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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

2018年02月

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第401回2018/2/17

 恐らく、前回の場面からは年単位の時間が経過しているのであろう。
 喜久雄は、自分の人気と芸を高めるだけでなく、周囲の役者や黒子のことにまで気を配ることができる存在となっていることを感じる。
 俊介については、足を切断するしかなかったであろうが、その後に二通りの予想だ立つ。どちらも、破滅へと向かう姿ではない。
①足がないことを隠さずに、役柄を選び、独特の解釈を加え、白虎でなければできない舞台を創りつつある。
②舞台には二度と立たない決心をする。丹波屋を喜久雄に任せ、俊介自身は世間から身を隠すようにしながら、歌舞伎の研究に没頭した。俊介の歌舞伎への見識がだんだんに認められ、歌舞伎の研究者として、劇評家として、また後進の指導者として、大きな存在になりつつある。

 片足を失った時は、その順調そうな復活の様子を描かれても、逆に不安を感じさせられた。今回は、根拠はないが、むしろ俊介の新たな姿を感じさせられる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第400回2018/2/16

 喜久雄の言葉で考えてしまう。
 二代目半二郎、先代白虎は、なぜあそこまでやったのだろう?

 自分の代役を考えた時に、喜久雄の方が俊介よりは、芸が上だったと思えるが、それもわずかな差であったろう。自分を継ぐべきは俊介であり、俊介本人のことを思えば、代役を喜久雄に回そうと考える余地はなかったはずだ。

 眼がほとんど見えなくなっているのに、舞台に立ち続けたのはなぜか?自分の人気のためでも、借金返済のためでもなかったと思う。
 喜久雄本人のこと、出奔中の俊介に期待することは大きかったと思うが、それよりももっと重いものに突き動かされて、見えないままに舞台に立ち続けたし、舞台にいるのさえ苦しかったはずなのに、襲名披露の口上を述べようとしたのだと感じる。


「俊ぼん、旦那さんはな、最後の最後まで舞台に立ってたよ。」

 死に際に駆け付けた喜久雄が耳にしたのは、俊介を呼ぶ先代白虎の叫びだった。そういう思いをした喜久雄が俊介にかけた精一杯の言葉だった。
 が、今の俊介には、喜久雄のこの思いも届かぬのではないか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第398回2018/2/14

 順調に見えるリハビリの様子しか描かれていなかった。春江が俊介を支え励ます様子は見えなかった。一豊も父を心配する気配はなかった。その分を俊介一人が背負い込んでがんばり抜いたのか?
 俊介が出奔したのは、丹波屋の御曹司でありながら父の代役を務められなかったという自責と、周囲の非難に耐えられなかったからだろう。
 なにがなんでも完全な姿で復活しなければならなかったのは、白虎という名跡と一豊を含む丹波屋のためだろう。
 実力と人気は、獲得するまでは願望と希望の対象だが、それを手にすると、それを維持しなければならないという重荷になってしまうものなのか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第397回2018/2/13

 襲名披露が見事に成功し、源さんへの恩返しもでき、その後のテレビドラマでは歌舞伎以外の場で大評判となった。それでも、俊介には暗い影がつきまっとっていた。俊介の全盛期はそう描かれていた374回感想と思う。

 足を失ってからの俊介が、必死の努力で一歩一歩復活へと歩んでいく様子が描かれていた。だが、それをそのままに受け容れられない何か387回感想が描かれていたと思う。
 
 今回の表現の細部が心に沁みる。

 浴衣姿の俊介が座布団の上で体を崩し、ちょっと足を投げ出します。足といってもすでに義足はとれており、肉の引き攣れた膝が浴衣からちらっと見え、(略)

(略)痛み止めと書かれた薬袋があり、横には飲んだばかりらしいカプセル剤の空き容器が投げ置かれております。

「おっ、俊ぼんも?」
と笑いながら鏡台にあった白髪染めを手にしたのでございます。



 どんなに努力しても、失ったものを、以前のままに取り戻すことはできない。若手の役者としての、男としての全盛期を過ぎた二人の姿が描かれていると感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第396回2018/2/12

 喜久雄と俊介は、血のつながらない二人ではあるが、これほど深い因縁もないほどの間柄だ。それなのに、今までこの二人は、互いの舞台について批評めいたことを言い合った場面の記憶がない。
 これほど、深く知り合っていると、第三者としての評を言うことは不可能なのだろう。そうでありながら、どんな劇評家や目の肥えた歌舞伎好きよりも、互いの長短所を直感的につかむのだろう。
 俊介が、復活の舞台の感想を喜久雄に求めたのは、世間の評判を信じられない思いからだろう。騒がれれば騒がれるほど不安になる俊介を感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第395回2018/2/11

 現実の世の中では、喜びと悲しみは等分だと思っている。若い頃はそうは思えなかったが、この頃は身のまわりの出来事を、悪い事ばかりではないし、良い事が続くこともないと、とらえるようになってきた。だから、もしも宝くじなど当たろうものなら、それに等しい凶事が起こるはずなので、当たらない方がよいと思う。だからか、当たったことはない。
 喜久雄に、喜びが重なっても、驚くに当たらない。喜久雄は、今までにそれ以上の辛い運命を生きて来たと感じる。だが、これだけ喜びが重なると、この喜びと祝い事も長続きはしないとも感じる。
 俊介に、同時襲名披露の大成功と主演したテレビドラマの大当たりの後、辛いことが待ち受けていたように。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第394回2018/2/10

 以前から感じていた。喜久雄、俊介よりもマツ、幸子の方が、人物像がはっきりと感じられる。
 綾乃の背景もくっきりしている。役者に認知された子で、母は芸者。それなのに、綾乃は、男勝りで元気いっぱいの女の子。父のスキャンダルのネタとしてマスコミに取り上げられ、深く傷つき、非行に走った少女時代。徳次の命がけの行動で救われ、さらに、春江の面倒で見事に立ち直る。
 綾乃が春江の下で立ち直ることができたというのも、春江と綾乃のそれぞれの生い立ちを考えれば、納得できる。
 その綾乃が、出版社で自分の好きなことができる道を捨てて、好きな人、夫のために生きることを選んだ。

(略)そうか、この子はもう自分じゃなく、夫や生れてくる子供のために生きているのだ(略)

 おもしろい。感動する。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第393回2018/2/9

 喜久雄、俊介、徳次は、昭和二十三~二十五年生まれの設定なので、団塊の世代に入るだろう。昭和生まれながら一豊と綾乃は、団塊の世代の子の世代になる。
 綾乃の妊娠を知らされ、彰子に「おじちゃんだ」と言われた時に、喜久雄は、「まだ四十六だぞ」(383回)と答えていた。そうなると、小説の今は、平成八(1996)年前後ということになるだろう。この時に一豊が二十歳とすれば、昭和五十(1975)年生まれであろう。
 今回の喜久雄と一豊のやりとりのように、同じ昭和生まれでも、昭和二十年代生まれと、昭和五十年代生まれの間には、これだけの溝がある。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第392回2018/2/8

 めぐり合わせというものは、あるものだ。
 俊介の父は、同時襲名披露の舞台で倒れた。俊介は、同時襲名披露の舞台は無事に終えたが、その後の公演で、病に襲われた。
 綾乃は、春江の下に預けられて、立ち直り、成長することができた。一豊は、父の危機の時に喜久雄に預けられた。
 ただし、俊介は父のように戻らぬ人とはならないだろうし、そうはならないことを願う。一方、一豊の方は、綾乃のように成長するか、危ぶんでしまう。

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