅から持って来た権現様の弟をかぶり、多くの人々の頭を噛む。その人々の中には、開幕節で頭を噛んであげた娘と父親の二人連れがいた。

感想
 柳本さんにここに残ってほしいという壮介の気持ちが、描かれていて、いかにもこの主人公に似つかわしい。神楽への参加の仕方にしても、柳本さんへの好意にしても強引な所がない。
 自分で買った獅子頭、権現様の弟が、幸運を呼ぶと話題になってもそのことを、壮介は控えめにとらえている。
 おとなしいとか、気弱というのではなく、気持ちの持ち方が滑らかなのであろう。私の世代の独身男性にはこういう感じの人は見かけなかった。

その一
 俊介と春江がつけた名は「豊生(とよき)」だが、今は「一豊(かずとよ)」。

「数字の『一』に、お義父(とう)さんの名前からもろうた『豊』で『一豊』」(244回)

 喜久雄の問いに、春江が答えていた。
 『生』が『一』に変わったのは、なぜか。せっかく、孫を連れて会いに行ったのに、父に拒否された。それだけでは終わらなかったのであろう。今後明らかになる俊介と父とのことに、この名前の変化が関わるような気がする。

その二
①俊介の出奔。
②俊介と春江が大阪を離れてから、そろそろ一年になるころ春江が身ごもる。(292回)
③家出からほぼ一年半後に、俊介と春江と豊生が、父、二代目半二郎と会う。(今回、293回)
④二代目半二郎と喜久雄の同時襲名は、俊介出奔から三年になるころ。(163回)
 ③と④の間には、一年半ほどの月日があるのではないか。
 
 二代目半二郎は、自分の目が見えるうちに俊介が出て来るとは思えないので、喜久雄との同時襲名を決めたと思っていた。しかし、実は、俊介が近くにいることも、子を連れて許しを請いに来たことも知っていたのだ。
 なぜだろう。すべて、芸のためか。それほど、喜久雄の芸が俊介に勝っていたのか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第293回2017/10/28

その一
 第七章で書かれていた同時襲名の時期と、俊介の子が生まれた時期は、重ならなかった。

その二
二代目半二郎の俊介への思い
①自分の代役に喜久雄を指名した理由は、全く語られていない。
②俊介が出奔した時は、あいつは逃げ出しただけだ、と探そうともしなかった。
③死に際に、駆け付けた喜久雄の前で、俊介の名を呼んだ。
 ③からは、言葉とは裏腹に我が子俊介のことを思い続けていたと受け取れるのだが、それがどうして今回のような反応になるのか?

その三
 二代目半二郎とて、幸子と同じように、俊介の子のことは大切なはずだ。孫というだけでなく、丹波屋の跡取りという意識は強烈なはずだ。それが、今回のような反応になるのはなぜか?
①俊介には、跡継ぎの力量がまだないと、考えているのか?
②春江が母であるので、豊生を受け入れられないのか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第292回2017/10/27

春江が身ごもったのは、大阪を離れてそろそろ一年になるころでございました。(今回)

(略)この同時襲名を受けるということは、出奔して三年になる俊介の役者人生を完全に見限るということにもなるのでございます。(第七章出世魚13 163回)

 喜久雄の襲名以外に、俊介と春江と豊生の大阪行きを阻んだものがあるということか?
 いや、子が生まれたのが家を出てからほぼ二年目で、豊生が一歳になる頃に大阪に戻ろうとしているのか?
 後者だとすると、大阪へ戻る途中に、白虎、半二郎の同時襲名のことを知ったことも考えられる。俊介は、父の眼の病のことを知らないであろうから、同時襲名のことを聞き、自分が跡継ぎとして完全に見捨てられたと思うであろう。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第291回2017/10/26

 古書店なら働くといっても、忙しいことはあるまい。店番でもしながら芸能に関する書籍を、俊介は読み漁ったか。それとも、芸能専門書のしかも古書店となると、その方面に相当詳しい人が出入りするはずなので、古典芸能を知り尽くしている人物に、俊介は出会ったか。
 
 一方、春江の方は予想通り、俊介を養っていた。喜久雄も父が死んでからは、春江のヒモのようなことをしていた。
 今評判の歌舞伎の半弥と新派の半二郎、その二人がそれぞれ短い間とはいえ、春江のヒモだったことになる。

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